2013年06月13日

ミンダナオ島へ8

昼前に、コータの電話にメールが入った。
ジェイソンさんからである。
今夜、家で夕食をとの、誘いである。

昨夜も、ご馳走になっている。
でも、折角の申し出であるからと、受け入れた。

そのお父さんが、元は銀行マンで、今は、マンゴーの農園を経営している。
ここでは、金持ちの人の中に入る。

六時に迎えに来ることになった。

そこで、私たちは、何も贈り物を持っていない。
出来ることは、歌うことと、コータの篠笛である。

食事の前に、篠笛と私の朗詠を披露することにした。

そして、六時前に、ジェンソンさんが迎えに来て、出掛けた。
その際に、車が走る道々を見た。
チャイナタウンを通ると、スラム街に出た。

矢張り、どこでも、フィリピンにはスラム街がある。
だが・・・
どこのスラムより、何となく、明るいのである。
皆さん、楽しそうである。

とても賑やかで、活気のあるスラムだ。
それは、安全だからであろうと、思った。

ダバオは、フィリピンでも、安全な場所として知られる。

ジェンソンさんが、色々な場所で、買い物をする。
私たちにご馳走するものである。

少しばかり、遠回りになったようだ。
だが、私には、よい情報だった。

ジェンソンさんの家は、丘の上にある、住宅街である。
その住宅街の入り口には、警備員がいる。

立派な家である。
富裕層なのだ。

お母さん、奥様、子供二人に、お姉さんがいた。
そして、お父さんが帰って来た。

初めての場所で、個人宅に伺うという。
これも、森川氏の、お陰である。

皆さんが揃ったので、私が挨拶した。
そして、何もプレゼントがありませんがと・・・
篠笛と、歌を披露した。

とても和やかな、雰囲気になる。
矢張り、音楽は、国境を越えるのである。

終わると、お父さんが、早速、食卓に誘う。
私は、お父さんの横に座った。
話は、コータが通訳する形である。

兎に角、様々な話題が出た。
戦争時のことも、お父さんのお父さんから聞いたという、話を聞いた。

結論は、日本軍の侵略から、アメリカが救ってくれたという、印象を持っていた。
だが、多くの誤解があったはずだと言う。
現在のような通信が無く、マニラの日本軍の指令が、うまく届かなかったのではないかというものだった。

敗戦が近づくと、日本兵が、荒くなっていったと言う。
一番、酷い話は、フィリピン人の赤ん坊を放り投げて、それを銃剣で突き刺したというものである。

しかし、そこまでの酷いことをしたのか・・・疑問である。
あくまでも、話である。
その話が、どこから、出たのか・・・

チューク諸島に出掛けた際にも、日本兵のことを聞いたが・・・
日本兵の酷さを言うのは、中華系、中国人だったとの話を聞いている。

お父さんは、私の行為である、慰霊と支援活動に対して、すぐに理解してくれた。
そして、お父さんには、またそれなりの考え方がある。
じっくりと話をすることが、出来たのは、実に良い事だった。

いつでもダバオに来た際は、家に来てくださいと、言われた。

お母さんは、矢張り、昨夜の天皇の話が、まだ尾を引いていた。
タイ国王の話となり、その違いに私は言及した。

タイ国王の慈悲深さを言うと、お父さんは、日本の天皇も、とても慈悲深いと言う。
何となく、天皇像をお母さんが掴んだようである。

ミンダナオは、戦前から日本人が移住して、マニラ麻の産業を起こしたことが、注目されている。更に、その人たちとの付き合いである。
だが、戦争が始まると、その日本人たちも、軍服を着始めて、ミンダナオの人たちは、本当は、戦争を目的として、入植したのかと、考えたという。

それは、召集命令を受けたのだと、思うが・・・
一時期、矢張り、現地の人たちに大きな迷惑を掛けたことは、否めない。

最後に私は、この家のために、祈りますと、その祭壇に向かった。
日本の形で祈りますと言うと、皆さん、頷く。

一家は、カトリック信者である。
最後に、キリスト教の祈りを唱えて終わった。

明日は、本来の目的、追悼慰霊の日である。
朝、10時から、ジェイソンさんが、私たちを案内することになっていた。

ホテルに着いたのが、九時を過ぎていたので、二時間ほどの時間を過ごしたのだ。

富裕層の個人宅に行くということは、とても僥倖である。
そんなことは、普通ならば、考えられないことである。
何故か。
富裕層の人たちは、外国人とは、あまり会わないからである。




posted by 天山 at 05:32| ミンダナオ島へ平成25 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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