2013年07月02日

神仏は妄想である。419

アブラハムも死ぬ。
その前には、妻のサラが死んだ。

その妻を葬るために、やっと、手に入れた洞穴の土地・・・

結局、アブラハムは、寄留者として、生きた。
そして、その後を継いだ息子のイサクが死に、その息子のエジプトに下った、ヤコブが死に、イスラエルの歴史は、その本質において、寄留者の歴史となった。

約束された土地・・・
神が示した土地などは、無かった。

アブラハムの旅がそうであったように、彼らの生涯かけての遍歴は、始終一貫、土地取得の願望につらぬかれていた。土地を求めて、彼らはさまよい続けた。土地を求めることと、神を求めることとは、彼らの中で、まったくひとつになっている。かれらの願望が、いかに切実で激しいものか、計り知ることができない。
山形孝夫

アブラハムが、やっと手にした、妻を葬るための、エフロンの畑の土地・・・
それが長く、イスラエル民族の記憶に留められ、伝承として伝えられたのは、その所有権の獲得が、墓地としての条件つき使用ながら、イスラエルの歴史を通して、画期的な出来事だったのだ。

その、無責任な神の声の主は、何者か解らないが・・・
兎に角、イスラエルは、今に至るまで、そのようである。

現在の、イスラエルという国は、武力で奪った土地である。
更に、近隣諸国との紛争が絶えない。

そして、世界に散らばる、ユダヤ人たち・・・

彼らは、今もなお、神の声に翻弄されている。
そして、メシアを望むという・・・

その、メシアを乗っ取られた。
キリスト教である。
イエスが、ユダヤ教の伝承にある、神の子、メシアとして、讃えたキリスト教である。

ところで古代社会における農耕民や遊牧民の生活は、変化にたいして、想像以上に固定的な、いわば伝統指向的性格によって支配されていたとみることができる。このことは、旧約聖書を理解する場合、とくに重要な鍵となる。
山形

農民が遊牧民になること、その逆のことは、決して起こらないのである。

山形氏が言う、伝統指向的性格である。
変化を求めないのである。
それは、先祖を裏切る行為になり、その部族からの離脱を意味し、更には、死ぬことを意味するほどである。

では、アブラハムが、その一族と共に行った行為は、どう理解するのか。
そこには、変化への志向がある。
伝統的パターンからの逸脱である。

それは、遊牧、移動の生活から、定住農耕への転換である。

アブラハムは、ただ、神の声に従ったのみである。
と、共に、アブラハムは、イスラエルの歴史における、伝統指向の殻を破った最初の人である。

その神の声・・・
あなたを大いなる国民にし・・・
あなたの名を高める・・・

つまり、現状が、その反対だった。

寄留者の倫理は弱者の倫理だったのである。
山形

創世記は、その話で一杯である。
イサクからヤゴブ、ヤコブの子どもたちの代になると、次第に、状況が違ってくる。
群れの数は大きくなり、奴隷の数も増大する。
他部族を脅かすほどの勢力になりつつあった。

ここで、個人的に注目することがある。
奴隷の存在である。
彼らも、エジプトの奴隷になるのであるが・・・
奴隷が、どんな民族であったのか、書かれていない。
ここに、旧約聖書の蒙昧がある。決して、人類の物語ではないのだ。

さて、創世記34の、カナンの地シケムの町の殺戮は、そうした力関係を背景にして起こったものである。

だが、やがて、大飢饉が、カナンの地一帯を襲い、ヤコブ一族が、激しい飢餓に見舞われたとき、彼らは、益々苦しい移動を強いられた。
そして、ヨゼフの誘導により、エジプトに辿りついた彼らは、エジプト王の前で、
あなたの僕であるわたしどもは、先祖代々、羊飼いでございます。・・・
わたしどもはこの国に寄留させていただきたいと思って、参りました。カナンの地方は飢饉がひどく、僕たちの羊を飼うための牧草がありません。僕たちをゴシェンの地に住まわせてください。

エジプトへ下った、ヤコブの群れは、一族だけでも、70人に達する大家族だった。

それを支える、羊、牛、家畜を扱う者、奴隷の数を入れると、大変な群れである。

ヤコブもエジプトの寄留先で、死の床に就く。

アブラハムから、イサク、ヤコブに至る遍歴の物語は、イスラエルの歴史を通じて、族長史と呼ばれる。

それは、神話と、伝説の集成であった。

山形氏は、ここで、二つの明確な輪郭を持っているという。
一つは、放浪の旅は、始終一貫、土地取得の旅だった。
二つ目は、彼らの寄留者の生活は、砂漠のベトウィンとポリス的生活者との、中間に位置していた。

ベトウィンとは、砂漠の遊牧民の生活である。
セム族の間では、人間は、すべてアラブと、ハザルの二つに分類されるという。
アラブは、砂漠の天幕生活であり、ハザルは、家屋生活者である。

この二つが、それぞれ、又二つに細分される。

アラブは、ベトウィンとシュワヤ、ハザルは、カラワニとライイエである。



posted by 天山 at 01:05| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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