2013年05月11日

神仏は妄想である。415

さて、聖書は、世界最大のベストセラーと言われる。
その聖書は、旧約聖書と、新約聖書から成る。

ユダヤ教は、旧約聖書が、聖典であり、キリスト教は、両者共に、聖典となる。

著作権から言えば、キリスト教は、ユダヤ教の聖典を無断で使用し続けているということになる。

そして、この聖典と言われる、聖書だが、一体、誰が、何を基準に聖典としたのか・・・
解らないのである。

聖典になるべく、血みどろの戦いがあったと、言われる。

旧約聖書は、39巻、新約聖書は、27巻である。
だが、それ以外にも、外典と呼ばれるもの、偽書と言われるもの、多数ある。

その外典とか、偽書というものも、一体誰が決めたのか・・・

更に、聖典として、現在も信じられているという根拠は・・・
全く、無い。

それは、権威主義の象徴である、教会が決めたのである。

新約聖書の一部の手紙を省いて、それ以外のものは、作者不詳の口伝文学、あるいは、伝承の類に属するものばかりである。

教会は、神の霊感を受けて書かれたものという、実に、不案内なことを言うが・・・
その根拠は無いのである。

更に、教会は、聖書を、神の啓示の書と、呼んでいる。

人間の勝手な解釈である。

ユダヤ教が、現在の旧約聖書を、はじめて聖典として採用したのは、紀元前75年の、エルサレムの会議においてである。

だが、その際に、多くの文書が、外典として排除され、あるいは消滅した。

キリスト教の場合は、そもそもはじめから、聖典として書かれた文書などあるはずが無い。当時の宗教は、ユダヤ教のみである。

だが、イエスを巡る周辺に、福音文学が成立し、それがやがて、ユダヤ教に対して、明確に自己主張するように、成長した。
が、旧約聖書をそのまま、取り入れたという、驚きである。

それは、イエスを旧約の契約にある、救世主という位置づけを行ったせいである。

キリスト教の聖典結集の歴史は、紀元2世紀から4世紀に及ぶ。

ここにも、正統、異端の、血みどろの戦いがある。
であるから、言う。
外典、偽書などという者は、事実を知らない。

教会権力が決定した、聖典をそのまま、受け容れているのである。

その中に、取り入れられなかった、文書を簡単に、偽書という神経である。
それは、洗脳であろう。
更に、批判精神も無い。

権威主義的宗教支持の最たるものである。
それらを、総称して、信者、信徒という。

実際、聖書結集以前の聖書というか、文書の時代がある。
その、文書の時代を、どう解釈するのか・・・

人間は、生きるために、何かを求め続けた。
そして、求めざるを得ない状況下にあった。

特に、その風土性である。
砂漠の宗教・・・

人間の、望みが、主よ・・・と、呼ばせた時代があった。
主が、存在するという、望みにかけた人たちがいたのである。

聖書の起源とは・・・
それを説くことで、その神を妄想し続けた人間の、悲しさが見えてくる。

更に、一筋ではいかない、聖書成立の問題である。
それは、支配者、為政者の思惑である。

夢のような物語ではない。
厳しい現実を生きるために、必要とした、幻想の文書の数々。

ユダヤ教、つまり、イスラエルの宗教の起源は何か。
そして、その神に選ばれたという、イスラエルが建国したが、滅びた。
それは、どういうことか。

すでに、昔昔のお話になっているのである。
聖書の時代は、過ぎたのである。
そして、神は、存在しなかった。

神の言葉として、存在したのは、人間の幻想であり、妄想であり、幻聴だった。

旧約聖書の、モーゼ五書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、そして、ヨシュア記を加えて、六書。
ここに、旧約聖書の根本主題がある。

新約聖書でいえば、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの、四つの福音書に当たる。

その聖書に大きな影響を与えた神話がある。
オリエント神話である。

旧約聖書のお話を、分析してゆくと、そこには、オリエント神話と更に、風土の問題が見えてくる。

聖書は、神の啓示ではない。
神話なのである。
神話であればこそ、理解可能になる。

そこで、混乱するのは、歴史的事実が混じるからだ。
撹乱させるのである。

また、それが聖書の魅力ともなる。



posted by 天山 at 00:03| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月12日

神仏は妄想である。416

創世記、出エジプト記は、雄大なイスラエル民族の起源を語る一大叙事詩といえる。

その、天地創造、人間誕生、失楽園は、神話、物語である。
そして、ノアの洪水。
その後、アブラハムの遍歴から、モーゼのエジプト脱出を境に、イスラエル十二部族宗教連合の結成に向かっている。

神話から、歴史へと展開する。

神話の部分と、歴史の部分を区分けて考えなければならないのだが・・・
一緒くたにして、神話も、歴史とするところから、おかしくなる。
つまり、権威主義的宗教に陥る。

結果、古代イスラエル王国誕生の基盤となる、物語である。
これを、人類全体の物語として、語るのは、誤りである。

アブラハムの遍歴が、紀元前1750年頃で、モーゼのエジプト脱出が、紀元前1300年頃であり、宗教連合の結成が、紀元前1250年から1225年あたりである。

ダビデによるイスラエル統一王国の形成が、紀元前1004年であり、モーゼ五書と、ヨシャア記の六書の範囲は、千年を超す。

物語の骨子となった最古の資料が成立したのは、ソロモン王の紀元前960年代であり、それは、イスラエル王国の黄金期である。

だが、紀元前926年の、ソロモン王の死を境に、イスラエルが辿る運命は、統一王国の分裂と、崩壊である。

つまり、六書の世界の崩壊である。

黄金時代は、ソロモン一代である。

紀元前926年、イスラエルは、南北に分裂し、革命、反逆と、国力が疲弊し、大国の侵略の前に、悲惨な滅亡と、亡国の一路を辿る。

王国誕生の物語は、亡国の離散の物語となった。

これで、終わったのである。

六書の世界が終わった。
だが、今も、脈々と、聖書としてユダヤ、キリスト、イスラム教に影響を与えている。
次の、聖書の時代は、予言の世界である。

つまり、イスラエル亡国から、ユダヤ教誕生の物語の伏線となる。

そこに登場したのは、救い主、メシアを求める願いと祈りである。

紀元前420年の、亡国イスラエルは、ユダヤ教として歩み出す。
これが、問題である。
イスラエルは、滅びたのである。
ただ、宗教、イスラエル民族の宗教としての、ユダヤ教が、歩みを始めたのである。

一つの民族の宗教であるということを、強調しておく。

であるから、十二部族の実体は、無い。
更に、神との契約関係も、部族ではなく、個人の意志によるものになった。

ここで、古代イスラエルの宗教との断絶が確定する。

ここで、天地創造の神、契約の神も、退場することになるのだが・・・

つまり、連綿として続いている、民族の歴史は、崩壊したのである。
ただ、残るのは、宗教的な意味においてのみである。

不思議なことに、亡国の体験が、新しい救世主、メシアの期待に託したということ。
メシア願望が、辛うじて、イスラエル、いや、ユダヤ人を支えたのである。

であるから、過去の聖書の六書の世界との、連続性の自覚を持つに至る。

だが、救い難いことである。
もう、時は過ぎたのである。

契約の神は、何一つとして、その民族の繁栄を続けさせることがなかった。
それでは、絶望である。

新しい人間にとって、その自己同一性を保つために、そのルーツを必要不可欠とする。それが、昔昔の神との関係だった。
そして、その神の威力が失せた時に、何と、救世主、メシアという存在を想定したという、悲劇である。

更に、そのメシアは、今に至るまで、ユダヤ教には、現れていないのである。

キリスト教は、イエスを、メシアとして、承認した。いや、創り上げた。

後期ユダヤは、宗教的、政治的に、実に複雑極まりない集団になってゆく。

聖書の起源を書いた、山形孝夫氏が、
旧約聖書の六書と新約聖書の福音書、この二つの作品群の間には、実に千年に近い大きな歴史のへだたりがある。しかし、この大きなへだたりを、オリエントの神話が、みごとな一本の線に結合している。私はそれは、モーゼのエジプト脱出から、キリストの最後の晩餐にいたる連続した一本の線として描こうと思う。
と、書くのである。

粘土板に残された、オリエント神話・・・
それが、重要な役割を演じている。

聖書が、単独に、神の啓示として、書かれたものではないのである。

それは、信じる者が陥る、非常に偏見と、偏狭に満ちたものである。

そして、最も危ういのは、権威的宗教による、承認という教義、教えである。
創り上げてゆく、宗教である。

神の世界も、去ってゆく。
新しい神が、また、誕生するのである。

何故か。
人間が創り上げるからである。

posted by 天山 at 00:02| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月13日

神仏は妄想である。417

創世記四章にある、カインとアベルの兄弟の物語。
それは、聖書が記す、人類最初の兄弟殺害物語である。

兄が弟を、野に誘い殺す。

何故か。
それは、主なる神の前に、捧げ物をするために、彼らが働いて得たものを、捧げることになる。

カインは、大地を耕して収穫した畑の初物を、捧げる。
アベルは、羊の初子と、よく肥えた羊を捧げる。

神は、アベルの捧げ物を、心にとめた。

そして、カインのアベル殺害である。
神は、激しく呪い、カインを断罪した。

何と言うことをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向って叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。

凄まじい、主なる神の言葉である。

カインは永遠に放浪者となるが、神は、イカンを誰も打ち殺すことの出来ないように、しるし、をつけた。
カインは、神の、しるし、を身に帯びて、神の元を去る。

カインは、エデンの東に移住し、その末裔の不幸がはじまる。

創世記の作者は、神に背いた人間の破滅的結末をみようとしたに違いない。なぜなら、もしも神による人間救済の業が開始されねばならないなら、それは、この破滅的結末から、出発するよりほかないからである。
山形孝夫

まさに、人格的な神の様である。
本当の問題は、神の側にある。
つまり、何かの理由がある。

その一つの根拠に、古代オリエントのメソポタミアの牧畜神、ドゥムジあるいは「タムムズ」と、農耕神、エンキムドゥの闘争の神話の変形があるのだ。

メソポタミア神話は、女神イナンナが、ドゥムジとエンキムドゥの、どちらを夫に選ぶかという、テーマがある。

ふたりの神は、女神の歓心を買うため、それぞれ自慢の供え物を捧げ、その優劣を競い合う。
競争は、牧畜神のドゥムジが勝利する。

ただ、ここには、カインとアベルの悲惨な結末はない。

悲劇の発端は、カインの農作物の供え物の拒絶である。
これは、古代社会の、切実な農作物の不作という切迫した状況を伝える。

砂漠の民族の、悲劇である。

カインは、アベルを野に連れ出し、その耕作地を豊かにするために、生贄にするのである。

カインの殺害の行為は、まさに宗教的目的に発する祭儀的行為そのものであった。要するに、カインは、司祭として振舞ったにすぎないということになる。
山形

神がカインに与えた、しるし、は、バビロニアの聖なる逃亡司祭の、しるしだったという。

司祭は、生贄の流す血によって、穢れた我が身を、一定期間、共同体から離れて、放浪するのである。

バビロニアの習慣である。

旧約聖書には、いつも血なまぐさい、生贄が供物として、神に捧げられている。

そこには、農耕民と、遊牧民の戦いの歴史があるのだ。

さすらいの民であった、イスラエル民族の、幾世代にも渡る、長い砂漠の生活から、農耕文化に生活形態を転換しつつあった様が、見えるのである。

農耕者カインにたいする告発と断罪は、新しい農耕文化にたいして、微妙に揺れ動くイスラエル民族の心の、みごとな表現ではなかったか。放浪者カインは、砂漠から沃地へ脱出をはかろうとする、イスラエルそのものではなかったか。
山形

カインの、しるし・・・
それは、呪いであり、同時に、庇護の、しるし、であった。

肥沃な土地では、有り得ない話である。
この、砂漠を舞台にした、壮大な物語を、今にまで、語り伝えるという、ユダヤの人々。ユダヤ教である。

単純に、旧約聖書を信じていると、とんでもない、妄想の世界に陥る。
天地創造の神・・・
唯一の神・・・
ヤハゥエという神・・・
実は、その正体は、その民族を象徴する意識の大本だった。

神話として、解釈しなければ、決して解けることの出来ない、話である。

ギリシャ神話然り、日本の古事記神話、然り。
そこから、歴史の源流がはじまるという。

神・・・
として、存在しているモノとは・・・
人間の意識の元である。

書き表すことが出来なかった時代の、お話を、書けるようになり、お話として、象徴的に表現する。
そして、それが、多々、多くの神話に寄りかかると、実に複雑極まりないものになる。

神が存在するのではなく、そこには、人間が存在するのである。

posted by 天山 at 00:01| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月14日

神仏は妄想である。418

カインの末裔の破局は、ノアの洪水である。

それは、地のおもてにいた、すべての生き物を、すべて地上から排除するという、神の怒りの計画である。

雨は、40日40夜に渡り降り続く。
そして、水は、150日、地のおもてを、覆った。

アダムの子、カインの末裔の最後である。
ノアが残されたのは、正しく、全き人であった、からである。

その神の怒りとは、人間の腐敗堕落に対する審判である。

自分が創り出した人間の、腐敗と堕落に怒り、滅亡させるという、その神・・・

この神話の原型とされる、バビロニア、シュメールの神話では、洪水は偶然的に、神の気まぐれで起こったものである。
バビロニアの神話では、人間が騒々しくて、神々の安眠が妨害された結果である。
こちらの方が、神話としては、面白い。

だが、聖書作家は、何かを意図する。

それは、洪水が、神の意志による、徹底的な人間の滅びであることだ。
そして、捨てるべき人間と、救うべき人間を、選別するのである。

最後の「残りの人」にむかって収斂する救いの歴史とみているのである。
山形孝夫

実に、姑息なやり方である。

さて、その次は、箱船に乗って、難を逃れたノアが、祭壇を作り、主なる神に、祈りを捧げた時、神が言う。
人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも寒さも暑さも、夏も冬も昼も夜も、やむことはない。

そして、ノアとその子らを、祝福し、
産めよ、増えよ、地に満ちよ・・・
と、言う。

再び、この民の歴史がはじまる。
人類の歴史ではない。
この、一つの部族の歴史である。

ノアは農夫となり、ブドウ畑を作り始める。
その子、セム、ハム、ヤペテに、彼らの子が生まれる。

セムの系図は、ユダヤ人、アラビア人、シリア人である。
ハムの系図は、エジプト人である。
ヤペテの系図は、インド、ヨーロッパ人種である。

そして、セム系の中から、アブラハムが出る。

アブラハムは、メソポタミアのウルに住んでいた。
この遺跡調査の結果、高層神殿が見つかっている。
その塔の下層の土中は、紀元前4000年に遡るといわれる。

シュメール王朝時代の住居跡と、その上を覆う厚さ2,4メートルに達する、洪水跡が観測されている。

ノアの子孫は、定住農耕民のように表現されている。
だが、アブラハムの生活は、違う。
遊牧民、半農耕民である。

さて、アブラハムの旅である。
父テラに従い、ウルを発ち、妻のサラと一緒に、ハランに着き、その地に住む。

ウルも、ハランも、重要な古代通商路だった。

父のテラが、その地で死んだ。
その時、アブラハムに神の声が・・・
あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように・・・

だが、神の示す土地は、書かれていない。
まことに、恐ろしい神の声である。

放浪・・・
その旅は、辛酸極まるものである。

通常ならば、このような神の声とは、悪霊の声として判断される。
しかし、聖書は、神の声と言う。

今に至るまで、この民族は、幸運に恵まれていないのである。
憎みと争いが絶えない・・・

彼らの持ち物は、羊と牛、天幕と家畜を扱う牧者たちである。
これは、遊牧民の有様である。
オアシスからオアシスへの旅・・・

アブラハムは、牧草地を確保し、その地に寄留するための、細心の工夫を凝らすのである。

更に、ついには、追われて、退去するより仕方がなくなるという。

ウルからハラン、そして、エジプトへ。
それは、アラビア砂漠を囲んで渡る旅である。

この具体的な旅の様子は、創世記を読むとよい。

物語には、土地をもたない寄留者のあわれがにじみでている。寄留地の確保という、ただそれだけのことに、アブラハムは、妻を犠牲にするという大きな代償を払わなければならなかった。これと同じ経験は、アブラハムの子のイサクの旅物語にもくり返されている。
山形孝夫

土地取得のための、苦難の旅である。

イスラム教のムハンマドは、このアブラハムの信仰に立ち返れと、名乗りを上げた。
アブラハムは、アラビア人と同じ、セム系の部族である。

創世記は、モーゼ五書の最初である。
そして、作者は、モーゼと言われている。

現在のアラブは、イスラム教が席巻している。
その常識は、世界的に計り知れないものである。

神の名が、アッラーに変わっても・・・


posted by 天山 at 02:34| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月27日

霊学106

アラン・カデックの言葉を借用すれば、アートマンは「苦しま」ない。苦しみ、感じるのは、アストラル体すなわち感情体なのである。
まさしく霊体を思わせるこの体は、肉体の死後しばらくのあいだ作りものの生を、受肉の生の反映を生きる。
それは物資界で蓄積した感情を消費し、そのあと「アストラル屍体」となる。これを構成するエネルギーは分解し、単純な状態になってこの界の共有財産に還る。このようなことは人間のさまざまな外被についても同様であり、外被のひとつひとつが人間の「意識」のひとつを担っている。これらの外被の分解は続いて起こる。
それゆえ、人間の意識は一時的現象、変化する現象であり、各外被のやはり一時的な生に付随するものにすぎないのだ。さらに注意すべきは、来世での旅は西洋の各派のそれとは反対の方向に行われるということである。「チベットの死者の書」によれば、人間は死後最初に、非常に短いあいだ「明るい光」と至福を感じ、それから自分の感情と肉体的至高の記憶によって下方に引きずられるという。
カステラン 改行は、私。

それは、インド、東洋の考え方を言うものである。

更に、説明が続く。
ただし、アートマン、この「無」、この反映は受肉の生を通過するあいだ変化しないということは、必ずしも正解ではない。脱皮の終極においてアートマンが最後の体を放棄したとき、アートマンが地上に再降下すめためにつくる微細な体が影響を受けるのだ。それは各界におけるこのアートマンのカルマに見合う微細な体となるのだ。・・・

インドのいくつもの教派が輪廻を考えるのはこのような複雑な形においてである。目に見えるような比喩を用いるならば、こういうこともできよう。
アートマンは経験を積むたびにカット面がひとつずつ研磨されてゆくダイヤモンドに似ていると。この研磨はたぶん無限に続くのだろう。

実に、明確なインド、オカルティズムの理解である。
実に、複雑極まりないのである。

世の中で、前世は、誰々などという前世の云々が、いかに、馬鹿げているかが、解る。

つまり、エネルギーの集合体は、先行する生のものとは違う。
しかし、諸元素は、別の体、動物の体や、植物の体も含めた、別の体に所属しているともいえるのだ。

ここで、西洋は、思考や人格に、根本的に重要性を認めるが、思考は魂と一体であり、思考は、魂の本質的な属性である。

カステランは、極論すれば、
人間はカルマの試練として、生まれつきもしくは事故で頭脳を切り落とされたとしても、自分の思考を外在化し共通の形式をとらせるための道具を失っただけであり、そのことだけを苦痛に思うのである。
と、言う。

つまり、心理学者、精神科医から見れば、それは空想の何ものでもないということになる。

東洋にとっては、思考は物質であり、ある器官の機能であり、感覚の証言に左右されるものである。
精神は、人間を分かち合う、様々な引力を映す鏡であり、イメージの製造者である。

人間存在が個人的な形態のままで、死後も存続し、意識を持った「中央集権的」な個人としてまともに話をすることができるなどと信じるのは、通俗的な幻想に過ぎない。

仏教の言う、認識は、思考ではない。
受肉した魂であれ、していない魂であれ、心霊主義は、すべての魂に自己教化のために努力することを勧め、カルマの軽減と道徳的進歩は、知的概念の進歩を伴わなければならないという。
しかし、インドの叡智にとって、それは、問題にならない。

問題になるのは、人間の内部にあり、普段はセックスによって消費されている、力、クンダリーニを、松果腺に隣接した前額部の透視の中心に固定することにある。

その瞬間、感情、精神は、沈黙し、活性化された透視能力が、宇宙全体を支配下におく、最上位の圏と、修行者との一体化を可能にするという。

物理的現象については、心霊主義が報告している奇蹟は、すべてインドのオカルティズムには、よく知られたこと。当たり前のことである。

これを深く掘り下げることは、必要ないと、思う。

それが、果たして、良いことなのか、悪いことなのか・・・解らない。

更に、霊学として、それが、問題ではないからだ。

ただし、心霊主義を言うところと、インドオカルティズムは、根本的に違うといことだ。
そして、いずれにせよ、危険である。

人間には、未知の力が、宿っている。
しかし、それを、開発するという名目で、多くの誤りが繰り返された。
更に、幻想、妄想の世界を生み出した。

特に、宗教的な団体が行う、修行と称するもの・・・

何一つ、勧めるものは、無い。

特殊能力、あるいは、超能力という、危険極まりないもの・・・
更には、即身成仏などといわれる、幻想など・・・多々あり。

生き神様
生き仏様
人間は、そんな存在にならなくていいのである。

解脱・・・
それも、嘘である。

人間は、人間として、生きる。

この心霊主義から、インド・オカルティズムなどに関して、医学的見地からは、どう判断するのか。

それを持って、心霊主義に関しては、終わる。
更に、心霊研究から、神智学を見る。

心霊研究の多くが、医者であること。
神智学の多くが、哲学者であることが、面白い。
霊学への道は、遠いのである。

posted by 天山 at 14:18| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月28日

霊学107

心霊主義と医学が出会うと、心霊研究になる。
心霊研究者の多くは、医者である。

それは、人間の内部に存在する、潜在能力の研究に情熱を燃やすからである。
更に、別な観点からも、医者が警告を発するようになる。

それらの、警告は、心霊主義の実践者の健康、とりわけ精神の健康に及ぼす影響などである。

例えば、「下級霊の」重く不健康な流体は霊媒の健康の全般的状態に変化を及ぼし、彼らの判断力や意識を乱す。場合によっては、憑依や狂気に導くこともある。

最も強力で最良の霊媒でも、全員、肉体か魂のどちらかに病をかかえています。精神病院で狂死したCh・フォスターの嘆かわしい最期を思い出してください。癇癪になったスレイドのことを思い出してください。現在では英国第一の霊媒エグリントンも同じ病気に悩まされています。さらにはまたダングラス・ホームの生涯がどのようなものであったか御覧なさい。最後に最も古い霊媒で、近代心霊主義の創始者であるフォックス姉妹のことも。四十年以上も「天使たち」との交信を続けてきた姉妹は、天使たちのおかげで不治の狂人となったのです。
ヘレナ・ブラヴァツキー

じっさい、霊媒の役割はもっぱら「受動性」のうちに存する。自然発生的なものであれ、人為的に引き起こしたものであれ・・・
霊媒の仕事は、実体を前にしてーー心霊主義者は言う。
あるいは催眠術師や無意識の幻影を前にしてーーー心霊主義を信じない者たちは言う。
個人的意識と意志を消滅させることにある。
カステラン

心霊主義は反教育を施す。意志を弱め、アデプトの精神を自動的無意識が生み出すありとあらゆる空想に引き渡すのだ。・・・トランス状態においては、多少なりとも悪い性向や思考、かつて教育によって抑圧され、ときには忘れられていたが無意識の底辺では保存されていた性向や思考が、意志の制御から解き放たれてしまうのである。
ドクター・フィリー・ボウドゥー

医学会の大部分が、
個性を消滅させるという霊媒の能力は、最初は交霊会のために努力して得られる一時的な現象かもしれないが、次第に不都合なものになっていく。霊媒は時と所をかまわず自己分裂し、トランス状態に入るようになる。『メッセージ』は数を増し、こみいった内容になるが、不孝な霊媒は次第に元の人格を取り戻すのが困難になってくるのだ。ときには元の人格に戻れなくなってしまうこともある。・・・

更に、その観客にも分析が、向けられている。

精神的に脆弱な者が子供染みた軽信から心霊主義を信奉し、悪魔憑きのような性格をもった錯乱の危険を冒している。精神のバランスを欠いた者、多くは知的な人物だが、意志薄弱で判断力の弱い者は、想像による過度の興奮や錯乱の危険を冒しているのだ。さらに、実生活から遊離し自分のうちに閉じ籠っている分裂病質の者は、オカルトに孤独な生活の糧を見出しているのである。総体的にいって、心霊主義の実践は精神障害の傾向を助長するようだ。

更に、心霊術のサロンを構成する人たちの精神病理学的人物像を描き出す。

精神的に脆弱な者・・・人生に押しつぶされそうなので、最高の慰めとして歯止めも見境もなく心霊主義に没頭し、何でも信じ、あらゆる種類のオプセッションにさらされている。偏執狂質の者・・・社会生活において自尊心が強すぎるために傷つきやすく、鼻つまみものとなっている彼らは、見物物に引き付けられるように、「霊が呼び出される薄暗いサロン、匿名のままで自尊心や過剰な感受性を・・・霊たちはそれらを侮辱することはないので・・・無傷のままに守ることのできる薄暗いサロン」にやってくる。

小心者、根暗な者、内気な者も「闇のなかに静かにやってくる。人に見られさえしなければ落ち着けるのだ」ただしメランコリーが彼らを狙っているのだが。
神経症質の者・・・ヒステリーの非定型的発作や、自然発生的もしくは容易誘引される夢遊病状態を起こしやすい彼らは、好んで嘘をつき、交霊会では興味の中心になれると感じている。彼らは催眠術師の「被験者」や霊媒の補佐、あるいは霊媒そのものになりうる。多くの女性がこのように行動している。あらゆる思想をごちゃ混ぜにし、活動的かつ戦闘的で重要な存在となっている。

心霊術による錯乱はほとんどの場合幻覚をともなっている。視覚、聴覚、臭覚、味覚、体感、性感、大脳活動の幻覚を。大脳活動の幻覚はとりわけ文字や言葉の形態をとる。

その他・・・

私の経験からは、特に、女性に多いが、霊感がある・・・というもの・・・

本当か嘘か解らないが・・・
虚栄心が強く、自己顕示欲も強い。
そして、その霊感による言葉を持って、人を支配しようとする。

この部屋には、霊がいる。
何か悪い霊の予感がする。

更には、誰々の生まれ変り・・・
それを誰も証明することは出来ない。

単なる思いつきが、重大な予言のようになる人たち・・・

これらも、心霊主義の中に含めるとしたら、相当に広い範囲で、心霊主義が広がっているということ。
更に、無意識に・・・である。

精神的に危険であると、明言できる、霊媒のサロン、あるいは、霊媒師たちの言葉である。
霊の言葉を語る・・・
その、根拠は無い。
ただ、信じるだけである。

それは、宗教似る。
そして、信じる者は、騙されるのである。

心霊主義と、心霊研究は、ライバルであるが・・・
その心霊研究からも、新たな実証的、証言が出てくるのである。

中でも、精神科医によるものが、多い。

治療の段階で、患者に罹る霊が話し出すという・・・

霊、あるいは、霊界という未知なる世界に対して、特に興味を持つ人たちがいる。
実に、宗教に近い形である。
更には、宗教団体までなる集団もある。

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2013年05月29日

霊学108

心霊研究者たちは新たな領域に移動していった。人間の内部のこれまで知られていない能力を探求したのである。そのかたわらでは、公認医学が人類と同じくらい古くから存在する研究をゆっくりと続けていた。おおかたの予想とは裏腹に、この二つの道はついに交わったのである。
超心理学 カステラン

前回までのカステランの著作の、続きである。
心霊主義から、心霊研究である。

動物磁気と、催眠術は、その初期には結びついていた。
磁気術師が、手わざを行うと、患者は特殊な状態に入り、時には、激しい状態、あるいは睡眠に似た状態に陥った。

そして、それは、いつの間にか、治療手段として、臨床医学に入り込んでいたのである。

一々、人の名前、その団体は、省略するが・・・

様々な試みと、研究がなされたのである。

さて、まったく別な方面から、ヒステリーという観念が、姿を現してきた。

フランスの精神科医、フィリップ・ピネルである。
1838年、法制化された、ビネルの改革により、それまでの雑居と恐怖が支配する、監獄状態に代わって、観察と実験と研究の場が、精神障害の専門家たちに提供されるようになった。

ヒステリーの研究は、1880年より、シャルコーと共に、絶頂期を迎えた。

シャルコーは、ヒステリーという名の下に、多数の様々な障害の系列をグループ分けした。
記憶喪失、知覚麻痺、部分的・一時的麻痺、癲癇発作と、紛らわしい痙攣発作、視覚障害、そして、催眠癖である。

催眠状態には三つの段階があるが、多くは継続的に現れ、ときには逆の順序で、あるいは同時並行的にあらわれることもある。いずれの場合も無痛覚症を呈し、その代償としてある種の感覚の残存もしくは過敏をともなう。
カステラン

その実験の様々を記すと、終わらないので・・・結果だけを書く。

催眠状態の患者は、画像があると思い込んだボール紙の微細な特徴を感知した。
そして、聴覚も、視覚と同じように、敏感になる。
筋力昂進。

ヒステリー性睡眠の発作に襲われている間、あるいは、その少し前、患者の体重が急速に減少し、尿を分析すると、あらゆる元素の量的質的減少が確認できた。

ここで、カステランは、
透視能力は、著しく増大した知覚力、あるいは驚異的な記憶力・・・
と、言う。

重い物体の移動、異常なまでの無感覚・・・
交霊会における、霊媒の体重減少も、同様に説明できる可能性がある。

偉大な霊媒師は、ヒステリー症、あるいは、ヒステリー癇癪の持ち主である事が、知られている。

ヒステリー患者のそれ自体病理学的な段階にある虚言癖に焦点を合わせることによって、偽装癖の患者の身体まで及んでいることが明らかになった。ヒステリー患者は身体で嘘をつくのである。
カステラン

シャルコーの後継者である、ジャネは、ヒステリーを通じて、自動症や心理学的無意識の世界を発見した。
そして、心霊現象の領域である、人格の病的分裂をも、明らかにした。

ジャネは、
心霊主義のいう催眠状態、あるいは人格分裂は、ヒステリー患者の意識の弱まったフィールドを、一群の思考が急激、かつ一時的に占領し、姿を現しただけのことである。
霊たちが送り出すイメージを受け止めるといわれている水晶玉は、ヒステリー患者を人格分裂状態に入らせる役割を果たしているだけだ。
と、言う。

ジャネは、人格分裂に、感情的動機があるとは、考えなかった。
そこで、フロイトの登場である。
フロイトは、ヒステリーの範疇を超えて、失錯行為、言い違い、忘却、夢を通じて日常生活に密着し、これらの侵害が内部に由来するものであり、正常な生を持つと示したのである。

ジャネの別の言い方では、霊媒の自動書記、人格分裂現象は、あらゆる病理症候と同様に、無数の筋道を通じて、正常な生理につながっている。
病気と健康の境界線を議論し始めると、尽きることがない。
と、なる。

人間の内部には、無意識の要素が集まり、第二人格を形成しようとする傾向があるという、考え方も現れた。

霊媒は、通常の限界を超えてしまうものである。
役者は、その極限にまでいたるが、霊媒は、イッてしまうのである。

病理的精神自動症を完璧に研究し、クレランボー症候群という一つの症候群にまとめたのは、フランスの精神医学者、がエタン・ガティアン・ド・クレランボーである。

それによると、
最初のうち、神秘家の創造的努力は完全な意識をともなって行われる。これに対して、無意識の周縁部に放置された精神の萌芽は、斬進的な成熟を遂げるようであり、その最終段階が、啓示や思いがけない意志――自分がその意志の持ち主だと信じられないほど思いがけない意思の噴出、あるいは微発なのである。このような症例は心的幻覚によって翻訳され、自分自身が奪われ、ある霊体に所有されているという感情として表現される。これらの心的幻覚は遅かれ早かれ、感覚、聴覚、言語、そしてとりわけ言語精神活動の幻覚と複合してゆくものである。
と、なる。

科学の上での、無意識の発見は、多くの心霊現象を心霊現象としては、破綻させたのである。

無意識の発見以降は、人格分裂は、外部の霊が、肉体に下降することによって生じるという、二重人格と、必ずしも同一視しなくてもよくなったのである。

人間自体が、二重である。
という、結論である。

だが、話は、まだ続く。


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2013年05月30日

霊学109

無意識・・・
ピエール・ジャネ

まるで精神のなかに二種類の活動、互いに補い合い、ときには互いに防げ合う二種類の活動が存在するかのように、ことは運んでゆく。意識活動は、数に大小はあるが、与えられたさまざまな現象を、新たなひとつの現象に・・・それらを構成要素としつつもそれらとは異なった新たな現象にまとめてゆく綜合活動である。それは真の創造である・・・

「しかし、人間精神のなかには第二の活動、わたしとしては保守活動という以外にはよい名称が思いつかない活動が存在する。いったん出来上がった綜合は破壊されることなく、統一性を保ち、その構成要素を最初に配置したままの秩序で保持する・・・それだけではない、先に遂行された綜合が完成ではなく、精神のなかにいまだ構成要素の一部しか存在しない場合、保守活動がそれを補いにくる。当初の全体性を再生するために必要な欠如要素を追加するのだ。」この二つの活動は通常並存し、人生のさまざまな行為を分担している。自動的活動は反復しても不都合のない低次元の行為を司り、精神は応用を必要とするより複雑な行為をコントロールしている。「しかし、この創造的活動が人生の初期に大いに働き、大量の構成要素を集積したあと、突然活動を止め、人生の終わりがくる前に休止するようなことがあると、精神はただひとつの力の活動に、制御のなく委ねられてしまうようになる。」

つまり、無意識である。

それは、人間自体が、二重であるということだ。

その無意識の利用の仕方・・・
それで、治療医学・・・
心霊・・・

無意識に関しての、哲学的影響は、無視できないものになる。

霊能力というもの・・・
無意識で説明可能になる場合、多々あり。

無意識の世界は、魑魅魍魎の世界であるから、何でも可能である。
だが、それで、すべてが解決することはない。

見えない無意識の世界である。
そこには、更なる、オカルトの世界がある。

科学が完全足りえないように、無意識に関しての考え方も、完全足り得ないのである。

故に、何があっても、驚かない。
無意識を開放したら、何でもあるということになる。
ただし、狂う。

霊能者でも、狂えば、誰もが解る。
だが、狂う手前であれば、解らない。

私が、この宇宙を支配している者である・・・と、言えば、狂っている。
しかし、この宇宙を支配している、神とのコンタクトが出来ると言えば、まだ話は聞けるのである。

そして、多くの霊能者は、後者の方である。
狂った者は、病院に運ばれる。

反社会的カルト集団の教祖は、解脱したと、言った。
自己申告であるから、誰も、何も言えない。
ただし、それを信じた人たちがいる。
そして、彼により、その段階の認定を得た。本当か嘘か、解らないが・・・

宗教に入信して、天国に行く、極楽に行く・・・
それは、単純素朴な、心情である。

だが、二千年前に、亡くなった、開祖が現れて云々となると、おかしくなる。
更には、想像の産物である、神仏が現れて云々・・・
もう、話が出来ない状態になる。

心霊研究に戻る。

心理学的にはただひとりの個人がいるわけではない。人間の内部にはただひとつの自我があるわけではなく、一群の自我が存在するのだ。そして意識現象であるように見えている事象は、じつはわれわれの意識とは異質のままであり、人体のなかでわれわれの意識と結びついたさまざまな別意識のうちで生起するのである。これらの意識は、解剖学的には神経節システムの一連の神経中枢として表象される階層をなしている。
デュラン・ド・グロ博士

科学的研究の段階では、超常現象は、人間の何らかの側面、一般的に言えば、無意識的な側面に関係するということになる。

人間の隠れた特殊能力ではなく、無意識によるものであるということでは、心霊研究自体が、後退することになるのである。

無意識ではあるが、知性をもった心理学的自動症が存在する。意識して望んだのではないのに、自発的であり知的であるように見える行為を産み出すのだ。
グラッセ博士

グラッセ博士が、グロ博士に続いて採用した、多角形精神構造という概念がある。
「多角形」精神構造の内部には、高次の精神構造と同じ諸能力の完全なセットが存在すると言う。

これらの能力は、通常の生活では、階層化されて、高次の世話威信構造に従属するものである。

この説明は、省略する。

一つ面白いのは、占いの現場である。
すべての占いの現場では、何らかの多角型構造の分離を促進しているに過ぎないとなる。

つまり、占いの相談者は、ほとんど感知できない無意志的なリアクションにより、あらゆる兆候に対して、知覚過敏状態にある占い師を、誘導しているというものである。

そうすると、心霊現象も、霊媒の病理学的自動症が、参加者の正常な心理学的自動症によって、増幅されたものと、説明できる。

二重人格、霊の憑依も同じく・・・

霊が憑依した霊媒は人格が変わった主体である。ただし催眠術の場合と同じように、変化するのは多角形構造の人格であり、これが、他から吹き込まれた、あるいは想像上の示唆に対して、次々と適応してゆくのである。
グラッセ

オカルト現象と呼ばれる驚異的現象の特別な性質は厳密に証明されたわけではなく、未知の実在を肯定する根拠となっている実験や事象は、イカサマと心理学的・病理学的自動症によって説明できるのである。
クロック博士


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2013年05月31日

霊学110

不完全な、あるいは常軌を逸したさまざまな綜合の試みのあと、新しい世代は心霊研究の問題をより簡明な項目に置きなおした。百年近くのあいだに心理学と精神病理学にすでに吸収された現象は差し引いても、なお超常現象は存在しており、それは、次のような形で発現するのである。

空間的あるいは時間的に感覚の到達範囲を超える事実の認識、これはESP現象、すなわち超感覚的知覚現象である。これをさらに分けると、空間的に被験者から離れた事実に関する洞察はテレパシー現象に、過去もしくは未来の時間的に離れた事実に関する洞察は透視に分類することができる。テレパシーおよび透視という語はここではいかなる仮説も含んでいない。カテゴリーを表わす名称であり、それ以上のものではない。

物体に対する異常の陽動作用、これはPK現象、すなわち念力である。
カステラン

現代の超心理学の、まとめともいえる。

二つの現象は、つねに同時に生起する。
サイ機能の現れにおける、両者の相対的重要性は、被験者の霊媒としての訓練に依存する。
訓練が、超常的素質を、ある決まった方向へまげてしまうという。

ESP作用と、PK作用は、人間の心的構造と、関係があるということ。
人間の、心的構造の一機能を、いまのところ、その性質がわからず、PSI機能と、呼んでいる。

超心理学の世界の様子の一つに、計量学派といわれるグループがある。

読んで字の如くである。
計るのである。実験をする。

詳しい説明は、省く。

その結論である。

ESP現象の発現に好都合なのは、意識的生が低下した「たそがれ状態」である。そのなかには催眠トランス状態、麻酔分析、睡眠、何らかの病気があり、さらにはアルコールやコーヒーからペイヨーテ、阿片にいたるさまざまなドラッグの効果がある。なかでも愛憎関係をともなった洞察の場合、質的に驚異的な結果が得られる。・・・

ESPを成功させる被験者のタイプは、感情的、非論理的、直感的な人間である。子供は女性より成功率が高く、女性は男性より高い。そして最重要なファクターがある。自分に自信を抱いていることである。

奇妙な現象がある。「サイ・ミッシング」現象、すなわち否定的結果に偏ることである。最良の被験者の場合でも、成功率が偶然による期待値を大きく下回ることがある。まるで、わざと誤答するために利用しているかのようである。「それは実験者に対する反感、不快感、敵意」

更に、テレパシーは、あらゆる点で、親近性や反復の法則をふくめ、個人心理学の通常の観念連合と同じように振舞うのだ。と、ある。

ある人々の観念連合が、他の人々によって、体験しうるのだと、観念連合は、無意識の共通のファンドに、人類の集合的魂に属すると仮定しなければならない。

この、観念連合とは、面白い。
ユングの世界である。

動物の集合的魂はおのおのおの種にとって、本能の源泉であり、無意識的・テレパシー的に感知された共通の体験であるようだ。
カステラン

人間も、同じことである。
単に、それが、複雑になったためである。

観念連合ということから、一足飛びに飛躍して、心霊人格、精神病質者の多重の人格が生じるといえる。

人類の生活必要上の、共通観念は、あまりに複雑になり過ぎた。
ゆえに、未知なる世界への、研究が必要になった。と、考える。

極めて省略して、説明しているが・・・
これで充分だと、思う。

さて、数学、物理学の成果によって、空間の四次元の物的可能性を、認めることが出来るようになった。
四次元の認識が、「ハイパー物理学」を基礎づけ、アポーツ、エクトプラズム現象を説明できるようになる。

テレパシーに関する、生理的仮説、そして、精神分析・・・

1938年、ユングは、三次元を超える世界のことを、考えていた。

テレパシーの問題がここではきわめて重要になる。・・・
しかるに、われわれはテレパシーによる認識がいっさいの空間的限界を、そして過去と未来の境界を突破するのをまのあたりにするのである。この機能の本拠は無意識のなかにある。それゆえ、心という実体はわれわれの理性をはるかに超える暗い深部まで拡がっているのだ。とはいえ、無意識がじっさいにわれわれの時空間世界の外部にある現実を捉えていると結論することはできない。といって逆の断言をすることはなおさらできない。
カステラン

面白いのは、超自我の象徴である、両親のイメージが、先祖崇拝を産み出したという。

更に、夢や、幻覚や精神病によって、客体化された死者の霊は、彼らを失った者の意識から、分離した、コンプレックスである。というものである。

さて、現代超心理学は、数学的な傾向が強いという。
それは、これからのことである。

ここで、ユングを通して、更に、神智学へと進むことにする。
オカルトである。
更に、もう一つの現実を見るものである。
現実を認識しているが、その裏の現実という意味でもある。

コップレックスに関して、一言言う。
劣等感とも言われるが、違う。

それは、心に溜まった、多くの記憶の絡みである。
一般的に、コンプレックスとは、マイナスイメージに受け取られるが、心理学では、心の襞であり、多くの記憶の束であり、それが絡まり、抜け出せない心理状態を言う。
逆に、プラスイメージを持つという、言い方も出来るのである。


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