2013年05月05日

国を愛して何が悪い68

格差の問題は、欧米と、日本企業の給与体系にも見ることが出来る。

欧米の企業幹部の給与は、一般労働者、社員の給与の百倍、千倍ということが珍しくない。日本では、伝統的に、幹部の給与は、低いのである。

その額は、新入社員の初任給の十倍、あるいは、十五倍以上と言うことは無い。

欧米では、その格差により、激しい嫉妬が噴出する。日本では、そういうことは、無いのである。

もっと、突っ込んで、西洋社会を見ると、いつも隣国などとの戦争により、鬱屈した苛立ちを発散させ、植民地で、日ごろの鬱憤を晴らす。

しかし、日本人は、このいずれの可能性も無かった。

内部に溜まった、不満のガス抜きを取るものが無い以上、問題は、あくまでも、自己の中で完結させるという。

日本人は、見知らぬ人たちの群集の渦にあっても、いつでも目に見えない、自分の繭に引きこもることが出来る能力を身に付けた。
どんな雑踏の中でも、欧米人ほど苛立つことなく、いられるのは、歴史から得た智恵である。

欧米人は、その肩を他人に触られるだけで、激怒することがある。
私も、実際に体験した。

更に、日本語は、断定的な表現を避けて、暗示という綿のように柔らかい表現方法を発達させたのである。

刺激的な物言いが和らげられて、過敏な反応も回避することが出来たのである。

また、反対意見に対しても、当たり障り無く、言い方により、賛同さえすることもある。

それを、以前は、日本人の曖昧さは、世界の非常識と言われたが・・・智恵である。

日本では、欧米人から見れば、過剰と思えるほどに、礼儀作法が発達した。
松原氏は、
その作法は、要は、人間が空間的にお互いに離れることのできない社会において、相手と人為的な距離をつくるための手段なのである。
と、言う。

更に、続けて、
今日もなお日本では、譲歩したり、相手や場の雰囲気に合わせたりすることが、美徳として高く評価される。譲歩してはじめて何かが達成できる。先を譲ることによってはじめて、開いたドアを自分が通れる。自分の意見を相手の意見とあわせることができて、自分の意見に耳を傾けさせ、自分の意見を通すことができる。
と、言うのである。

もし、同じことをドイツで試しても、大方失敗に終わるらしい。
松原氏は、ドイツに長く住み、ドイツ語で、これを書くほどの人である。そこから見た、ドイツ人は、
節くれ立った樫となってどんな厳しい攻撃にも抗しなければならない。常に自分にこう言い聞かせていなければならない。「私は屈服しない。私は説き伏せられない。私は翻弄されない」と。

そうなると、争いになるしかなくなるのである。

ヨーロッパ人は、いつも社会の中で、自己を拡げる十分な空間を持っており、握りこぶしで机を叩いて自己主張をすることに慣れていて、自制よりも言葉による衝突、闘争で決着させる方が、お好みだというのである。

さて、松原氏が、英国紳士はいかにして生まれたかという、チャールス・ピートリー卿の考察した一文を載せている。

「自制心は英国紳士の特徴だとよくいわれる。確かに英国人の自制心に対する愛着を国際社会で比較してみれば、その評価は正しいといえよう。しかしイギリス人のこの性向も、その歴史をたどれば決して古いものではない。1300年から1750年までの英国の歴史は、残忍な内乱の連続であった。征服された敵を、残酷を極めて虐待し迫害するのが伝統であった。英国の刑法はヨーロッパの中でずば抜けて情け容赦のないものだったし、また実際その通りに執行された。自制、それは18世紀から19世紀にかけて英国の生活様式の中に取り入れられたものだが、それは決して英国人の国民性が善に目覚めたことによるのではなかった。あくまで国民経済の利益のためだったのである。人口が増え、人々が裕福になると、物事は極端に走るのは得策ではないという認識が定着し、次第に自制、抑制といった伝統が育成されるようになった。つまり、自分自身と、文明の発展と、そして獲得した富を保守するために自制の精神が生まれたのである」

英国人が、紳士に目覚めた頃は、植民地を占有していた時期である。
更に、植民地は、本国で規則に従おうとせず、紳士として振舞おうとしない人たちに、広い活動領域を提供していたのである。

バンキングの子孫たちが、紳士になるのは、並大抵のことではない。
野蛮極まりない人たちが、それなりに、富、利益ということを、考えて、自制を身に付けていったというのである。

日本人とは、全く別物である。

植民地の無かった日本は、自己昇華をしたのである。

であるから、万国公法というものは、ヨーロッパ人たちが、長い悪行を続けてきて、やむなく作った、戦いのルールだったのだ。

それを日本人は、最初から、善であると、誤解していたのである。

実際は、西欧中心の、そして西欧人の自己の戦争を優位かつ合理的に展開するための、ルールとして作られた、国際法である。

その底には、差別全開がある。
非キリスト教徒、非白人への蔑視と、コントロール術が内包されていた。

幕末の志士たちは、万国公法を学ぶことが、文明開化であり、新しい時代への参入と考えて、これを迎えたのである。

ところが、悪魔というものは、善の顔して、華やかである。
賑やかな、西洋文明礼賛・・・

その文明の裏など、気付かずに、いたのである。それは、日本人が、性善説だからである。
更に、話し合えば解るという、甘さ。誠意を持って当たれば、通じるという、日本の伝統的美徳の精神に満たされていたからである。
哀れと言えば、哀れである。

今こそ、白人主義の野蛮と、傲慢に気付き、今度は早めに手を打つことである。

ちなみに、世界的な歓楽街では、イギリス人が最も、評判が悪い。
行儀が悪いのである。
紳士面をしていても、矢張り、血は隠せない。
酒を飲むと、その本性が出るのである。




posted by 天山 at 05:34| 国を愛して何が悪い2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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