2013年05月13日

神仏は妄想である。417

創世記四章にある、カインとアベルの兄弟の物語。
それは、聖書が記す、人類最初の兄弟殺害物語である。

兄が弟を、野に誘い殺す。

何故か。
それは、主なる神の前に、捧げ物をするために、彼らが働いて得たものを、捧げることになる。

カインは、大地を耕して収穫した畑の初物を、捧げる。
アベルは、羊の初子と、よく肥えた羊を捧げる。

神は、アベルの捧げ物を、心にとめた。

そして、カインのアベル殺害である。
神は、激しく呪い、カインを断罪した。

何と言うことをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向って叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。

凄まじい、主なる神の言葉である。

カインは永遠に放浪者となるが、神は、イカンを誰も打ち殺すことの出来ないように、しるし、をつけた。
カインは、神の、しるし、を身に帯びて、神の元を去る。

カインは、エデンの東に移住し、その末裔の不幸がはじまる。

創世記の作者は、神に背いた人間の破滅的結末をみようとしたに違いない。なぜなら、もしも神による人間救済の業が開始されねばならないなら、それは、この破滅的結末から、出発するよりほかないからである。
山形孝夫

まさに、人格的な神の様である。
本当の問題は、神の側にある。
つまり、何かの理由がある。

その一つの根拠に、古代オリエントのメソポタミアの牧畜神、ドゥムジあるいは「タムムズ」と、農耕神、エンキムドゥの闘争の神話の変形があるのだ。

メソポタミア神話は、女神イナンナが、ドゥムジとエンキムドゥの、どちらを夫に選ぶかという、テーマがある。

ふたりの神は、女神の歓心を買うため、それぞれ自慢の供え物を捧げ、その優劣を競い合う。
競争は、牧畜神のドゥムジが勝利する。

ただ、ここには、カインとアベルの悲惨な結末はない。

悲劇の発端は、カインの農作物の供え物の拒絶である。
これは、古代社会の、切実な農作物の不作という切迫した状況を伝える。

砂漠の民族の、悲劇である。

カインは、アベルを野に連れ出し、その耕作地を豊かにするために、生贄にするのである。

カインの殺害の行為は、まさに宗教的目的に発する祭儀的行為そのものであった。要するに、カインは、司祭として振舞ったにすぎないということになる。
山形

神がカインに与えた、しるし、は、バビロニアの聖なる逃亡司祭の、しるしだったという。

司祭は、生贄の流す血によって、穢れた我が身を、一定期間、共同体から離れて、放浪するのである。

バビロニアの習慣である。

旧約聖書には、いつも血なまぐさい、生贄が供物として、神に捧げられている。

そこには、農耕民と、遊牧民の戦いの歴史があるのだ。

さすらいの民であった、イスラエル民族の、幾世代にも渡る、長い砂漠の生活から、農耕文化に生活形態を転換しつつあった様が、見えるのである。

農耕者カインにたいする告発と断罪は、新しい農耕文化にたいして、微妙に揺れ動くイスラエル民族の心の、みごとな表現ではなかったか。放浪者カインは、砂漠から沃地へ脱出をはかろうとする、イスラエルそのものではなかったか。
山形

カインの、しるし・・・
それは、呪いであり、同時に、庇護の、しるし、であった。

肥沃な土地では、有り得ない話である。
この、砂漠を舞台にした、壮大な物語を、今にまで、語り伝えるという、ユダヤの人々。ユダヤ教である。

単純に、旧約聖書を信じていると、とんでもない、妄想の世界に陥る。
天地創造の神・・・
唯一の神・・・
ヤハゥエという神・・・
実は、その正体は、その民族を象徴する意識の大本だった。

神話として、解釈しなければ、決して解けることの出来ない、話である。

ギリシャ神話然り、日本の古事記神話、然り。
そこから、歴史の源流がはじまるという。

神・・・
として、存在しているモノとは・・・
人間の意識の元である。

書き表すことが出来なかった時代の、お話を、書けるようになり、お話として、象徴的に表現する。
そして、それが、多々、多くの神話に寄りかかると、実に複雑極まりないものになる。

神が存在するのではなく、そこには、人間が存在するのである。



posted by 天山 at 00:01| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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