2013年05月10日

神仏は妄想である。414

観念というものは、その人の性格構造に基づいている時のみ強力なのである。いかなる観念もその感情母胎より強くはない。そこで、宗教に関する精神分析的操作は、思想体系の背後にある人間の現実を理解することを目ざすのである。それは、一つの思想体系が、それの描く感情の表出であるのか、または反対の態度を隠す合理化であるのかを究明する。さらにそれは、その思想体系が強固な感情母胎から成長したものであるのか、または空虚な意見なのか、をただすのである。
ライヒ

反対の態度を隠す合理化・・・
多くの宗教の、教学、教義に関しては、合理化を目指している。
そのようにして、教化するのである。

もし一部が全体の関係から孤立してしまっているならば、どんな勝手な誤った解釈でも可能になってしまう。

多くの新興宗教が、そのようである。

どのようにでも、誤魔化すことが出来るのである。

耳障りの良い言葉の数々を上げていれば、信者や会員は、満足するし、また、その言葉に酔うのである。

勿論、それらは、妄想の産物である。

新興宗教も、100年ほどを経ると、次第に衰退する運命にある。
それは、時代、時代性、時代精神から、離れるからである。

勿論、ライヒは、そのようなことを言うのではない。
一つの体系を全体として吟味して行く過程においては、その体系のもつ不条理、あるいは矛盾を注意することは重要である。
これらの不条理や矛盾は通常、意識的に主張されている意見と、その底にある感情との相違を示すものなのである。
たとえば、人が救われるか、あるいは永遠の滅びに定められるかということは、その人が生まれる前に、そしてその人が自己の運命を変える力をもたないうちに決定されているのだ、というカルビンの予定説は、神の愛についての観念とはめちゃくちゃに矛盾する。
ライヒ 改行は、私。

実は、この予定説は、多くの宗教に見られる。
キリスト教のみか、仏教の宗派・・・

人類の何十万人が救われる・・・
などと言う、馬鹿な集団もある。

更に、前世により、決定されている・・・

精神分析家は、ある思想体系を告白する個人や集団の、人格構成や性格構成を究明しなければならない。かれは表明される意見と性格構成との一致をただし、また、あらわれる行動の綿密な規定から結論される、無意識の要因という言葉で思想体系を説明するであろう。
ライヒ

要するに、理屈である。
だが、ライヒは、理屈ではなく、その本人の行動が問題だという。

つまり、イエスの言葉に集約される。
その果実によって、かれらを知るべし・・・

長々と、ライヒという、精神分析家は語るが、最も端的に言えば、イエスのその言葉に、集約されることを言うのである。

思想体系云々ではない。

もし精神分析家が宗教の諸教理の背後にある人間の現実と、また同一の宗教の底にある対立的な人間の態度とを見出すであろう。
ライヒ

その背後にある、人間の現実・・・

宗教の肯定は、ライヒの中では、
その信者たちの成長と力と自由と幸福とに貢献するならば、われわれはそこに愛の果実を知ることができる。もしそれが人間の可能性の萎縮とか不孝とか生産力の減退とかを招来するならば、教義が何を伝えようとしても、それらは愛から生まれ出たものではない。
と、言う。

こうして、精神分析家であり、思想家である、ライヒの限界がある。

ライヒの愛とは・・・
仏陀、イザヤ、キリスト、ソクラテス、スピノザの教説の底ある人間の現実は、本質的に同一のものである。
ライヒ

キリスト教の概念である、愛、という言葉を持って、対処するのである。

愛という言葉の、妄想性を知らないようである。

勿論、充分に説得力のある、宗教体験のある種の型の分析をしている。

人道主義的宗教の勧めであるが・・・
宗教は、権威主義的なのである。

そして、権威の無い宗教というものは、存在しない。

信じ込ませるという行為は、権威以外の何物でもない。

ただし、そこに置いて、成長と力と自由と幸福に貢献するならば・・・
幻想でも、妄想でも、信じてよいのである。

夢を見ながら、成長し、力を得て、自由を得て、幸福になるならば・・・

言葉というものの、神経症的分析を求める。

すでに、人間は、言葉を使用するという、神経症を病んでいるのである。
そんな中で、精神分析による、宗教の云々と、語り続けても、権威主義的な人には、充分に理解し、そして、理解したことを誇れるが・・・
その程度のことである。

ここで言う、思想体系とは、宗教の思想体系のことであろうか・・・
そうだろう。
しかし、宗教の思想体系などというものは、思想体系などに値しないのである。

戯言である。
語れる程度の神、仏ならば、信じる必要があるのか・・・

更に思想体系を創り上げる程度の、教理、教義ならば、せん無いことである。
何せ、人間の頭が、捏ね繰り回したものである。



posted by 天山 at 00:16| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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