2013年06月11日

ミンダナオ島へ6

支援の日の夜、クリフォードさんから、食事の誘いを受けた。
が、これ以上、外に出ない方がいいと、丁寧に、お断りした。

翌日は、ダバオに向うのである。
知らずに、熱中症になっていることもあるので・・・

兎に角、水を絶やさず買い、日本から持参した、スポーツドリンクの粉で、それを作る。
私は、それを半分に薄めて飲む。
体が、それに慣れるからである。

飛行機は、夕方の六時であるから、ホテルの滞在を延長した。
一日分の半額を支払う。

ホテルには、レストランもついていたが、一度だけ、利用した。
矢張り、食堂より、高いのである。
更に、コーヒーがインスタントだ。

あちらの、インスタントコーヒーは、コーヒーというより、ミルクコーヒーである。
そして、甘い。
それぞれの島では、コーヒーも栽培して、美味しいコーヒーを飲むことが出来るのだが・・・

ネグロス島のコーヒーなどは、最高である。
そして、探してみると、ミンダナオにもコーヒー栽培がされていた。

ネグロス島より、味は落ちるが、まずまず、美味しいと解った。

ダバオに行く前に、再度、100ドルを両替する。
4000ペソ程度である。

次の両替は、日本円しかない。
ドルを持ってこなかった。

少しでも、率がよければいいが・・・と、考えていた。

翌日は、朝から、食堂で食べる。
食堂は、安い。そして、魚料理がある。
魚と野菜のおかずで、ご飯を食べる。
この、ご飯が、腹にもたれない、軽い米なのである。

日本の米は、実に美味しくて、腹持ちする。
それでも、そこのご飯を楽しむ。

カガヤンデオロの、ダウンタウンは、兎に角、ゴチャゴチャしていて、大変な場所である。まず、信号が無い。
その中を、車と人が、事故も無く、行き交うのである。
渋滞しているのだが・・・
うまく動くという、仰天のシステム・・・

だから、道を歩く時は、兎に角、気を使う。
車、乗り合いバスのジプニー、バイクタクシー、自転車タクシー・・・色々・・・

一日は、あっという間に過ぎる。

夕方の四時になり、ホテルからタクシーに乗り、空港へ行く。
今、カガヤンデオロには、新しい空港が出来つつある。

もう、現在の空港では、対処出来ないほど、人が行き交うのだ。

街を抜けると、スムーズに車が走る。
私たちは、再度、飛行機会社の事務所に立ち寄り、パスポートのことを聞くことにしていた。
だが、為しのつぶて・・・

フィリピン人は、自分の仕事だけしかしない。
それ以外のことは、全く関係無いと、腹をくくっている。
これが、曲者である。

だから、結局、パスポートは、ありません。
私は、声を低めて、日本に帰ったら、オーナーに手紙を書くので、住所を教えろと言った。何やら、スタッフが、話していたが、私の剣幕に、書いてよこした。

格安航空だから・・・では済まない・・・
そして、確実に、遅れる。

一度、セブ島でも、怒鳴ったことがある。
いつもいつも、タイムオーバーだ・・・
オーナーに電話を掛けろ・・・

しかし、迎えの車の運転手が、笑顔で、待っている。
すでに、皆、飛行機に乗っていた。私一人が、拒否していたが・・・
止めた・・・

見つからないのではなく、見つけなかったのである。
そう、結論づけた。

そして、案の定、六時の飛行機が、タイムオーバーである。
更に、初めて、ダバオに到着して、時間が遅れましたこと、お詫びしますとの、アナウンスである。
驚いた。

50分程で到着する。
結果、7:30を過ぎていた。

荷物を探して、空港を出ると八時を過ぎている。
私たちを、今度は、森川氏の友人の、ジェイソンさんが、迎えに来ている。

空港を出ると、私たちをすぐに見つけた。
私の着物姿である。

何と、お母さんまで一緒に迎えてくれた。
そして、そのままホテルである。
そのホテル・・・
私が予約した古いホテルで、部屋を見て、愕然とした。
牢屋のような部屋である。

ここでは、四泊は、無理と、変更することにした。
ガイドブックに載っていない、新しいホテルが近くにあると、ホテルの人が言う。
そこは、900ペソ。
新しいホテルで、900ペソは、安い。

ツインルームがあった。
そこに決めて、ジェイソンさんとお母さんと、食事をすることに。

森川氏が、私のことを、詳しく説明してくれていたので、話がスムーズである。
明日、一日は休憩して、明後日の朝、10時から行動することを、確認する。

ダバオでは、すべて、ジェイソンさんが、お世話をしてくれることになっている。

すべて、慰霊の活動である。
お母さんも、私たちと、行動を一緒にしたから、驚いた。
また、最初の食事から、お母さんの質問攻めにあった。

その質問の、最初が天皇についてである。
それも、驚いた。

天皇とは、どのような存在なのか・・・
ジェイソンさんが、止めるまで、話し込んだ。
何と、九時半を過ぎたのである。

その内容は、省略する。
私のメイン・ブログ、天皇陛下について、を、参照ください。




posted by 天山 at 05:30| ミンダナオ島へ平成25 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月12日

ミンダナオ島へ7

ホテルの部屋は、中級程度で、実に満足だった。

この活動を通して、ゲストハウスから、格安ホテル、中級ホテル、そして、ラブホテルなどを利用した。
安ければ、いいというものではない。
矢張り、疲れ過ぎると、部屋は、或る程度の質が問題である。

私の場合は、あまりホテルに拘らないが・・・

安全に泊まれることが、第一である。
何せ、外国である。

七年の間に、部屋で、物が無くなるということは、無かった。
一度だけ、ラバウルで、コータのナイフが無くなった程度である。

現金と、パスポートは、いつも身に付けて持って歩く。
ホテルに置くことは無い。
ただ、カード類などの入ったものは、置いておく。

更に、延泊しても、二日に一度、ルームクリーンをして貰う。
毎日の、クリーンは必要ない。

今回は、何が一番、印象的だったかというと、タバコである。
フィリピンは、全面禁煙になった。
勿論、ホテルの部屋も、である。

ペナルティーが、一万ペソという、大掛かりなものになっていた。
ただ、それが問題で、どこもかしこも禁煙で、更に、喫煙場所が無い。だから、それが問題だった。

タバコを吸う人は、道端で吸う、そして、歩きながら吸う。
面白いのは、タバコを吸う人が、店の外にいて、店の中の人と話をするという、滑稽な風景も見た。

そして、ダバオは、それが特に強く、市を挙げて取り組んでいる。
青少年にタバコを売らない・・・
だから、タバコを売る店も限られた。

道端で、一本売りのタバコの屋台が流行る。

そういう意味では、ダバオは私には、最悪だった。
だが、一時的に滞在する私は、そこから離れれば問題ない。

部屋に入り、コータが水を買うために、外に出た。
もう九時半を過ぎていて、深夜になる手前である。

ホテル近くに、水を買う店があるか・・・
とても、大切なことである。

ジェイソンさんは、ダバオの水道は、飲めますと言ったが・・・
それほど、ダバオの水が綺麗だということだ。
だが、水は、大量に売られている。
つまり、現地の人も、水を買って飲むのである。

お腹も一杯で、シャワーを浴びて、コータを待つ。
戻ると、ホテル近くは、色々な店があり、不自由しないようである。
明日の朝は、早速、食堂で食べることにする。

私は、早々に寝た。

朝は、早く目覚める。
五時である。つまり、日本時間では、六時。
日本でも、五時に目覚めるので、四時に目が覚めることもある。

早過ぎて、何も出来ないので、部屋で、タバコを吸う。
禁止・・・
確かに。だが、ホテルフロントにて、厳重に言われなかった。ということは、それなりに、である。

ホテルフロントで言われると、危ない。

支援物資が無くなり、荷物が一気に減って、私は、バッグに物を詰めなおした。
着替えのみである。
だから、他のバッグは、畳んで、一つのバッグにまとめる。
今回は、一つのバッグが壊れたので、カガヤンデオロで捨てて来た。

七時になり、私は、一人で食事をするために、ホテルを出た。
右に行っても、左に行っても、店がある。

地元の人たちが、食べる食堂であるから、兎に角、安い。
おかずを、二品選び、ライスで、100円程度。

ダバオは、海に面しているから、魚が豊富だ。
それが、嬉しい。
焼き物、煮物、揚げ物・・・魚料理が、何でもある。

日本で言うところの、アジに似たもの、鯖に似たもの・・・
味は塩味が普通で、それにレモンを掛けて食べる。

スープは、ビーフ、ポーク、チキン、魚・・・
それで、実はいらないというと、スープだけで、ただ、である。

時には、ベジタブルオンリーというと、野菜だけ入れてくれる。
それも、料金が安くなる。

ご飯は、少しパサパサしているが、腹にもたれない。

フィリピンは、共通語が英語であるが、ビサヤ諸島の言葉がある。だいたい、英語が通じるが、時には、ビサヤ語のみの人もいる。

英語が出来ないと、職に就けない。
だが、英語を共通語にしていても、実に貧しいのである。
日本で、小学生から英語教育をという人たち・・・
フィリピンが何故、英語が共通語なのに、貧しいのか、考えて欲しい。

そのフィリピンから、名文学、哲学、思想が生まれないのである。
もし、タガログ語を基本言語にしていたら・・・
もっと、深い言葉の世界を有して、更に、英語を覚えて、精神の世界が、豊かになっただろうと、思う。

言葉か英語だからか、英語の国、アメリカ、イギリスに適わないし、それらを追うだけになる。
その食生活を見れば、一目瞭然である。

何せ、コーラと共に、食事をしている。
更には、アメリカンナイズされた、餌のような食事を好む。

貧しい人たちの方が、真っ当な食事をしているように見えるのである。


posted by 天山 at 05:54| ミンダナオ島へ平成25 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月13日

ミンダナオ島へ8

昼前に、コータの電話にメールが入った。
ジェイソンさんからである。
今夜、家で夕食をとの、誘いである。

昨夜も、ご馳走になっている。
でも、折角の申し出であるからと、受け入れた。

そのお父さんが、元は銀行マンで、今は、マンゴーの農園を経営している。
ここでは、金持ちの人の中に入る。

六時に迎えに来ることになった。

そこで、私たちは、何も贈り物を持っていない。
出来ることは、歌うことと、コータの篠笛である。

食事の前に、篠笛と私の朗詠を披露することにした。

そして、六時前に、ジェンソンさんが迎えに来て、出掛けた。
その際に、車が走る道々を見た。
チャイナタウンを通ると、スラム街に出た。

矢張り、どこでも、フィリピンにはスラム街がある。
だが・・・
どこのスラムより、何となく、明るいのである。
皆さん、楽しそうである。

とても賑やかで、活気のあるスラムだ。
それは、安全だからであろうと、思った。

ダバオは、フィリピンでも、安全な場所として知られる。

ジェンソンさんが、色々な場所で、買い物をする。
私たちにご馳走するものである。

少しばかり、遠回りになったようだ。
だが、私には、よい情報だった。

ジェンソンさんの家は、丘の上にある、住宅街である。
その住宅街の入り口には、警備員がいる。

立派な家である。
富裕層なのだ。

お母さん、奥様、子供二人に、お姉さんがいた。
そして、お父さんが帰って来た。

初めての場所で、個人宅に伺うという。
これも、森川氏の、お陰である。

皆さんが揃ったので、私が挨拶した。
そして、何もプレゼントがありませんがと・・・
篠笛と、歌を披露した。

とても和やかな、雰囲気になる。
矢張り、音楽は、国境を越えるのである。

終わると、お父さんが、早速、食卓に誘う。
私は、お父さんの横に座った。
話は、コータが通訳する形である。

兎に角、様々な話題が出た。
戦争時のことも、お父さんのお父さんから聞いたという、話を聞いた。

結論は、日本軍の侵略から、アメリカが救ってくれたという、印象を持っていた。
だが、多くの誤解があったはずだと言う。
現在のような通信が無く、マニラの日本軍の指令が、うまく届かなかったのではないかというものだった。

敗戦が近づくと、日本兵が、荒くなっていったと言う。
一番、酷い話は、フィリピン人の赤ん坊を放り投げて、それを銃剣で突き刺したというものである。

しかし、そこまでの酷いことをしたのか・・・疑問である。
あくまでも、話である。
その話が、どこから、出たのか・・・

チューク諸島に出掛けた際にも、日本兵のことを聞いたが・・・
日本兵の酷さを言うのは、中華系、中国人だったとの話を聞いている。

お父さんは、私の行為である、慰霊と支援活動に対して、すぐに理解してくれた。
そして、お父さんには、またそれなりの考え方がある。
じっくりと話をすることが、出来たのは、実に良い事だった。

いつでもダバオに来た際は、家に来てくださいと、言われた。

お母さんは、矢張り、昨夜の天皇の話が、まだ尾を引いていた。
タイ国王の話となり、その違いに私は言及した。

タイ国王の慈悲深さを言うと、お父さんは、日本の天皇も、とても慈悲深いと言う。
何となく、天皇像をお母さんが掴んだようである。

ミンダナオは、戦前から日本人が移住して、マニラ麻の産業を起こしたことが、注目されている。更に、その人たちとの付き合いである。
だが、戦争が始まると、その日本人たちも、軍服を着始めて、ミンダナオの人たちは、本当は、戦争を目的として、入植したのかと、考えたという。

それは、召集命令を受けたのだと、思うが・・・
一時期、矢張り、現地の人たちに大きな迷惑を掛けたことは、否めない。

最後に私は、この家のために、祈りますと、その祭壇に向かった。
日本の形で祈りますと言うと、皆さん、頷く。

一家は、カトリック信者である。
最後に、キリスト教の祈りを唱えて終わった。

明日は、本来の目的、追悼慰霊の日である。
朝、10時から、ジェイソンさんが、私たちを案内することになっていた。

ホテルに着いたのが、九時を過ぎていたので、二時間ほどの時間を過ごしたのだ。

富裕層の個人宅に行くということは、とても僥倖である。
そんなことは、普通ならば、考えられないことである。
何故か。
富裕層の人たちは、外国人とは、あまり会わないからである。


posted by 天山 at 05:32| ミンダナオ島へ平成25 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月14日

ミンダナオ島へ9

翌朝、10時前に、ジェンソンさんが、ホテルに来ていた。
そして、お母さんも、一緒である。
相当、私の行為に興味があるようだ。

本日は、慰霊、一色である。
それを説明しつつ・・・と思うが・・・難しい

まず、一番遠い所から、街に戻る計画である。
最初は、フィリピンー日本歴史博物館である。

戦前から、日本人が入植した記録が残るもの。
市内から出て、カリナンという地区にある。

車は、運転席と、後ろに椅子を置いての、オープンカーである。
私は助手席に乗ったが、エアコンが壊れていたため、窓を開けて、走る。
ところが、暑い。

だが、周囲の様子を見渡すには、良いのである。

カガヤンデオロとは違い、道が広く、信号もある。
街から離れると、次第に、緑が濃くなる。

矢張りまだ、開発途中で、下水道の工事が、延々と行われていた。

熱風を受けながら、走る。

30分を過ぎて、資料館に到着した。
いつもなら、博物館、資料館には出掛けないが・・・
森川氏の勧めがあり、出掛けた。

確かに、貴重な史料である。
当時の様子が、よく解る。

もし、戦争がなければ、更に、友好を深めて・・・
そんなことを、思った。
しかし、ダバオには、日本人、日系人が多いのである。

そこから、戻りつつ、慰霊をして行く。

入植当初の人たちを顕彰した、碑に詣でる。
そこは、小学校の校庭に建てられてある。

次に、いよいよ、日本人墓地に向う。
私は、戦没者の慰霊がそれで出来るとは、思っていなかった。

ところが、その中に、戦没者の慰霊碑も建てられてあった。

御幣を作り、その慰霊碑の前で、充分な慰霊の所作を行えた。
そして、すべての日本人のお墓に対して、清め祓いを行う。

30分以上も費やしたが・・・
その説明をせずにいた。

ただ、ジェンソンさんは、写真を撮り、お母さんは、じっと見つめていた。

その墓地は、日本人だけではなく、現地の人たちのお墓もあったが・・・
不思議なことに、現地の人たち、子供たちは、日本人墓地にいて、涼んでいる。
丁度、その辺りが、居心地が良いのである。

私は、皆さんに声を掛けた。
人々も、それに応えてくれる。

興味深く見ていた人もいる。
子供たちは、私が祈る間は、静かにしていた。

更に、英語で話しかけると、学校に行っている子は、答えてくれる。
次に来る時、プレゼントを持ってくるよ・・・
子供たちは、ニコニコして頷く。

そうしているうちに、時間は、昼を迎える。
車に乗り込むと、ジェイソンさんが、お昼ご飯は、どうしますかと、尋ねてきた。
私は、すべての活動をしたいと言う。

それでは、と、日本軍が造った、トンネルの場所に行くことに・・・

そこは、すでに、観光地化されていた。
フィリピンの人たちが、グループで見学に来ていた。

とてつもない、トンネルである。
そこから、アポ山の麓、更には、別の島へと続くというから、驚く。

アポ山の麓まで、車で一時間もかかるのである。
それを地下を掘って・・・
勿論、現地の人たちを、総動員した。

アポ山の麓は、激戦地である。
四方八方から、攻撃を受け、更に、攻撃したのである。

このトンネルの方法が、ベトナム戦争の際に、ヒントを与えたという。
北ベトナム軍は、それを真似て、トンネルを作り続けて、米軍を攻撃したのである。

だが、トンネルの中は、とてもまともな状態ではない。
私は、初めから、清め祓いを行った。
行き止まりまで、そうして、行為した。

コータまで、拍手を打ち、清めていた。

トンネルからは、早々に退散した。

休憩場所は、エアコンが効いて、とても気持ちがよいが、体がおかしくなると、すぐに、移動することにした。

最後は、川沿いに出て貰う。
そこで、最終の慰霊の行為を行う。

ジェイソンさんは、一番良い場所を選んでくれた。
そこでも、祈りますと言うと、納得して、良い場所に行きますと言う。

広い空き地があり、その向こうが川である。
大きな川で、悠々とした流れ。

そこで、私は、慰霊の最終の祈りを挙げた。
そして、御幣を流す。

一度沈んで、浮かび、そして、また、沈み、流れた。

日の丸を掲げて・・・
もう何年も前からの、希望を達した。

ただ、食事をする気力が無い。
そこで、コータに、今日は、これで休みたいと言って貰った。
これを説明するには、語学の力がない。

おおよそ、五時間ほど掛けたのである。
ホテルに着くと、三時になる頃である。

そのまま、ジェイソンさんと、お母さんと別れたが、説明が無いので、少し幻滅したかもしれない。

森川氏を通して、そのことを謝って貰った。

次に、少し、ミンダナオの戦禍について、書く。

posted by 天山 at 05:50| ミンダナオ島へ平成25 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月15日

ミンダナオ島へ10

色々な戦記を読むと、戦闘場面が出てくる。
しかし、私は、それ以上に物資の不足により、困窮する様を、じっくりと読む。

敗戦が近くなると、輸送船も、次々と攻撃され、海に沈んだ。
つまり、何も日本兵には、届かなくなる。

特に、悲惨なことは、食糧である。
飢餓・・・
これが、兵士たちの心を狂わす。
戦場の様だけではない。
飢餓で、精神に変調をきたすのである。

ミンダナオ島戦記
荒木 員力氏の、著作から引用する。

この方は、カガヤンデオロから、西ミンダナオを中心に活動した方である。
米軍のみならず、モロ・イスラムの勢力との戦いもあり、大変な戦場であった。

原始林は河岸まで茂って未開のままの姿だった。そこには、あてにした土民の家もなく、したがって食物もなかった。河は満々たる水をたたえて、太古以来の悠久の流れを形成していたが、まだ雨期に入っていないのが幸いだった。一行は渡河点を探して、朝もやの中を、首までつかりながら、もう幾日も食物といえるようなものを食べていない。腹に力を入れて岸へ渡っていった。こうして、一応米軍のサンドイッチの中から脱出したとき、人々はようやく空腹を覚えた。だが、これが密林行の初夜であり、軍旗のもとへの道はまだ80キロもあり、これからのことだったのである。

ジャングルの中、河を渡るという・・・

「軍旗のもとへ」という合言葉を、ただ一つの心の支えにして、杖にすがり、足をひきずりながら歩いていった。

わずかに彼らの露命をつないでくれたのは、バコボ族が山を焼いて作った薩摩芋の畑が尾根づたいに点在していたからである。畑といっても、焼き払ったジャングルに、そのまま苗を植えたもので、畝をこしらえてつくるわけではない。一坪掘り返しても小指の頭ほどの芋がとれる程度のものが多く、むしろ芋の葉が命をつないでくれたといったほうがよい。

このように、食べ物に関する記述は、見逃せないのである。

生きるために、戦うために、食べなければならない。しかし、それが無い。
飢餓の苦しみは、地獄である。

この頃、ミンダナオ北部のマライバライ村の東方シライ集落付近では、兵団司令部と歩兵二個大隊「歩兵七十四連隊の第二大隊と歩兵七十七連隊の第一大隊」強と野砲数門が最後の抵抗を試みていた。かつて、鮮ソ国境の張鼓峰で活躍したこの部隊は、上陸以来、兵団の図上戦術的運用とマラリアなどの悪疾の犠牲となって、人員装備とともにボロボロになっていながら、まだ敵に噛み付く気力だけは失っていなかった。

飢餓と、病気である。
特に、南国特有の病である。
それで、どんどんと、兵士が斃れた。

しかしながら、このような断片的な奮闘は、すでに比島における天下の大勢に影響を及ぼすような戦闘ではなく、米軍としても窮鼠に噛み付かれる愚を悟ったものか、放っておいても死のほかに道のない日本軍を攻撃することをやめ、密林内にとじこめて、砲撃を繰り返すだけになっていた。シライ周辺の陣地内では、毎日栄養失調でたおれる兵が増し、死臭が鼻をついていた。

そして、ゲリラ戦を戦うために、移動するが・・・

結果は、
こういう日が続くうちに、人が斃れても埋めてやらなくてもよいという不文律が、いつしか山の中に出来上がっていった。他人を埋めてやることは、力が尽きて自分もそこに埋まることを意味していたからである。環境が人の掟をつくる例である。

散々な、道行を行く兵士たち・・・

このころ、米軍の心理戦部隊の活躍は目覚しく、投降勧告のビラが、しきりに、このような陣地に降ってきた。痩せこけた日本兵が離れ小島で一人で泣いている絵もあったし、三八歩兵銃は明治三十八年の日露戦争の遺物であるとか、捕虜収容所で良い待遇を受けている日本兵の写真もあった。活字に餓えた男たちが、これを読まなかったはずはないが、痛めつけ、さいなまれても、固く祖国の勝利を信じて、投降しようとする者はなく、ジャングルの中に朽ち果てる草むす屍が増えていった。

運命の昭和二十年八月十五日が、この山奥にもやってきた。この日、米軍の射撃がパッタリとやんで、やがて一機の米軍輸送機が日本軍の頭上にラジオを空中投下してくれた。ジャングルの湿気で日本軍の無線機が駄目になっていることを米軍が知っていたのである。ラジオの梱包の宛名は、明らかに両角兵団閣下となっていた。やがて、南方軍の無条件降伏の命令が、このアンテナにはいり、戦争が終結したことを、ジャングルの中で朽ち果てつつあった戦士たちにも伝えられた。そして広島と長崎に原子爆弾という新型爆弾が投下され、天皇陛下が終戦の詔勅を放送されたという噂も流れてきた。

不思議なことに、終戦と聞いて涙を流す者もなく、放心状態の中にもほっとした明るささえただよっていた。

以上、抜粋である。

食べられるものは、何でも食べた・・・
しかし、食べるものが無いという、状態での、悲劇がある。

人肉である。
ただ、それだけを、記しておく。

人間を、そこまで、追い詰めることが果たして、善悪を超えて、考えられるのか。
解らない。

その時代に、生まれ合わせたというだけで・・・
その悲劇を生きるという、人生というもの。

その悲劇の歴史を、人は忘れる。
そして、その犠牲も、忘れる。

歴史は、何を伝えるのだろうか。
過ぎたことは、忘れなさい・・・ということか・・・

まして、未来ある、若者が、大勢死ぬという、戦争というもの。
これほど、無益なことがあろうか。

歴史から、学ぶことが、智恵の初めである。

posted by 天山 at 06:31| ミンダナオ島へ平成25 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月16日

ミンダナオ島へ11

追悼慰霊を行った翌日は、休憩である。
ミンダナオ島に来て、一週間が過ぎた。

次は、支援物資無く、セブ島に行くのである。

その日も、三度の食事は、庶民の食堂である。
同じ店、別な店に行く。
それぞれの店では、それぞれの味がある。

そして、兎に角、安い。
食あたりは、一度も無かった。
一度だけ、これは、少し危ないと思ったが・・・
全く心配なかった。

さて、昼ごはんを食べて、少しばかり、街を歩いた。
その時、マッサージという声がかかった。
店の前に、一人の女が座っていた。

私は、フットマッサージと言うと、オッケーと答えるので、それでは、足のマッサージでもと思った。
料金は、150ペソである。
それも安い。

階段を上がり、ソファーで待てと言われた。
そして、周囲を見回す。
何とも、雰囲気がおかしいのである。

夜は、バーをしているのか・・・
左側には、多くのテーブルと椅子がある。
そして、薄暗い。まあ、マッサージルームは、薄暗いことが多いが・・・

暫くして、呼びに来た。
着いて行くと、個室が並ぶマッサージルームである。

その一つに入ると、服を脱げといわれた。
足だよ・・・
いや、全部脱げ・・・
変だなーと、思うが・・・

全裸になる。
薄暗いからいいのか・・・

オイルではなく、アルコールのようなもので、体を揉む。
仰向けになり、腕から揉まれた。
そして、ようやく足にゆく。

だが・・・
全く力が入っていない。
今度は、うつ伏せに・・・

矢張り、背中から、股へ・・・
一体、いつから足に行くのだ・・・
もう一度、仰向けになった。

それから、始まった一連の、アタックである。
要するに、エッチ系のマッサージだった。

省略するが、キレた私は、アンタ、ここに寝ろと言い、私は、マッサージ・マスターだと言って、彼女の脚を揉んだ。
ギャッッッッと叫ぶ。
これが、マッサージだ・・・

彼女は、驚き、オッケーを繰り返した。
私は、100ペソ、カムバックと言う。
オッケーと逃げるようにして、彼女が部屋を出たので、私は、急ぎ服を着て、その部屋を出て、店から飛び出した。

変なガードマンでもいたら大変だ・・・

そのまま、ホテルに戻る。
コータに、その話をした。
すると、ソープに入って、体触られて、何をするんだと、怒鳴るのと同じだと言われた。つまり、入る時に、どんな所が解っていないのが問題だと。

そう言われれば、そうだが・・・
ぼんやりしていたのである。

料金は、250ペソ程度の店が大半だと、言われた。
150ペソは、安すぎる。
その後、彼女は、500ペソでは、何を、1000ペソでは、何をと、アタックしてきたのである。

相手の方が、驚くのは、当たり前と言う。
そのような場所に、私が入ったことが、間違い。

そうして、夕方になる。

翌日の朝は、六時にホテルを出る。
セブ島行きの飛行機が、八時発である。

ジェイソンさんが、空港まで送ると言ったが、家からホテルまで、30分もかかるので、私は、コータに断りのメールを打たせた。
朝は、早くから、ホテルの前に、タクシーが留まるので、タクシーで行くことにしたのである。

荷物は、少ないし・・・
別に問題がない。

それより、セブ島の五日間の予定である。
一応、セブシティに入り、その後、マクタン島の子供たちにも、会いたいと思っていた。
だが・・・

セブシティのストリートチルドレンは、思った以上だった。
ダウンタウンで五日間を過ごすということになるのである。

つまり、下町のストリートチルドレンとの出会い、その様子が凄かった。
兎に角、炎天下の中での、出会いと縁である。

ちなみに、書き忘れたが、パスポートはダバオで、その日の朝、八時半に、ダバオ出張中在官事務所に行き、一時間以内で、発行された。
8000ペソもかかったが・・・
10年間有効の、パスポートである。

更に、ちなみに、私は領事官と直接、日本語で話せたことが、何より良かったのである。
九時から開くのだが、領事官が、八時半に来て下さい。私が直接、受けますと、言ってくれたのである。


posted by 天山 at 06:06| ミンダナオ島へ平成25 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月17日

ミンダナオ島へ12

セブ島には、九時半に到着したが・・・
まず、やることがある。

パスポートに入国スタンプを押して貰うことである。
でなければ、出国の際に、足止めを食う。

セブ空港は、国際空港でもある。
その中に、イミグレーションがある。
そこへ、まず行く。

すると、ここではなく、こちらに行けと言われた。
その紙を持って、タクシーに乗る。

観光地である、マクタン島を抜けた。
そして、行った先で、またも、こちらではなく、あちらにと、紙を貰った。
これをたらい回しと言う。

ようやく、セブシティの隣の町にある、イミグレーションに着いた。

受付のおじさんに、コータが説明する。
一つだけ、足りないものがあった。
弁護士の書き物・・・
だが、日本の領事が必要無いと言ったというと、おじさんが、俺が必要だと言うんだと、凄む。

しかし、おじさんは、私の差し出したものと、書面をつけて、出してくれた。

それら、呼ばれるまで、待つ。
大勢の人で、溢れていた。
様々な人種がいた。

タバコを吸うことも出来ず・・・
待つ・・・
このままでは、昼になると、思ったが・・・
名前が呼ばれた。

以外に、あっさりと、スタンプが押された。
ホッとした。

そして、また、タクシーに乗り、いつも泊まるホテルに向う。
そのホテルは、ダウンタウンより、上の地域にあり、更に安い。

到着した。
ホテルが綺麗になっている。
要するに、新装したのだ。

そして、価格も高くなっていた。
1200ペソ、1400ペソ・・・
昔は、850ペソだった。

その付近には、色々なホテル、ゲストハウスも多いので、私たちは、別なところを探すことにした。

もう、昼の時間である。

まず、傍のゲストハウスは、満杯。
そこで、その並びのホテルに行く。
650ペソと安い。

早く、休みたい、食事をしたいと、そこに決めた。
が、部屋に入ると、エアコンが効かない。
それをコータが言うと、すぐに来るというが・・・
30分待っても、誰も来ない。

そのホテルを出ることにした。
じりじりと、焼け付くような暑さである。

フロントに、エアコンが壊れているから、出ると言うと即、お金を戻してくれた。つまり、壊れていることを知っているのだ。
一度出したお金は、戻らないフィリピンで・・・戻ったのである。

そのまま、ホテルを諦めて、食堂に行く。
少し高いが、食べ放題の店がある。
私は、二食分を食べるつもりで、入る。

この辺りは、中流階層が多いのである。
そこから、山に向けて、どんどんと、富裕層になる。

食べながら、コータと、すぐにダウンタウンに行くことにする。
以前泊まった、ゲストハウスに電話して、予約する。
650ペソである。

セブシティでは、ストリートチルドレンとの出会いと、支援であるから、覚悟していたが・・・
最も、大変な場所に、即入るというのは、覚悟がいる。

その後、マクタン島の子供たちにも会いたいと思った。

食事を終えて、ゲストハウスに向う。
部屋が決まっていて、中に入ると、すでにエアコンが効いて、涼しい。
ホッとしたが・・・
窓が無い。

入り口しか、風の通る道が無い。
コータが部屋を替えたいと、フロントに言いに行くが・・・
今は無いとのこと。明日なら、空くという。
そこで、一晩だけ、我慢することにした。
もう、ホテル探しは、いい。

私は、扉を少し開けていた。
そんなことは、決して良くないが・・・
息が詰まるようなのである。

兎に角、シャワーを浴びて、一息つく。
更に、満腹であるから・・・
ベッドに横になる。

ちなみに、旅の間は、一切、アルコールを飲まないので、調子がいい。
旅の間の、移動は、また疲れるものである。

posted by 天山 at 06:03| ミンダナオ島へ平成25 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月18日

ミンダナオ島へ13

窓の無い部屋で、一晩過ごすという・・・
檻に入れられたようである。

だが、エアコンは、凄く効いた。
セブ島も、酷暑である。

旅も後半に入る。疲れも出る。
まず、休憩である。
兎に角、休憩しなければ、熱中症になるのである。

明日から、ストリートチルドレンとの出会いである。

昼間、たらふく食べたので、夕方過ぎまで、満腹状態だった。
夜はいらないかなーーーと、思いきや、腹が空く。

この辺りには、食堂が沢山ある。
勿論、安い。
私は、一番汚いと思える、食堂を選んだ。

何故か・・・
美味しいから。

コータも一度だけ行ったが、毎日行くのは、私のみ。
顔馴染みになると、楽しいのである。
お母さんが中心で、お父さんと、息子でやっている。

息子がハンサムで、英語がペラペラ。
カレッジを出たという。

おかずを、二品とご飯を注文する。
時には、スープである。
皆、火を通してあるので、問題ない。

朝、夜と、その店に通い、昼は、別の食堂を廻った。

その夜・・・
矢張り、出た。
幽霊である。

二人の男。
一人は、若く、一人は、中年を過ぎていた。
若い男は、この部屋で死んだという。
中年の男は、昔このゲストハウスで、働いていたという。

と、次第に、金縛り状態になるので、清め祓いを瞬時に行う。そして、コーターにかからないように、コータの体に結界を張る。
というように、妄想のようなことも多々ある。

スピリットではない。ゴーストである。
これは、余計な話。

翌日の朝、食堂に行き、10時を待って、街の上に向うことにした。
日本円を両替する。

8ペソのジプニーという、乗り合いバスに乗る。
ジプニーは、至る所を走る。
だが、オープンカーであるから、暑い。

汗だくになりつつ、両替屋に行く。
少し高い。一万円が、3950ペソである。
三万円も両替すれば、次に来た時も、使える。

それから、私は、ストリートチルドレンと出会う場所に行く。
以前出会った、子供たちがいるか・・・
だが、その日は、平日であるから、学校に行って、いないはずだ。

ところが、新しい子が、二人いた。
丁度、物売りのおばさんに、何かを求めている。
手を出すが、おばさんが、文句を言っている。

私は、ハローと声を掛け、おいでと、手を振った。
女の子と男の子である。
食べ物・・・
頷く。
じゃあ行こう・・・
マックと、女の子が聞くので、うんと、頷くと、二人が、突然ゥワーと叫んだ。

マックとは、マクドナルドである。
そこは、少しの金持ちが利用する。

私は、食べたいものを言いなさいと、言うと、チキンとご飯のセットを注文した。
私はコーヒーを注文する。

席に着くと、女の子が嬉しそうに、お喋りする。
年は、二人とも、10歳。
寝ている所は、ハウスである。
チルドレンハウスがある。だが、食事は無い。
それで、腹が空いて、学校に行かず、食べ物を探す。

店員が、私たちの席を通るたびに、私に笑顔で答える。

兎に角、私が子供たちを連れて歩くと、皆々、笑顔を返す。

女の子は、お父さんがいる。お母さんが、出て行ったという。
男の子は、弟がいる。

そして、運ばれたチキンと、ご飯・・・
男の子は、ポツリと、僕の弟にも・・・云々・・・と、消え入る声で言う。
二人は英語が出来た。
私と通じ合うから、それほどの英語力ではないが・・・

写真を撮り、私は、ホテルに戻ることにした。
そして、店員に、日本語で、頼みますねと言い、二人には、また逢うよと言って、一度、さようならをした。

店を出ようとした時、驚いた。
出口付近の人たちが、全員、私に、微笑みかけるのである。

一瞬、たじろいだ。
ようやく、私も笑顔を作ったが・・・

皆さんに見つめられていた。

こうして、始まった、セブシティのストーリとチルドレンとの、付き合い。
それが・・・
大変な状況になってゆく。


posted by 天山 at 05:16| ミンダナオ島へ平成25 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月19日

ミンダナオ島へ14

日差しが、ジリジリと照り付ける中、私は、ホテルへ帰るジプニーに乗るため、向こう側に渡る必要がある。

その途中で、三歳ほどの男の子に、そして、また陸橋にいた、二人の男の子に、食べ物を買って、与えた。

その時、日本語で、やさしいのね、と声を掛けた人がいる。
現地のOLである。日本語が出来る。
かわいそうだものね・・・
彼女が続けた。
だが、暑さで私は、ただ、頷くだけだった。
会釈をして、ジプニーを探した。

すぐにジプニーが来たので、乗り込む。
シャツは、汗だくである。

フィリピンは、三月から、五月が一番、暑いのである。
マニラの政府機関も、涼しい場所へ移動するほどだ。

見慣れた、ダウンタウンの場所を通過するので、オッケー・・・を繰り返したが・・・
通じない。
止める時の言葉がある。
それが、出て来ない。

もう一人が降りるので、車が止まった。
そして、歩く。ところが・・・
方向が、解らなくなる。
解っているつもりでも、別の場所・・・

もう一度、ジプニーの来た道を戻る。
そして、ゲストハウスに続く道に出た。

もう、昼になる時間。
部屋では、コータが寝ていた。

今日は、部屋を替える。
空き次第、フロントから連絡があるが・・・
中々、来ないので、下に行く。
すると、キーを渡してくれた。

スタッフも、暑さで、疲れ切っている。
部屋以外は、冷房がないのだ。

コータを起こして、部屋の引越しをすることにする。
一階上の部屋である。

そして、部屋に移ってすぐに、ベッドの異変に気付く。
私のベッドに、緑色の小さな粉が落ちている。
不思議に思って、調べるが、解らない。

一度、それを払い・・・
だが、また、ベッドに落ちる。
天井を見るが、粉が落ちる様子は無い。

もう一度、フロントに行き、一人に来て貰う。
すると、この部屋は、そうなんです・・・私たちも、解らない・・・と、言う。

うーん
シークレットでね・・・スピリットが・・・と言うと、すかさず、ノーと言う。
本当は、ゴーストであるが・・・

コータが後で、ビサヤの人たちは、霊を特に恐れるから、言わない方がいいと言う。

コータの説では、天井のカビが落ちてくるということになった。
だが、私は、腑に落ちない。
落ちて来るところが、見えない。下から湧いて来るのでもない。

だか、まあいいか。いや、ベッドの位置を替えることにした。
すると、今度はコータのベッドにも、落ちて来ると言う。

ああ、もういい。私がアンタのベッドに移るよ・・・

ここも、一泊して、別のホテルに移ろう。
近くには、沢山のホテルがある。
それぞれ行って、料金を確認することにした。

一度、シャワーを浴びて、食事をすることにした。
今度は、ゲストハウスの目の前の、食堂である。
比較的、綺麗な場所である。
それに、扉があり、冷房が効いている。

大半の食堂は、オープンであるから、暑い。
店先に、おかずを並べて、売る。
そこで、買って、持ち帰る人も多い。

その辺りには、米軍の退任軍人が多くいる場所で、じいさんたちが、陣取る食堂がある。
そこにも一度、入ってみた。
中には、現地の若い女と、子供をもうける、じいさんまでいる。
大したものだ。

そして、今回、新しく、セブンイレブンが出来て、更に、その向かいには、スーパーが出来ていた。
スーパーの隣がホテルである。建物は、同じ。
そのホテルに、三泊することになる。
一泊、820ペソ。安い。

そして、セブンイレブンの前が、ストリートチルドレンと出会う場所になるとは・・・
その前をねぐらにしている、チルドレンである。

数え切れないほどの、子供たちに食べ物を買った。
写真を見て貰えば、一目瞭然である。
また、写真に撮ることがなかった場合もある。

兎に角、ストリートチルドレンが、湧いて来るのである。
コンビニの警備員に、キリが無いと言われたほど。

その内に顔を覚えられて・・・
更に、チルドレンの情報網で、知れ渡ることになる。

posted by 天山 at 06:10| ミンダナオ島へ平成25 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月20日

ミンダナオ島へ15

ダウンタウンには、カテドラルと、フィリピンでも最古の教会といわれる、セントニーニョー教会がある。

セントニーニョとは、幼きイエズス教会という意味。
その教会は、毎日、多くの人が訪れ、夕方から夜にかけて、特に人が多くなる。
そこで、ストリートチルドレンの出番である。

人が集まると、物貰いも出来る。
更に、物売りの子供たちで、溢れる。
前回、私は、その場所で子供たちに、衣類を配った。
だから、今回も、そこで前回の子供たちに会うことを考えたが・・・

セブンイレブンの前で、数名の子供たちに、食べ物を与えたことで、そこに子供たちが集まるようになった。

その場所で寝起きしている、ストリートチルドレンもいる。
最初は、コンビニから、腹持ちする、サンドイッチと、ヤクルトを配っていた。

あまりに多くて、その一つ一つを覚えていないほどだ。

その中でも、特徴があり、忘れられない状況を書き記す。

一人の男の子が、夕方四時半頃、私がコンビニに出ると、腹が空いたとジェスチャーで示すので、オッケーと言って、ここで待っていてと、言った。
ヒァーステイ・・・
と、花売りの子が、通りかかる。

男の子である。
その子が、立ち止まった。
そして、私を見ると、手を差し出す。

そこで、二人に、サンドイッチとヤクルトを買うことにする。

花売りの子は、突然の出来事だったので、自分で求めたが不思議そうだった。
二人に、それを渡す。
二人は知り合いではないが、何やら話し始めた。

他の子供たちも、集って来たが、私は、本日は、これで終了という思いだった。
もう、倒れそうだったのだ。

そして、翌日、同じ時間帯に出ると、花売りの子に会う。
花を売る。でも、腹が空いている。
私の方から、食べる・・・と聞くと、頷く。
それではと、私は、チキンの店に連れて行くことにした。

カム・・・チキン、オッケー・・・
男の子が着いて来た。
チキン揚げの店に行く。
そこで、チキンと、笹に包まれたような、ご飯を二つ買い与えた。

そこで、写真を傍の女に撮って貰う。
店の人たちも、微笑んで見ている。

花を売って稼ぐのだが・・・それが親の命令なのか・・・誰の指令なのか・・・
一束、20ペソの花である。

しゃがんで、男の子と話をするが、英語が互いに不案内で、中々意志の疎通が難しい。
でも、何となく、心が通じる。
別れ難く思いつつ、男の子もそのようで、暫く、私はしゃがんでいた。

私は、シャワーを浴びさせて上げたいと思ったが・・・
きっと、明日も、この時間帯に出てくるだろうから、また、逢うだろうと思った。
それで、彼の仕事の時間を取るのは、悪いと、バイバイと言って、別れた。
しかし、彼とは、帰国する日まで、逢えなかった。

毎日、チルドレンに食べ物を渡しているうちに、どんどんと、その数が増す。
見慣れぬ子も、来るようになった。

本当は、その場所だけではなく、教会から、海沿いにも出かけたかったが・・・
兎に角、そこに出ると、子供たちがいる状態になった。

そして、その道に子供たちがたむろする。

子供たちの間で、情報が、行き渡るようだった。
食べ物を渡しているうちに、彼らの着ているものも、目に入る。
あまりに、汚れて、もう、着られない程のシャツを来ている子もいる。


結果、コータと相談して、私たちの、着替え用のシャツを出して、二枚のみ残し、子供たちに、特に、酷い子に上げることにした。

と、いっても、私の着ているものは、支援物資に出来ないものである。それでも、良い方だった。

明日、マニラに向うという日に、それを実行した。
だが、欲しい子が沢山いるのである。

体が大きくなっても、小さなものを着ている子もいる。

つまり、四日の間、教会の方へ行く時間がなくなった。
勿論、無理をして、出掛ければ、何とか、食べ物を渡すことが出来たが、私も、体力が必要だ。

更に、海沿いにも。

大きな子は、一度、食べ物を上げると、要求しなくなるが、小さな子は、何度でも、要求する。
しかし、中には、兄弟でいる子がいたが、兄の方は、どういうわけか、いらないと、言う。そこで、弟に渡す。弟は、素直に受け取る。

彼らは、ホテルの斜め前の道に寝ているのだ。
だから、毎日会う。
三度目になると、ようやく、兄の方も受け取るようになった。

何故か。
彼らには、父親がいた。
そして時々、父親が、食べ物を持って来る。
一度だけ、朝、父親とパンを食べているのを見たが・・・
その一度だけだった。

兄は、プライドがあった。
自分には、親がいるという。

私は、コンビニではなく、大量のパンを買い、そして、一ペソを、水を買うお金として、子供たちに上げ始めた。

それも、伝播していったようだ。
更に、子供たちが集うのである。

朝から、夕方過ぎまで、私は、それを繰り返した。
ところが、暑い。
一度、外に出ると、汗だくになる。

ホテルの部屋で涼んで、また、出る。
そのうちに、本当に疲れてきた。

posted by 天山 at 06:57| ミンダナオ島へ平成25 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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