2013年05月07日

天皇陛下について152

明暦3年、1657年、江戸で振袖火事というものがあった。
徳川幕府の江戸城も、この時、天守閣が焼け落ちた。

翌年、万治元年、また、江戸大火である。
そして、凶作。

更に、万治三年、江戸大火である。
そして、大阪城の火薬庫が爆発。

その翌年の、寛文元年、皇居炎上。
江戸も大火。

翌二年、畿内、東海、東山、北陸、西海諸国大地震。
被害は、京都が最も激しい。

これが、後光明天皇の、後を受けた、第百十一代後西天皇、1654年から1663年の、せいであると言うのである。

当時、徳川幕府、将軍家綱は、天皇の失徳といい、御譲位を迫ったというから、呆れる。
自らの、政治能力の無さを、天皇に負わせるという愚である。

しかし、天皇は、大変に聡明であり、父帝、後水尾天皇、兄帝によく似ているためと、これを忌み、言い立てて、御位を去らせたいのである。
と、見抜く。

ご即位の時、18歳。
その頃の、書が問題である。
要するに、文字が醜いのである。

臣下が、諌める言葉を、お聞き入れされた天皇は、その後、二三年で、見事な書を書くのである。

そして、二、三年後、天皇の書が見事なものに。
諌めた者が、はらはらと涙を流し言う。
よくわれがらごとき微賎なものの諌めを捨てられず、ご修行あそばされた・・・

ご在位、八年。
後を継がれたのが、第百十二代の霊元天皇、1663年より、1687年。
その父は、後水尾天皇。後光明天皇のご養子である。

ご即位の時、10歳。
ご英邁の質をお持ちだった。
冬は、火鉢に寄らず、夏は扇も使わない。克己心が非常に強かったのである。

そして、二余年、廃絶していた、立太子式を幕府にはかり、復興された。
その時、御年、30歳である。

それから、四年後、東山天皇即位。1687年より、1709年。
御年、13歳。
その冬、先帝霊元天皇のご悲願である、ダイジョウエ、おおにあえまつり、を挙行された。

伊勢の神宮に勅使を立てて、大典復興を告げる。
悠記、主基の二殿を設け、近江、丹波から嘉穀を進めしめられている。

その時の将軍は、犬公方で有名な、綱吉である。

やがて、第百十四代中御門天皇。1709年より、1735年。
第百十五代桜町天皇、1735年より、1747年。

この時代は、江戸元禄である。
水戸光圀らの労苦により、少しずつ芽が吹き出した。
国学者、賀茂真淵も登場する。

そして、第百十六代桃園天皇、1747年より、1762年。
御年、7歳。
将軍は、吉宗の後の、家重である。

時代は、いつも激動である。
日本も、長い徳川幕府の時代から、抜け出ようとしていた。

明治天皇から、三代前の天皇は、第百十九代光格天皇である。1779年より、1817年。

御製がある。
はへばたて たてばあゆめと いそぐなり わがみにつもる おいをわすれて

這えば立て、立てば、歩めの親心、である。

天皇は、世間に通じていた。
17歳の時、諸国に飢饉あり、米の相場が上がり、京都でも餓死者が出た。

そして、老若男女数百人が、御所の周りをぐるぐると廻るのである。
今で言えば、デモである。

御製
みのかひは なにいのるべき 朝な夕な 民やすかれと おもふばかりを

私が神々に祈るのは、自分のことではない。多くの庶民が、少しでも幸せになるようにである。

たみ草に 露のなさけを かけよかし 世をもまもりの 国のつかさは

国を治めるものは、人々に、露のような情けでもかけてくれ。

幕府の時代である。
天皇は、民を救えない。

ぐるぐる廻る「お千度廻り」という静かなデモ。
御所周辺は、幕府が手を出せない場所である。
だが、これにより、京都への支援米が早まったのである。

つまり、民は、皇室、朝廷が軽んじられているという意志を示したのである。

天皇が世間に通じていたのは、その母君が、町家の娘であった。庶民の血を引いていたことが上げられる。

お人柄は、剛直でもあり、体躯は二メートル近くあったという天皇である。
後水尾天皇と並び、江戸時代きっての、傑出した天皇といわれる。




posted by 天山 at 00:26| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。