2013年07月11日

天皇陛下について156

フランス革命より、一世紀あまり前の、イギリスの清教徒革命。
その革命は、クロムウエルの独裁を生み出し、革命議会は、クロムウエルの独裁を強化し安定せしめるために、彼を国王として、就任することを求める勧告を決議したのである。

この勧告に対して、クロムウエルは、態度を明確に出来なかった。

国王即位を辞退しつつも、はなはだ明確さを欠いたので、この問題は、長期に渡り、結論が出なかった。

この問題は、クロムウエルの矛盾を表に出すことになるのである。つまり、革命により、王制を廃止した。
そして、更に、反革命に対して、最も強力にして有効な体制たるうるものは、新しい王制である。
が、彼が主張してきた共和国思想との間に、矛盾が生ずるのである。

更に、軍隊には、激しい王制反対論があった。

結局、クロムウエルは、王たることを、辞退したのである。

そして、終身独裁官に止まる。
彼が死ぬと、その子が、独裁官になったが、たちまちにして、共和革命政府が倒された。

王政復古の反革命が、勝利したのである。

専制国王を倒した近代民主革命の先駆とみられるイギリスの、清教徒革命で、共和国議会が新しい王を立てる決議をした。だが、クロムウエルの辞退で、実現しなかった。
その代わりに、古い王が復帰して、革命は挫折し、出直した名誉革命では、初めから新しい王を準備して、イギリスは、立憲王制のコースを辿るのである。

何故このようなことになるのか・・・

その一つは、革命の主体である、人民は、チャールズ国王や、ルイ国王に対して、反抗したが、君主制というものに対しては、否定しないということである。

人民の、君主制という、感覚は、根強く生きているのである。

人民大衆の意識を知るためには、その行動を見ることである。
政治思想家などの、著述を参考にしても、解らない。

人民大衆は、ブルボン王朝を否定したが、君主制そのものを否定したのではない。

実際、フランスでは、ナポレオン皇帝を憧れる意識が、その後も長く続き、国民の意識に根強く残ったのである。
それにより、ナポレオン三世が、それを利用して、再び、帝制を立てた。

ナポレオン三世が、実力なき虚栄心の人であっても、実力無きナポレオン三世を再び、皇帝にしたという、人民大衆の心理が問題なのである。

この、第二次ナポレオン帝制が、倒されたのは、ドイツ・ビスマルクの軍隊によるものである。

それは、フランスの大革命から、80余年を過ぎた頃である。

フランスの、ボナパルト的皇帝思想は、ブルボン・オルレアンの王党思想と共に、その後も、長く後を引いて、フランスの国民心理の底流として残るのである。

古い王国の伝統を有する国では、革命が勝利しても、50年から100年で、帝王意識が、消えうせるものではないということである。

日本の敗戦後、天皇制反対、天皇制廃止と掲げた、共産主義者たちがいるが、全く、事の次第を知らない。

天皇の代わりに、レーニンを座らせるという意識だろうが・・・

実に、馬鹿馬鹿しいことであり、馬鹿馬鹿しいお話である。

それでは、そのスターリンを見ると・・・
ロシアの専制的ツアーリズムに対する、反抗革命は実に長い時間を要した。
ロシア帝制は、国際的にも、評判が悪かった。

革命前の宮廷では、様々な陰謀が渦巻いていた。
帝室に対する、不信の念は、あらゆる階級にあった。
しかし、ロシア国民の間に、なお、帝室が、大きな心理的権威を有していたのである。

1917年の二月革命で、ニコライ二世が退位を宣言し、その弟を後継者として、指名した。

革命政府の一部では、皇帝即位を肯定する者もいた。
皇帝の弟ミハイル大公は、新憲法制定の建国会議で、国民多数の容貌があれば、その時に、帝位を継ぐ、と述べた。

当分の間、皇帝の座は、空位となった。

ニコライ二世は、ツアルスコエ・セロ宮殿に幽閉されていた。

革命議会では、死刑廃止法案が可決された。
つまり、フランス革命のように、国王を死刑にするということを、予防するものだった。

だが、その後、三ヵ月後に、革命の政局が急変した。
レーニンを頭首とする、ボルセヴイーキの政権が成立したのである。

翌年には、憲法会議を解散して、独裁体制に入る。
反革命もまた、戦闘意識が高まった。

結果を見る。
レーニンは、皇帝一族を皆殺し、虐殺した。

その際の、死刑執行は、ロシア人ではなく、ユダヤ人を隊長にして、兵士も、外国人である。つまり、ロシア人では、皇帝を虐殺出来ないと、見たからである。

その後のロシアは、史上かつて無い、内戦状態に陥ったのである。

狂気のような、残虐な戦闘というから、凄まじいものである。

この凄まじい内戦状態に対決した革命の指導者レーニンが目指したものは、皇帝以上の独裁的権威と権力である。

レーニンは、終身独裁者となっただけではない。人民の政治的自由というものを、一切圧殺してしまったのである。
クロムウエル、ナポレオンの独裁には、まだ批判する者が、残されていたが、レーニンの場合は、一切の反対者を圧殺した。
私人の家庭内でさえ、自由な批判は危険とされた。

そして、赤色テロの時代は、最も徹底した自由圧殺の時代となるのである。




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2013年07月12日

天皇陛下について157

レーニンは、唯物弁証法の哲学者であり、清教徒クロムウエルとの思想とは、極端に違う。

しかし、その政治的運命は、実に似ている。
クロムウエルは、王党と戦いつつ、側面においては、水平派の運動と戦った。

レーニンは、王党・ブルジョワ地主と戦い、社会党・メンセヴイキと戦うのみならず、革命政権を獲得する時、最も功績を上げた、クロンスタットの海兵隊をも殺したのである。

クロムウエルは、終身独裁官として、その将来の後継者に不安を感じたままに死んだ。
レーニンも同じである。

レーニンの遺言は、スターリンにも、トロッキーにも、不安と不信を感じていた。

そして、彼の政党である、ボルセヴィーキが、断固たる独裁的指導者を必要としていたことは、レーニンが最も知ることだった。

誰が、レーニンの後継者たるべきか・・・
その権力は、絶大で、史上のいかなる帝王も及ばないほどでなければならない。

それは、政治的経済的軍事的外交の、一切の公権力を支配し、新時代の人民のすべての、世界観、人生観の指導者となり、支配者とならなければ、いけないのである。

そして、猛烈な党内での闘争が続き、スターリンが、その地位を得た。

スターリンが、その地位に就くまでに、トロッキー、ジノビエフ、ラデック、ルイコフ、ブハーリンなどをはじめ、革命の第一級の功労者たちと、その系列の多数の党員を、裁判と、テロで抹殺しなければならなかった。

レーニンは、共産党の外側のロシア人を殺しつくし、スターリンは、それを継承するために、共産党の内部で、血を流したということである。

1930年、スターリンは、農業政策の大転換を試みて、この政争を通して、反対派に対し、決定的な打撃を与えた。

数百万人の農民と、党員が、投獄され、銃殺されたのである。

この1930年代は、スターリンの粛清を、古い質的状態から、新しい質的状態への、革命的変革であると、意義づけた。

更に、スターリンの独裁は、いかなる帝王の独裁よりも、権威あるものでなければならなかった。

スターリンは、ソ連の光栄を象徴するもの、と公言された。

スターリン体制と、ソ連邦体制は、一体であると、主張されなければならなかったのである。

そして、スターリンの神格化は、一直線に上昇する。

そこで、分析すると、スターリン主義は、彼一人の心得違いから生まれたものではないのである。
それは、ロシア革命の中に、スターリン神格化を生み出すべき条件があったのである。

スターリンは、ナポレオン的皇帝以上の存在に、ならなければならないのである。
だが、ナポレオンのように、人民投票の承認の必要も無かった。

スターリンの精神的権威は、マルクス主義である。
マルクス主義理論で説明がつけば、それですべて足りたのである。

レーニン、スターリン共に、マルクスの政治理論を発展させて、独裁政権を正当化することができたのである。

だが、矛盾がある。
個人の私有財産相続の自由を否定したマルクス主義の理論から、ナポレオン的皇帝の理論を引き出すことは出来ない。

要するに、スターリンは、世襲皇帝とはならない。なれないのである。
それでも、彼は、ナポレオン皇帝以上に、権力と、高度的集中を必要とした。

国王以上に絶対的な、帝王とならなければならないのである。

ここに、凶暴なスターリン神格化への暴走がある。

絶対専制の苛烈さである。

日本の共産主義者が、天皇を絶対専制と断定する、何物も無いのである。
この、スターリンの神格化への道と、日本の天皇の存在は、全く異質、次元も違うである。

スターリンの、神格化は、現代世界のいかなる国王よりも、厳しく、絶対的なものである。しかし、常の帝王よりも、遥かに帝王的なスターリンの神格化も、決して、スターリン一人の変質的性格からではない。

ロシア革命の歩みが、それを生み出したのである。
それが、人民が求める、為政者の姿である。
つまり、人民が、崇める為政者が必要なのである。

皇帝を殺してしまった後で、更に、皇帝を求めるという、人民の心理である。

世界史の上で、スターリンほど、絶大な権威と権力を行使した者は、いかなる帝国の皇帝にもいなかった。

ソ連はもとより、中国、ベトナム、朝鮮から、西はバルカンの諸国に至るまで・・・

中国の毛沢東は、スターリンより劣るが、その精神的権威と、権力は、明らかに、スターリンを真似ている。

中国人民は、政治的社会的生活において、すべて毛沢東の命令に服しなければならなかった。

更に、その精神的心理的生活においても、毛沢東思想に、批判的思考を許されないのである。
中世のローマ法王より、それは、遥かに決定的な精神的権威であった。

いかがだろうか・・・
日本の天皇の存在を考える上で、私は、これらの権力者たちを俯瞰しているが。
全く、異質、次元が違うということが、理解出来るだろう。

もう少し、この話を続ける。

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2013年07月13日

天皇陛下について158

非スターリン的なるものの、一切を永遠に葬り去るという、絶対専制の主人でも、死ぬ。

その時、その後継者をどうするのか・・・

レーニンは、結果的に、後継者を指名せずに死んだ。
人間は、死ねば、終わりである。
どれ程の、絶対的権威を持つ者も、死ねば、それで終わる。

レーニン後、スターリンは、自分こそは、もっとも忠実なレーニンの門弟だと、主張したのである。
そして、それを信じ込ませるだけの、戦闘経歴も政治能力もあった。

それでは、スターリン後のソ連は、どうか・・・

矢張り、その後継者は、決まっていなかった。
そこに、実は、不幸がある。

ソ連共産党は、どうしたのか・・・
最高幹部の集団指導体制で進むことにした。

だが、集団指導というのは、一党独裁では、非常に難しいのである。
もし、その幹部の意見が、それぞれ人民に知らされたら・・・
大きな矛盾が起きる可能性大である。

一党独裁が成り立たなくなる。

クレムリンの一室で、検討されたとしても、それが表に洩れてはならない。
表に出る時は、微動だにもしない、一つの党の意志として、表明されなければならないのである。

日本でも、その例がある。
徳川幕府である。

複数の老中が、検討して、幕府の意見を決める。
そして、その内容は、天下に公表されるまでは、厳重に秘められる。

天下に公表される際は、東照神君、家康の後継者たる将軍の命として、成されるのである。

人民にすると、それは、絶対的にして、批判できないものである。

スターリン没後、ボルセヴィキの集団指導者たちは、初めは、スターリンに習い、スターリンの忠誠な門弟として、称していた。
だが、それは事実ではない。
スターリン主義は、動揺し、一同の意志の統一は、至難の業だった。

であるから、まず、ラブレンチ・ベリヤが、抜き打ち的に銃殺された。
彼は、治安警察隊の実力者であった。だから、内乱に陥る可能性もあった。
しかし、他のリーダが、赤軍を抑えて、支持を得たので、その危機を乗り越えた。

すると、次から次と、粛清がはじまった。
マレンコフ、ブルガーニンが消えて行き、スターリン時代の有力者である、モロトフ、カガノヴイッチの古参党員も、抹殺された。

そして、フルシチヨフが残り、彼が、独裁権を継承したかに見えた。
だが、大きなミスを犯す。
軽率にも、スターリン批判をしたのである。

ソ連、国際共産党の権威は、レーニン、スターリンにあった。
それを破ると、どうなるのか・・・
スターリンの神格化が崩れると、たちまち、ポーランドで政変が起こり、ハンガリーでは、内乱が起こった。

中国共産党は、フルシチヨフの軽率を批判し始めた。

これは、独裁者の後継として、自殺行為であった。

フルシチヨフの国際共産党戦線における地位は、急転落した。

国内的にも、威信を失い、引退を余儀なくされた。

毛沢東は、スターリンの批判をしなかった。
もし、批判をすれば、自らの過去の誤りを、自己証明するものとなる。

その後、ブレジネフが中心となり、閣老が独裁を続けたのである。

その後のことは、見ての通り。

一党独裁は、絶対的権威を持って、容赦することなく、自由の声を圧殺するのである。
ソ連共産党、中国共産党、然り。

そして、思想、信条の自由も、人民は、持つことが出来ないのである。

更に言えば、人民も、そのような権力を求めたといえる。
国王に代わり得るもの・・・

無形の権威を求めるのが、人民である。

すべての、自由を奪い、絶対的権力と、権威を有する・・・存在・・・

それでは、日本の天皇の存在は、どうか・・・

日本の共産主義者、サヨク系の人が言う。
天皇の独裁専制政治と・・・
彼らは、それよりも、更に、酷い共産党の独裁体制を見ているにも関わらず、そのように言う。

天皇が、独裁であったことは、一度たりとも無いのである。
歴史は、それを教える。
そして、人民を絶対的権力で、縛り付けることもなかったのである。

逆に、権力者に対して、人民、国民の側に立ち、意見をしていた。
全く、その独裁体制の主たる存在とは、異質であり、次元も違うのである。

天皇は、更に、進化する存在である。
その時代、時代に合わせて、天皇ご自身も、進化してゆくのである。

では、民主主義における、権力と権威の在り様を見ることにする。
それは、大統領制度にある。
何故、国の顔である、大統領が必要なのか。
それも、国王の位に当たるものである。


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2013年07月14日

天皇陛下について159

集団的指導者・・・
それは、集団が求める。つまり、人民が求める。

集団には、リーダーが必要不可欠であるということだ。
集団の本能であるとも言う。

人民に対して、公示されるクレムリンの意志は、常にただ一つである。そして、絶対命令なのである。
それは、本質的にスターリンと同じく、唯一絶対の党の権威として・・・
スターリン時代と同じく、ソ連の人民は、同一の言葉を語り、同一の思想の型で考える。

恐ろしいほどの、蒙昧である。
しかし、それが、支配思想なのである。

さて、それでは、アメリカの大統領は、どうなのか。

最初、アメリカの大統領選は、選挙された帝王を生み出すのではないかと、危惧された。

ジェファーソンは、特に大統領の再選に反対した。
憲法の条文には、再選を禁じることはなかったが、初代大統領のワシントンが、三選を辞退して、大統領が終身独裁官、帝王になることのないように、一つの見本を作ったといえる。

そして、それを、アメリカ人は、誇りにしている。

アメリカの民主共和国が円満に成長したのは、ワシントン、ジェフーアソンの民主精神も役立った。

ワシントンは、民主共和制の理想に忠実だった。
だが、軍隊の中では、彼を国王に推挙しようという、動きもあった。

ナポレオン、レーニン、スターリンとの違いは、条件が違うのである。

アメリカの建国には、フランス、ロシアのような反革命の懸念が無い。
更に、イギリスは、フランスの反革命援助で忙しく、アメリカ植民地の恢復のために、力を注ぐ熱意もなかった。

つまり、ワシントンが、独裁者にも、皇帝にもならなかったのは、アメリカが大西洋によって、欧米と切断されていたからである。

建国当初から、政争はあったが、それは、取るに足らないものだったといえる。

更に、建国に当たり、大きな鋭い敵対者がいなかったことも挙げられる。

このような、条件化では、レーニンでも、ナポレオンでも、終身独裁者など、求めなかっただろう。

歴史的地理条件が、全く違うのである。

ワシントンは、スターリンほど、神格化されなかったが、それなりに、その伝記により、神格化されている。

建国者ワシントンは、良き市民である。
公正、誠実、謙虚、勇気、博愛、というアメリカ市民の模範とされた。

ワシントンの建国神話は、アメリカ市民が生み出した、道徳文化である。

そして、西欧からも、干渉されなかった。

だが、このアメリカでも、ワシントン国王説、ワシントン神話が存在したということである。

進歩的文化人というものたちは、君主世襲、帝王神格化とは、古代的なもので、近代民主革命以来は、古い過去のものとして、滅びてしまうようなことを言うが、違う。

それは、実に浅はかな考え方である。

集団生活を営んできた、人類の歴史から見れば、当然必要な存在なのである。
更に、神話である。

20世紀を見ると、民主主義を掲げる、独裁者が多いという、印象を持つ。

少なくとも、その権力が、30年から50年を経ると、世襲的君主になってゆくのである。

アメリカの思想、大統領の二期八年以上もの長い政権を維持する場合は、その政権は、王制化するという、考え方によれば、それ以上になると、王制そのものである。

人民、国民の、社会心理を俯瞰する時、精神的政治的権威が、世襲になってゆくのを、容認する場合が多い。

その国の精神的条件化により、父から子への継承は、案外に、無難で、有効であるという、見方も出来るのである。

20世紀の政治世界では、独裁者が、大きな潮流であることは、疑い得ない。
そして、それらの指導者は、多くは右翼、左翼の精神的権威者を持って、自ら任じている。

そして、彼らは、いかなる王国の君主より、強圧的な帝王的権威と、独裁的権力を持つことにおいては、共通しているのである。

専制的帝王よりも、専制的独裁者の共和国が、20世紀の潮流となっていたこと、否定は出来ないのである。

そして、それらの国が、日本や、イギリスの君主国より、進歩的だと、言いえるのか。

君主制を廃止した、君主に代わる、統率者の性格が、どのようなものであるか・・・
今一度、見極めて欲しいと思う。

結果は、君主的な国王的なものを、絶えず、再現させようとする社会心理を否定できないのである。

つまり、天皇陛下について、である。
その歴史、今年、2673年である。
2700年の伝統を有する、天皇家、皇室・・・
自然発生的に、成り立つ皇室であり、歴代天皇の御努力により、築かれてきた存在である。

更に、日本民族は、その智恵により、皇室を尊び、崇敬してきたのである。
一夜の革命により、発生したテロリストのような暴力的存在ではない。

天皇陛下が、認めない、朝廷が認証しない権力者は、国民が受け入れないという、国柄である。

天皇の命により、国の統治を任せられた存在だから、国民が従うのである。
そして、その天皇陛下は、いつも、国民の側にいて、権力者、為政者に対し、お言葉を述べるのである。

宣命・・・
天皇のお言葉に従う者、それこそ、国民の願う、為政者である。


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2013年07月15日

もののあわれについて618

東の御方へ、これよりぞ渡り給ふ。今朝の朝寒なるうちとけわざにや、もの裁ちなどするねび御達、御前にあまたして、細櫃めくものに綿ひきかけてまさぐる若人どもあり。いと清らなる朽葉の薄物、今様色の二なくうちたるなどひき散らし給へり。源氏「中将の下襲か。御前の壺前栽の宴もとまりぬらむかし。かく吹き散らしてむには何事かせられむ。すさまじかるべき秋なめり」など宣ひて、何にかあらむ、さまざまなる物の色どものいと清らなれば、かやうなる方は南の上にも劣らずかしと思す。御直衣花文綾を、この頃摘みいだしたる花してはかなく染め出で給へる、いとあらまほしき色したり。源氏「中将にこそかやうにてき着せ給はめ。若き人のにてめやすかめり」などやうの事を聞え給ひて、渡り給ひぬ。




東の御方、花散里へ、ここから渡られる。今朝、朝方の寒かったせいの家事だろうか。不布地を裁ったりする年上の女房たちが、御前に大勢いて、細櫃のようなものに、真綿を引っ掛けて、延ばしている、若い女房たちがいる。
大変綺麗な、朽葉色の薄物や、流行の見事に艶出ししたものなど、そらこちに散らかしている。源氏は、中将の下がさねか。宮中での、壺前栽の宴も、この風では中止になるだろう。こんなに吹き荒れたのでは、何が出来よう。今年は、面白くない秋になる、などとおっしゃり、何の着物か、色々な布地の色がとても美しいので、こういったことでは、紫の上にも、負けないことだ、と思われる。
源氏の御直衣の花文綾、けもんりょう、を、この頃、摘んできた花で、さらりと染めたのが、大変に良い色である。
源氏は、中将に、このようなものを着せなさい。若い人のものとしては、結構だ。というようなことを言って、お渡りになった。

当時は、女房たちが、そのような染めを行っていたと、解る。




むつかしき方々めぐり給ふ御供にありきて、中将はなま心やましう、書かまほしきふみなど、日たけぬるを思ひつつ姫君の御方に参り給へり。乳母「まだあなたになむおはします。風におぢさせ給ひて、今朝はえ起きあがり給はざりつる」と御乳母ぞ聞ゆる。夕霧「ものさわがしげなりしかば宿直も仕うまつらむと思ひ給へしを、宮のいとも心苦しう思いたりしかばなむ。雛の殿はいかがおはすらむ」と問ひ給へしを、人々笑ひて、「扇の風だにまいればいみじき事に思いたるを、ほとほとしくこそ吹き乱り侍りしか。この御殿あつかひにわびにて侍り」など語る。




難しい方々の所を廻る御供に、あちこちと行って、夕霧は、何やら気持ちが優れず、書きたい手紙など、今は日が高くなってしまったと思いつつ、姫君の部屋に入られる。
乳母が、姫様は、紫の上の方においでです。風を怖がり、今朝は、起きられませんでした。と、申し上げる。夕霧は、酷く荒れた様子でしたから、こちらに宿直しようと思いましたが、大宮が大変に怖がりまして。お雛様の御殿は、どうでしたか、と問われると、女房たちが、笑って、扇の風でも当たると、一大事に思っていらっしゃるのですから、壊れそうなほどに風が吹きましたら・・・この御殿のお世話は、困りきっております。などと、報告する。




夕霧「ことごとしからぬ紙や侍る。御局の硯」と乞ひ給へば、御厨子によりて、紙一巻、御すずりのふたに取りおろして奉れば、夕霧「いな。これはかたはらいたし」と宣へど、北のおとどのおぼえを思ふに、少しなのめなる心地してふみ書き給ふ。紫の薄様なりけり。墨、心とどめておしすり、筆のさきうち見つつ、こまやかに書きやすらひ給へる。いとよし。されどあやしく定まりてにくき口つきこそものし給へ。




夕霧は、ちょっとした紙がありますか。それからお局の硯と、求めると、御厨子の傍に行き、紙一巻を硯の蓋に取り下ろして、差し上げる。夕霧は、いや、これは、もったいない、とおっしゃるが、北の御殿に対する、世間の評価を考えると、まあそれほどまでに思わなくてもいいという気がして、手紙を書くのである。
紫の薄様であった。墨を注意して、ゆっくりとすり、筆先を良く見て、念を入れ、書きながら、筆を休めている。実に良い。
だが、変に型にはまり、感心しない、読みぶりである。

明石の御方に贈る手紙である。
その身分を考えて、それほど、気にしなくてもいいと、思うのである。

その明石の姫君の硯と、筆を使うのである。




夕霧
風さわぎ むら雲まがふ 夕にも わするるまなく 忘られぬ君

吹き乱れたる刈萱につけ給へれば、人々、「交野の少将は、紙の色こそ、ととのへ侍りけれ」と聞ゆ。夕霧「さばかりの色も思ひわかざりけりや。いづこの野辺のほとりの花」など、かやうの人々にも言少に見えて、右馬の助に賜へれば、をかしき童、またいと馴れたる御随身などに、うちささめきて取らするを、若き人ただならずゆかしがる。




夕霧
風が騒ぎ、むら雲が起こる酷い夕べでも、忘れる間とてなく、忘れることの出来ない君。

吹き乱れた刈萱に、この文をつけたので、女房たちは、交野、かたのの少将は、紙の色と同じ草木に結びましたと、申し上げる。夕霧は、それほどの色を、思いつかなかった。どこの野の花かな、などと、このような女房たちにも、あまり物を言わない有様で、親しい隙も見せず、生真面目で、気品がある。
更に、もう一通お書きになり、右馬の助に渡されると、可愛らしい童と、もう一人、心得のある御随身などに耳打ちして渡すので、若い女房たちは、酷く気にして、どなたへのお手紙かと、知りたがるのである。

交野の少将とは、昔物語の主人公である。



posted by 天山 at 05:57| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月16日

もののあわれについて619

渡らせ給ふとて、人々うちそよめき、凡帳ひきなほしなどす。見つる花の顔どもも思ひ比べまほしうて、例は物ゆかしからぬ心地に、あながちに妻戸の御簾をひききて凡帳のほころびより見れば、物のそばよりただはひ渡り給ふ程ぞ、ふとうち見えたる。人のしげくまがへば、何のあやめも見えぬほどに、いと心もとなし。薄色の御衣に、髪のまだ丈にははづれたる末の、ひき広げたるやうにて、いと細くちひさき様体、らうたげに心苦し。をととしばかりは、たまさかにもほの見奉りしに、またこよなく生ひまさり給ふなめりかし、まして盛りいかならむ、と思ふ。かの見つるさきざきの桜、山吹といはば、これは藤の花とやいふべからむ、木高き木より咲きかかりて風になびきたるにほひはかくぞあるかし、と思ひよそへらる。かかる人々を心にまかせて明け暮れ見奉らばや、さもありぬべき程ながら、へだてへだてのけざやかなるこそつらけれ、など思ふに、まめ心もなまあくがるる心地す。




明石の姫君が、こちらに帰られるという知らせがあり、女房たちが、ざわめいて、凡帳などを、整える。先ほど見た、花に見まがう美しい方々と、比較したくて、いつもは、別に見ることも無いが、無理に妻戸の御簾に半身を入れて、凡帳のほころびから覗くと、物影から、そっといざって、来るところが、ちらっと見えた。
大勢の女房たちが、行ったり来たりするので、はっきりとは、見定められず、気が気ではない。
薄紫のお召し物に、髪のまだ背丈になっていず、切っていない裾は、末広がりで、細く小さな体つきが、可愛らしく見える。痛々しいほどだ。
一昨年くらいまでは、たまに、お姿を拝見したものであるが、年とともに、ずっと美しくなったようである。まして、年頃には、どれほど美しくなるだろう、と思う。
あの先ほどの方々を、桜や山吹に例えれば、この姫君は、藤の花というべきだろう。背の高い木に咲きかかり、風に揺れている美しさは、このようなもの、と、比較するのである。
こんな方を、思う存分に、朝夕、お相手したいものだ、などと思うと、いつも誠実な方も、そぞろ心が落ち着かない。

最後は、作者の言葉である。

へだてへだてのけざやかなる・・・
これは、源氏の教えである。
誠実にという・・・




おば宮の御もとにも参り給へれば、のどやかにて御おこないし給ふ。よろしき若人などここにもさぶらへど、もてなしけはひ装束どもも、さかりなるあたりには似るべくもあらず。容貌よき尼君たちの墨染にやつれたるぞ、なかなかかかる所につけては、さる方にてあはれなりける。内の大臣も参り給へるに、大殿油など参りてのどやかに御物語など聞え給ふ。大宮「姫君を久しく見奉らぬがあさましきこと」とて、ただ泣きに泣き給ふ。大臣「今この頃のほどに参らせむ。心づから物思はしげにて、口惜しうおとろへにてなむ侍める。女子こそ、よくいはば、持ち侍るまじきものなりけれ。とあるにつけても、心のみなむ尽くされ侍りける」など、なほ心解けず思ひおきたる気色して宣へば、心憂くてせちにも聞え給はず。そのついでにも、大臣「いとふでうなる女まうけ侍りて、もてわづらひ侍りぬ」と、うれへ聞え給ひて笑ひ給ふ。大宮「いであやし。女といふ名はして、さがなるやうやある」と宣へば、内大臣「それなむ見苦しき事になむ侍る。いかで御覧ぜさせむ」と聞え給ふとや。




夕霧が、おばあさまの大宮のところにも、上がられた。静かな、お勤めをしている。相当な、若い女房なども控えているが、物腰も、様子も衣装も、栄華を極めるところには、とうてい及びも付かない。
器量のよい尼君たちが、黒染めの質素な姿でいる方が、かえって、こういうところとしては、尼は尼として、あはれなりける。しみじみとした、感じがある。
内大臣も、いらっしゃり、灯をつけて、静かにお話をされる。大宮は、姫君に長いこと、お会いしていないのが、情けないと、おっしゃり、ただ、泣くだけである。内大臣は、もうすぐ、こちらに伺わせます。自分の招いた苦労で、惜しいほど、やつれているようです。娘というものは、はっきり申すと、持つべきではありません。何かにつけて、心配ばかりさせられる。など、今も、なお含みのある言い方でおっしゃるので、嫌な気持ちがして、強くも言わない。この話のついでに、内大臣は、まことに、不出来な娘を引き取りました。始末に困っています、と愚痴をおっしゃり、笑う。
大宮は、変ですね。あなたの娘である以上、出来の悪いことがありましょうか、とおっしゃると、それが、とても、見られたものではありません。いずれ何とか、お目通りさせましょう、と、申し上げる、様子。

さる方にてはあはれなりける
その様子が、あはれ、である。
しみじみと・・・
という、言葉で、それを表現するが・・・

学者の怠慢である。
切々とした・・・
遥かに深い思いを・・・

など、いろいろと表現ができる。

野分を終わる。


posted by 天山 at 06:58| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月17日

もののあわれについて620

御幸 みゆき

かく思し至らぬ事なく、「いかでよからむ事は」と思しあつかひ給へど、「この音なしの滝こそ、うたていとほしく、南の上の御おしはかりごとにかなひて、軽々しかるべき御名なれ。かの大臣、何事につけてもきはぎはしう、少しもかたはなる様の事を思し忍ばずなどものし給ふ御心ざまを、さて思ひぐまなく、けざやかなる御もてなしなどのあらむにつけては、をこがましうもや」など、思しかへさふ。




このように、ご注意の至らないところなく、源氏は、何とか良い道があれば、と思案されるが、この人知れぬ恋心は、あの内大臣は、何事をもはっきりさせて、少しでも、中途半端なことは、我慢出来ずにいる気性なので、それならそれでと、何の含みもなく、はっきりした御扱いなどがある日は、笑止の沙汰になるだろう、などと、自省される。

玉葛のことを考えて、世話をする源氏の気持ちである。
姫君として、表向きは、華やかに取り扱うのだが・・・
をこがましうもや
本当は、馬鹿馬鹿しいことなのだ。




その十二月に、大原野の御幸とて、世に残る人なく見騒ぐを、六条院よりも御方々引き出でつつ見給ふ。卯の時に出で給うて、朱雀より五条の大路を西ざまに折れ給ふ。桂川のもとまで物見車ひまなし。御幸といへど必ずかうしもあらぬを、今日は親王達、上達部も、皆心ことに御馬、鞍を整へ、随身馬副のかたち丈だち装束を飾り給うつつ、めづらかにをかし。左右大臣、内大臣、納言よりしもはた、まして残らず仕うまつり給へり。青色のうへの衣、葡萄染の下襲を、殿上人、五位六位まで着たり。雪ただいささかづつうち散りて、道の空さへえんなり。親王達上達部なども鷹にかかづらひ給へるは、めづらしき狩りの御装どもを設け給ふ。近衛の鷹飼どもはまして世に目なれぬすずり衣乱れ着つつ、気色ことなり。




その年の、師走に、大原野の御幸とあり、一人残らず見物に騒ぐが、六条の院からも、ご婦人方が、続々と、牛車を出して見物される。卯の時、午前五時頃、御出門なさり、朱雀から五条の大路を西の方に折れて、進まれる。桂川のところまで、物見車が、びっしりと並んでいる。御幸といっても、いつもはこれほどではないのだが、今日は、親王たち、上達部も、皆特別気を配って、馬や鞍を整え、随身馬副の容姿、背丈衣装を凝らして、見事で素晴らしい。左右の大臣、内大臣、納言より下となると、これは揃って、お供をされる。青色の衣の着物に、葡萄染めの、下襲、したがさね、を、殿上人や五位六位までも、着ている。雪がほんの少しちらついて、道の空さえ、心も弾むようである。

御幸とは、天皇の行幸である。
何とも、優雅である。

衣装に関しては、現代訳として、記した。




女は詳しくも見知らぬ方の事なれど、ただ珍しうをかしきことに、競ひ出でつつ、その人ともなくかすかなる足弱き事など、輪を押しひしがれ、あはれげなるもあり。浮き橋のもとなどにも、好ましう立ちさまよふ好き車多かり。




女は、詳しく知らない世界のことだが、ひたすら珍しく、面白い見ものと思い、我先に出てきたので、さしたる身分でもないが、粗末な足の弱い車などは、輪を押しつぶされ、気の毒な様になったものもある。船橋の辺りなどにも、優美に、あちこちと、立派な車が多かった。

あはれげなるもの
この場合は、気の毒である。




西の対の姫君も立ち出で給へり。そこばくいどみ尽くし給へる人の御かたち有様を見給ふに、帝の赤色の御衣奉りてうるはしう動きなき御かたはらめになずらひ聞ゆべき人なし。わが父大臣を人知れず目をつけ奉り給へど、きらきらしうもの清げに盛りにはものし給へど、限りありかし。いと人にすぐれたるただ人と見えて、御輿の内より外に目移るべくもあらず。まして、容貌ありや、をかしやなど、若き御達の消えかへり心うつす中少将、何くれの殿上人やうの人は何にもあらず消え渡れるは、さらに類なうおはしますなりけり。源氏の大臣の御顔ざまは異ものとも見え給はぬを、思ひなしの今少しいつかしう、かたじけなくめでたきなり。さはかかる類はおしがたかりけり。




西の対の、姫君、玉葛もお出かけになっていた。多くの、我こそはと、綺麗を尽くしている方々の容貌、態度を御覧になると、帝が赤色の衣を召されて端正に微動だもしない、御横顔に比べる方はいない。自分の父、大臣を人知れず、注意して拝するが、威儀を正して、見た目も綺麗で、男盛りでいらっしゃるが、でも矢張り限度がある。
誠に、誰よりも立派な臣下という感じで、御輿の中より、他には、見ようとしない。まして、器量が良いとか、綺麗だなどと、若い女房たちが死ぬほど慕う、中将少将、なんとかとの殿上人などという人は、問題にならず、目にもつかないのは、全く郡を抜いている。源氏の大臣の御顔立ちは、帝と別物とも見えないほどで、気のせいか、もう少し威厳があって、もったいないほどで、ご立派である。とすると、これほどのお方は、世には稀なのである。





あてなる人は皆もの清げにけはひ異なべい物とのみ、大臣中将などの御にほひに目なれ給へるを、出で消えどものかたはなるにやあらむ、同じ目鼻とも見えず口惜しうぞおされたるや。兵部卿の宮もおはす。右大将の、さばかり重りかに由めくも、今日の装いとなまめきて、やなぐいなど負ひて、仕うまつり給へり。色黒く髭がちに見えて、いと心づきなし。いかでかは女のつくろひたてたる顔の色あひには似たらむ。いとわりなき事を、若き御心地には見おとし給うてけり。大臣の君の思し寄りて宣ふ事を、「いかがあらむ。宮仕へは心にもあらで、見苦しき有様にや」と思ひつつみ給ふを、「なれなれしき筋などをばもて離れて、おほかたに仕うまつり御覧ぜられむは、をかしうもありなむかし」とぞ思ひ寄り給うける。





身分の高い人は、皆綺麗で、感じも違うはずと思うが、玉葛は、大臣、中将父子などの、美しさを見慣れて考えているが、見劣りして、問題にならないせいか、同じ目鼻の人間とも見えず、悔しいほどに圧倒されている。
兵部卿の宮もおいでになっている。右大将の、あれほど重々しく気取っている人も、今日の服装は、まことに艶やかで、ヤタグイなどを背負って供奉している。色が黒く髭が多い感じで、好感が持てない。どうして、女の化粧した顔の色に、男が似るでしょう。大変、無理なことを、お若い方の事とて、軽蔑するのである。
源氏の大臣が、思い立ちになって、おっしゃることを、どうしたものかしら、宮仕えは、思うようにゆかず、見苦しいことではないのか、と躊躇されるが、帝のご寵愛ということを離れて、普通にお仕えして、お目通りするのなら、結構なことだと、そんなことを思うのである。

posted by 天山 at 07:05| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月18日

もののあわれについて621

かうて野におはしまし着きて、御輿とどめ、上達部の平張にもの参り、御装束ども、直衣、狩りの装などに改め給ふ程に、六条の院より、おほきみ、御くだものなど奉らせ給へり。今日仕うまつり給ふべく、かねて御気色ありけれど、御物忌の由を奏せさせ給へりけるなりけり。蔵人の左衛門の尉を御使にて、雉一枝奉らせ給ふ。仰せ言には何とかや、さやうの折りの事まねぶに煩はしくなむ。




こうして、大原野に到着して、御輿を止められ、上達部は天幕の中で食事をされ、服装を直衣や、狩り衣などに改めたりされるところに、六条の院より、お酒やお菓子などを献上される。今日、供奉なさるようにと、前もってご挨拶があったが、御物忌みとのことを、奏上されたのである。帝のお言葉は、何とございましたか、そのような時のことを申しますのは、困りますので・・・




冷泉
雪深き をしほの山に 立つ雉の 古き跡をも 今日は尋ねよ

太政大臣の、かかる野の行幸に仕うまつり給へる例などやありけむ。大臣、御使をかしこまりてなさせ給ふ。

源氏
をしほ山 みゆき積れる 松原に 今日ばかりなる 跡やなからむ

と、その頃ほひ聞きし事の、そばそば思ひ出でらるるは、こがごとにやあらむ。





雪の深い小塩山に、雉が飛び立っているが、例に従い、今日こちらに参ればよかったのに。

太政大臣が、このような野の行幸に、奉仕された先例などがあったのでしょうか。源氏の大臣は、御使いを、恐縮して、おもてなしされた。

源氏
小塩山の雪の降り積もる松原に、今日ほど、足跡が多く、盛大だったことは、ありませんでしょう。

と、その当時、聞いたことが、ちらほらと思い出されるのは、記憶違いかもしれません。

この部分は、三人称である。
現代の小説に近い、書き方である。




またの日、大臣西の対に、源氏「きのふ、上は見奉り給ひきや。かの事は思しなびきぬらむや」と聞え給へり。白き色紙にいとうちとけたる御文こまかに気色ばみてもあらぬがをかしきを見給うて、玉葛「あいなの事や」と笑ひ給ふものから、「よくもおしはからせ給ふものかな」と思す。御返りに、玉葛「昨日は、

うちきらし 朝曇りせし みゆきには さやかに空の 光やは見し

おぼつかなき御事どもになむ」とあるを、上も見給ふ。




その翌日、大臣、源氏は、西の対に、昨日、帝を拝みましたか。あのことは、私の勧めに従いますか、と書いた。白い色紙に、親しげにお手紙である。こまごまと、気取ることなく、見事なものを御覧になり、玉葛は、いやなことを、と、笑うが、よくも人の心を見通されたと、思うのである。お返事には、

朝曇りの雪の日では、すっかりと空の光を見たり出来ましょうか。

はっきりしないことばかりです。と、書いてあるのを、紫の上も御覧になる。

上も見給ふ、とは、紫の上のことである。




源氏「ささの事をそそのかししかど、中宮かくておはす、ここながらの覚えには便なかるべし。かの大臣に知られても、女御かくてまた侍ひ給へばなど、思ひ乱るめりし筋なり。若人の、さも馴れ仕うまつらむにはばかる思ひなからむは、上をほの見奉りて、えかけ離れて思ふはあらじ」と宣へば、紫「あなうたて。めでたしと見奉るとも、心もて宮仕ひ思ひたらむこそいとさし過ぎたる心ならめ」とて笑ひ給ふ。源氏「いで、そこにしもぞ、めで聞え給はむ」など宣うて、また御返り、

源氏
あかねさす 光は空に 曇らぬを などてみゆきに 目をきらしけむ

なほ思し立て」など、絶えず勧め給ふ。「とてもかうても、まづ御裳着の事をこそは」と思して、この御まうけの御調度の、こまやかなる清らども加へさせ給ひ、何くれの儀式を、御心にはいとも思ほさぬ事だに、おのづからよだけく厳めしくなるを、まして、「内の大臣もやがてこのついでにや知らせ奉りてまし」と思し寄れば、いとめでたく所狭きまでなむ。




源氏は、こういうことを、勧めてみたのだが、中宮がああしていらっしゃることゆえ、同じこの家からの扱いでは、具合が悪い。あちらの大臣に打ち明けても、女御がこうして別におられるのだから、などと、前にも気にしていたらしい事情と、同じことになる。若い女で、そのように宮中へお仕えするのに何憚ることもないものは、主上を、少しでも拝して、宮仕えを考えずに、いられるものはないだろう、とおっしゃると、紫の上は、まあ嫌なこと。いくらご立派だと拝しても、自分から進んで宮仕えを考えるなど、あまりに出すぎた人でしょう。と、笑う。源氏は、さあ、そういうあなたこそ、熱心になるのだろう、などと、おっしゃり、改めて、御返事に

日の光は、曇りなく、空に差しているのに、どうして、雪のために、目がかすんで見えなかったのでしょう。

是非、決心されるように、などと、ひっきりなしに、お勧めになる。

どうなるにせよ、まず裳着の式を、と思い、その儀式のお道具類の、精巧で立派なものを増やして、大体どんな儀式でも、ご自分では、大して考えていないことでさえ、いつしか、大袈裟に厳しくなるのも、まして、内大臣にも、このまま式のついでに、お知らせしようか、と考えるので、実に立派で、並びきれないほどである。

女御とは、玉葛の姉である。

裳着の式とは、女の成人式のことである。

とてもこうても
兵部卿の宮、あるいは、右大将と結婚するにしても・・・
また、入内するにしても、である。
その前に、女の成人式をするというのである。


posted by 天山 at 05:21| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月19日

もののあわれについて622

「年かへりて二月に」と思す。「女は聞え高く名隠し給ふべき程ならぬも、人の御むすめとて籠りおはする程は、必ずしも氏神の御つとめなどあらはならぬ程なればこそ、年月は紛れ過ぐし給へ、このもし思し寄る事もあらむには、春日の神の御心たがひぬべきも、つひには隠れてやむまじきものから、あぢきなくわざとがましき後の名までうたたあるべし。なほなほしき人の際こそ、今やうとては氏改むる事のたはやすきもあれ」など思しめぐらすに、「親子の御契り絶ゆべきやうなし。同じくはわが心許してを知らせ奉らむ」など思し定めて、この御腰結には、かの大臣をなむ、御消息聞え給うければ、大宮こぞの冬つ方より悩み給ふ事、さらにおこりたり給はねば、かかるにあはせて便なかるべき由聞え給へり。中将の君も夜昼三条にぞ侍ひ給うて、心のひまなくものし給うて、折りあしきを、「いかにせまし」と思す。「世もいと定めなし、宮もうせさせ給はば御服あるべきを、知らず顔にてものし給はむ、罪深き事多からむ。おはする世にこの事あらはしてむ」と思し取りて、三条の宮に御とぶらひがてら渡り給ふ。




年が改まり、二月にと、思っていた。女というものは、評判が高く、名を隠すことのできる年ではなくても、一家の姫君として、家に引っ込んでいる間は、必ずしも氏神参拝など表立ってしないものだから、今まで、はっきりしないで過ごしていたのだが。今、もし思い通りのことが実現するとした時には、春日明神の神慮に背くことだろうし、結局は、隠しおおせるものではないのに、つまらぬことに、企みあってのことのように、後々、評判が立っては、嫌なことだ。平凡な身分の人ならば、現代では、氏を改めることも簡単だが、などと、思案される。親子の縁が、絶えることはない。同じことなら、自分から、進んで内大臣に知らせよう、などと、決心されて、今度の腰紐を結ぶ役目に、内大臣をと、ご依頼の手紙を差し上げたところ、大宮が、去年の冬頃から病気だとのことで、一向に回復しないので、このように都合がつきません、とのご返事だった。
中将の君も、夜昼、三条の宮の方にお詰めになり、他のことを考える余裕もないので、時期が悪いのを、どうしたものか、と考えられる。無常な世の中だ。大宮でも亡くなったら、玉葛も喪に服すべきなのに、知らない顔でいることは、罪深いことが多い。大宮の在世中に、このことを打ち明けてしまうことだ、と決心して、三条の宮に、お見舞いかたがた、お訪ねになった。

氏改むる事
藤原の生まれだが、源氏の養子になり、改めること。




今はまして、忍びかにふるまひ給へど、行幸に劣らずよそほしく、いよいよ光をのみ添へ給ふ御かたちなどの、この世に見えぬここちして、珍しう見奉り給ふには、いとど御ここちの悩ましさも、取り捨てらるるここちして、起きて居給へり。御脇息にかかりて、弱げなれど、物などいとよく聞え給ふ。源氏「けしうはおはしまさざりけるを、なにがしの朝臣の心惑はして、おどろおどろしう嘆き聞えさすめれば、いかにやうにものせさせ給ふにか、となむ、おぼつかながり聞えさせつる。内などにも、ことなるついでなき限りは参らず、おほやけに仕ふる人ともなくて籠り侍れば、よろづうひうひしう、世だけくなりにて侍り。よはひなど、これよりまさる人、腰たへぬまでかがまりありく例、昔も今も侍めれど、あやしくおれおれしき本性に添ふもの憂さになむ侍るべき」など聞え給ふ。




今は、前よりも、お忍びになっても、帝の行幸に負けないほどの威勢で、益々、美しく輝く顔立ちなどは、人の世では、見られない程で、珍しく御覧になる大宮は、気分の悪さも、さっぱりと無くなった気持ちで、起きて座られた。御脇息に寄りかかり、弱々しそうだが、口はよく利けた。
源氏は、そう、お悪くもなかったのに、何某の朝臣があわてて、大袈裟に嘆きますので、どんな具合でいらっしゃるかと、ご心配しました。宮中などへも、特別な場合のほかは、参内いたしません。朝廷に仕える人らしくなく、家におりますので、万事が動き鈍く、鷹揚になってしまいました。年齢など私より上の人で、腰が辛抱できないほど曲がりながらも、動き回るものが、昔も今も、いるようですが、私は、変に愚かな生まれつきの上に、物ぐさにもなりましたのでしょう。と、おっしゃる。




大宮「年の積もりの悩みと思う給へつつ、月ごろになりぬるを、今年となりては、頼み少なきやうに覚え侍れば、今ひとたびかく見奉り聞えさする事もなくてや、と心細く思う給へつるを、今日こそまた少し延びぬるここちし侍れ。今は惜しみとむべき程にも侍らず。さべき人々にも立ちおくれ、世の末に残り止まれる類を、人のうへにて、いと心づきなし、と見侍りしかば、出でたちいそぎをなむ思ひもよほされ侍るに、この中将の、いとあはれにあやしきまで思ひ扱ひ、心をさわがい給ふ、見侍るになむ、さまざまにかけ止められて、今まで長引き侍る」と、ただ泣きに泣きて、御声のわななくも、をこがましけれど、さる事どもなれば、いとあはれなり。




大宮は、長生きし過ぎの病気とは知りつつ、長いことになりますけれど、今年になって、生きられる望みも少ない気がいたしまして、もう一度、このようにお目にかかり、お話申し上げることなしに、終わるのかと、心細く感じていました。今日という今日は、改めて、少し寿命が延びた気がいたします。
もう死にましても、惜しい年でもありません。親しい人々にも、先立たれ、年老いて生き残る人たちを、他人のことでも、何とも嫌なことと、思いましたから、あの世への準備のことが、気になりまして、この中将が、心を込めて、不思議なほど世話をし、心配してくださる。それを見ては、あれこれと、引き留められて、今まで、生き延びているのでございます。と、ただ、泣くばかりで、お声が震えるのも、馬鹿馬鹿しく思うが、言われることは、いずれも、最もなことなので、お気の毒である。

中将とは、夕霧のことである。

さる事どもなれば
夕霧と、雲居雁のことである。

出でたちいそぎをなむ
もう、あの世に参ろうという気持ち。

いとあはれにあやしきまで思ひ扱ひ
大変に、あはれ、あやしきまで、あはれ・・・
ここでは、中将の世話についてを、言うのである。

いとあはれなり
大変に気の毒・・・
大変に、残念・・・
とても、それぞれの場面で、あはれ、が生きる。
これ以上に無いという、感情の思いである。


posted by 天山 at 05:26| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月20日

もののあわれについて623

御物語ども、取り集め聞え給ふついでに、源氏「内の大臣は、日隔てず参り給ふことしげからむを、かかるついでに対面のあらば、いかに嬉しからむ。いかで聞え知らせむと思ふことの侍るを、さるべきついでなくては、対面もありがたければ、おぼつかなくてなむ」と、聞え給ふ。




色々なお話をするついでに、源氏は、内大臣は、日をおかずに参られるでしょうが、こうした機会にお目にかかることができれば、どんなに嬉しいことでしょう。何とかして、お話しようと思うことがありますが、適当な機会がなくて、お目にかかるのが、難しいので、気になりまして、と申し上げる。




大宮「おほやけ事のしげきにや、私の志の深からぬにや、さしもとぶらひものし侍らず。宣はすべからむ事は、何ざまの事にかは。中将の恨めしげに思はれたる事も侍るを、「初めの事は知らねど、今はけにくくもてなすにつけて、立ちそめし名の、取り返さるるものにもあらず、をこがましきやうに、かへりては世人も言ひ漏らすなるを」などものし侍れば、たてたる所、昔よりいと解け難き人の本性にて、心得ずなむ見給ふる」と、この中将の御事と思して宣へば、うち笑ひ給ひて、源氏「いふかひなきに許し捨て給ふこともや、と聞き侍りて、ここにさへなむかすめ申すやうありしかど、いと厳しういさめ給ふ由を見侍り後、何にさまで言をもまぜ侍りけむと、人わるう悔い思う給へてなむ、よろづの事につけて、清めという事侍れば、いかがはさも取り返しすすい給はざらむ、とは思う給へながら、かう口惜しき濁りの末に、待ちとり深うすむべき水こそ出で来難かべい世なれ。何事につけても末になれば、落ち行くけぢめこそ安く侍めれ、いとほしう聞き給ふる」など、申し給うて、




大宮は、公務が忙しいのか、私への気持ちが深くないのか、それほど、見舞いには来ません。お話になりたいということは、どんなことですか。中将が、恨めしく思っているとのことですが、「初めの事は、知りませんが、今となっては、二人を引き離そうとしたところで、一度立った噂が、取り返せるわけでもなく、馬鹿げたことのように、かえって、世間の人も噂するとか」などと、聞かせますと、言い出したことは、昔から決して、後へは引かない性質で、解ってくれないように見受けられます、と、この中将のことと、思っていると、にっこりして、源氏は、今更言っても、仕方ないことと、許してくだると、耳にしています。私までが、内大臣に、それとなく口添え申したことがありますが、夕霧を大変きつく叱ったことを聞きましてからは、何のために、あれほど口出しをしたのかと、外聞も悪く、後悔しました。何事も、汚れには、清めがございますから、どうしてそれでも、綺麗さっぱりと、水に流して下さらないことがあろうかと、思いますが、これほど酷く濁った果てに、いくら待っても、見事に綺麗にしてくれる水というものは、出てきにくいようです。万事、後になるほど、だんだんと悪くなってゆきやすいようですから、内大臣にとっては、お気の毒なことと、聞いております、などと、おっしゃり・・・




源氏「さるは、かの知り給ふべき人をなむ、思ひまがふる事侍りて、ふいに尋ね取りて侍るを、その折りは、さるひがわざとも明かし侍らずありしかば、あながちに事の心を尋ねかへさふ事も侍らで、たださるもののくさの少なきを、かごとにても、何かは、と思う給へ許して、をさをさむつびも見侍らずして、年月侍りつるを、いかでか聞し召しけむ、内に仰せらるるやうなむある。「尚侍宮仕へする人なくては、かの所の政しどけなく、女官なども、おほやけ事を仕うまつるに、たづきなく事乱るるやうになむありけるを、ただ今上に侍ふ故老の典侍二人、またさるべき人々、さまざまに申さするを、はかばかしう、選ばせ給はむたづねに、類ふべき人なむなき。なほ家高う人の覚え軽からで、家の営みたてたらぬ人なむ、いにしへよりなり来にける。したたかに賢き方の選びにては、その人ならでも年月の労になりのぼる類あれど、しか類ふべきもなし、とならば、おほかたの覚えをだに選らせ給はむ」となむ、内々に仰せられたりしを、似げなき事としも、何かは思ひ給へむ。




源氏は、実は、内大臣がお世話になるはずの人の、思い違いがありまして、思いがけず、探し出し、引き取りましたが、その時、間違いだとは、はっきりと言ってくれず、しいて、事情を詮索することもしませんでした。ただ、そうした子が少ないので、口実でも、構うものかと、自分勝手に、納得して、全く親身な世話もしませんで、年月が経ちました。それを、どういうことで、お耳にあそばしたのやら、陛下から、お言葉を下されることがありました。
尚侍は、勤める者がいなくては、内侍所の事務が整わず、女官なども、職務を行うのに、頼りところなく、仕事が出来ないようでしたが、現在のところは、宮中に仕えている、年寄りの典侍二人、またその他に、相当な者たちが、それぞれに任官を懇願するが、立派に、選びあそばそうとの求めに、及第する人がいない。矢張り、尚侍ともなれば、家柄高く、評判が重くて、生活の心配のない人が、昔からなっている。甚だしく賢いということでの選考ならば、そういった人でなくても、長年勤務の功労により、昇進する例があるが、それに当たる者もない。ということになると、せめて、一般世間の人望にでもよって、人選あそばそう、と、内々で、お言葉を賜りましたが、相応しくないことと、思えません。




宮仕えは、さるべき筋にて、上も下も思ひ及び、出で立つこそ心高き事なれ、おほやけざまにて、さる所の事を司り、政のおもぶきをしたため知らむ事は、はかばかしからず、あはつけきやうに覚えたれど、などかまたさしもあらむ。ただわが身の有様からこそ、よろづの事侍めれ、と思ひ弱り侍りしついでになむ、よはひの程など、問ひ聞き侍れば、かの御尋ねあべい事になむありけるを、いかなべい事ぞとも、申し明らめまほしう侍る。ついでなくては対面侍るべきにも侍らず。やがてかかる事なむと、あらはし申すべきやうを思ひめぐらして、消息申ししを、御悩みにことづけてもの憂げにすまひ給へりし、げに折りしも便なう思ひ止まり侍るに、よろしうものせさせ給ひければ、なほかう思ひおこせるついでにとなむ思う給ふる。さやうに伝へものせさせ給へ」と、聞え給ふ。




宮中にお仕えするのは、女御更衣になり、身分の上の者、下の者も、寵愛を望んで入内するのが、理想が高いというものです。一般の職で、そういう役所を配し、事務を処理するようなことは、何でもない簡単なことに思われますが、そうとも限りません。ただ、本人の人柄によって、万事決まると考えるようになりました。そのついでに、年齢のことなどを尋ねてみますと、内大臣のお探しになっている人でありましたが、どのようにいたすべきかと、はっきり相談したいと思います。わざわざということでなければ、お目にかかるわけにいきませんから、すぐにお知らせをと、打ち明けて知らせる方法として、手紙を差し上げたのですが、こちらのご病気を口実に、気が進まないらしく辞退されました。なるほど、時期も悪いと思い止まりました。ご病気もよろしいようで、矢張りこういうふうに考えました、この機会にと思います。そういうふうに、お伝えくださるようにと、申し上げる。

何とも、回りくどい話である。
回りくどいのは、源氏の、玉葛に対する、思いである。

やがてかかる事なむと
玉葛の裳着の腰結を頼み、その時にと思ったという。

さっさと、言わないのは、源氏の邪心である。
物語の難しいのは、こういう、心模様の場面だ。

一体、何を言いたいのか・・・
解説を見て、ようやく、察することが出来るのである。


posted by 天山 at 05:20| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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