2013年05月01日

国を愛して何が悪い64

日本国内にいて、日本を見るというものは、難しい。
当たり前の感覚に慣れて、見逃す。

だから、一番良いのは、異国との相違点である。
特に、西洋礼賛、アメリカ礼賛が主流だった一時期から、今少し時を経て、それら白人の国との相違を見ることが、有効である。

今、手元に、驕れる白人と闘うための日本近代史、という本がある。
日本人がドイツ語で書いたものを、また、日本語に翻訳したものである。
著者は、松原久子、訳者は、田中敏である。

その一部から、
ドイツ人が手にするどの紙一枚についても、そもそも紙は、アラブ人が紙の製法の秘密をスペインに持ち込む以前に、すでに一千年もの間、中国で使われていたという事実を心に銘記しておいてほしい。その製法がスペインからドイツのニュルンベルクまで伝わるには、さらに二百五十年を要したのである。・・・
カルロ・チッポラは17世紀以降のヨーロッパ文明の繁栄について大袈裟な言葉で次のように書いている。
「ある社会の生命力は、自己のアイデンティティを失うことなく、また余分なマイナス要素を取り入れることなく、他の文化を十分に借用する能力に最も明白に示される」
借用することは、カルロ・チッポラによればよいことなのである。ただし、借用するのがヨーロッパ人であれば、である。

もし他の、非ヨーロッパ社会が同じことをすれば、激しい批判が巻き起こる。
「日本人は相変わらず猿真似をしている。彼らは役に立つと思われるものは何でも取り入れる。百年間彼らは西洋をコピーし続けた、政治機構であれ、法制度であれ、工業製品であれ、そしてそれを恥だと思ったことがない、真似という芸当は大昔から彼らの伝統だからだ」

ヨーロッパ人が他民族、他文化圏から何か役に立つものを取り入れれば、彼らは自分たちがいかに文化的に開かれ、受容能力があるかを誇らしげに語る。そこに何かを付け加えて成功したならば、「独創的」だと評価する。ところが、もともとヨーロッパの発想であったものをどこか他の国で、例えば日本が借用し、応用した場合は、この「独創的」という言葉はまず使われない。

私は、ヨーロッパの内容豊かな独創性に疑いを抱くとか、ましてや過小評価する気などさらさらない。ヨーロッパは間違いなく、その優れた独創性を賞賛されるに値する。

ただ私が不思議に思うのは、ヨーロッパ文化の体面を顕示する際の、あのバランスの欠けた態度である。自分たちが、自分たちだけが、独創的なのだと主張するあの断固たる態度である。その態度が、私にはどうしても我慢ならないのである。
松原久子

と、いうことで・・・
そこにあるのは、優越意識であり、白人主義である。

ヨーロッパという、世界の一地域を世界であると、幻想しているヨーロッパ人である。

ゆえに今でも、彼らは、変わらない。

白人優越意識、主義とでもいうか・・・

白人による世界史の「流れ」は、ルネッサンス、産業革命、フランス革命、アメリカ独立と一貫した精神で貫かれている。それは自分たちの考え方こそ真実であり正しいと信じ、それによって世界を動かそうという白人たちの理想主義によってつくられた流れである。この白人の理想主義は、それに反対するものは許さないという一種の思い上がった狂気を内包している。
清水馨八郎

イラクを攻撃した、元アメリカ大統領のブッシュは、十字軍という言葉を用いて、イラク攻撃を開始した。

その、十字軍とは、ヨーロッパの戦争のはじまりである。
イスラムに対する、戦争であり、徹底的に、略奪、強盗をして、成り下がった。
そして、恐るべきは、神の名において・・・

現在のイスラム系テロリストが、何故、生まれたか・・・
それ以前の、キリスト教の蛮行によってであることを、知ることもない。

上記の、清水氏は、過去1500年ほどのスパンで、白人の血の中に組み込まれた遺伝子を見ると、次の三点に注目するという。

第一、 8世紀から11世紀に活躍した北方ゲルマン民族によるバイキング、海賊の実相。
第二、 砂漠の宗教であるキリスト教を政治的に取り入れ、布教し、11世紀から13世紀の長きにわたってイスラム世界を侵略した十字軍の蛮行。
第三、 デカルトの人間中心の二元論的思想・哲学、弱肉強食=適者生存のダーウィンの進化論などを基にした、西洋の物質科学技術文明の世界支配などを挙げることができる。
と、なる。

その、略奪性、侵略性、野蛮性の本性は、十字軍の蛮行や、コロンブス以来の世界侵略の手口、英米アングロサクソン族の世界制覇の手口である。
大東亜戦争に見る、アメリカの原爆投下、そして、日本侵略などの蛮行は、まさに、バイキング精神が一貫して流れている。

日本侵略は、江戸末期の黒船当時からの、願望であった。

現在文明人の顔をしている英米のアングロサクソン民族の祖先が、海賊のバイキングであったことを忘れてはならない。彼らの血や遺伝子の中には、バイキングの攻撃性、残虐性、収奪性、策謀性の行動原理がしっかりと組み込まれているのである。
清水

大東亜戦争時、英米を、鬼畜英米と呼んだのは、誤りではなかったようである。

以前にも、そのバイキングの民族の発祥を書いている。
その、バイキングに最も加担したのが、これまた、野蛮なユダヤ・キリスト教である。

ユダヤ教の聖典である、旧約聖書は、兎も角、一つの民族の神話、伝承であり、他民族、異教徒に対する、攻撃性と、排他性で溢れているのである。

それと、結びついた、バイキングであるから、手が付けられない。

西欧白人が、短時間に全世界を制覇、征服できたのは、鉄砲という武力だけではない。キリスト教という、文治、宣撫策を巧みに活用したからである。

侵略者は、宣教師を伴い、宣教師を侵略の手先にして、他民族の宣撫策を行ったのである。

日本も一時期、九州が、実はキリスト教の植民地になっていた事実がある。
それに秀吉が気付き、早めの手を打ったから、救われた。
それを、キリシタン弾圧というが・・・
弾圧ではない。
国を守るための、方策であった。


posted by 天山 at 05:07| 国を愛して何が悪い2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月02日

国を愛して何が悪い65

ユダヤ教の選民主義から、キリスト教へ移行してからも、その選民意識が、受け継がれた。

ユダヤ・キリスト教に関しては、別エッセイ、神仏は妄想である、に、詳しく書いているので、ここでは、それを省略する。

ただ、カナンという砂漠で出来た民族宗教である、ユダヤ教の聖典とされる、旧約聖書は、実に、傲慢非道極まりないものである。

そして、その神に選ばれた民族・・・イスラエル人である。
その選民意識を、そのままキリスト教が受け継ぎ、そして、それを白人に置き換えたのである。

つまり、白人は選ばれた人種となる。

その旧約聖書から見ると、神―人間―自然となる。
自然とは、動植物、被造物ということである。

階級主義による、世界観である。

それが、他民族を征服し、奴隷化すれば、奴隷は家畜と同じく扱うのである。
そこに、何の痛み、憐れみも無い。

つまり、ユダヤ・キリスト教は、遊牧、狩猟、牧畜、奴隷使役生活に都合の良い宗教になっている。

イスラエル人は、奴隷を引き連れて、移動していたという事実。

有史以来、世界の砂漠化は人間の営みによって急速に進んできている。それは遊牧、肉食民族の一神教の拡大と軌を一にしている。キリスト教では人が自然の上位にあり、人は自然を征服支配してもよいという思想だから、現在進行中の地球環境悪化や砂漠化の責任の一端はキリスト教にある。
清水

キリスト教の南北アメリカ大陸への拡散によって、森林の牧場化などで森の破壊が一挙に拡大した。
北米は、キリスト教徒の入植以来、わずか300年で、森の80パーセントを消滅させたのである。

古代の日本人は、自然は、命あるものであり、その自然に生かされていると、感じてきた経緯がある。
自然を支配するなどとは、考えないのである。

更に、キリスト教の平和、愛の対象は、白人自身の身内のことである。
自然、そこに含まれる、動植物、家畜、奴隷は除外してある。

更に、異民族、異教徒も除外である。
ユダヤの思想は、そこで完璧になるのである。

キリスト教は、それも受け継ぎ、キリスト教を信仰しない民族は、野蛮人として排除する。更には、抹殺してもよいのである。

ユダヤ教の一派だった、キリスト教は、ローマの国教となり、西欧全体に広まった。
そして、ユダヤ教にある、妬み、復讐、対立、抗争の思想が、そのまま引き継がれた。

であるから、11世紀から13世紀の聖地奪回という、十字軍の遠征を見れば、よく解る。戦争を始めたのは、キリスト教であるといえる。

第一回の遠征は、成功したが、その後は、皆々、失敗に終わっている。しかし、その後の、十字軍は、宗教の名を利用した、強盗団に変質した。
手当たり次第の、略奪行為を繰り返したのである。

この十字軍の暴挙は、15世紀のコロンブス以降も、世界に向って発進された。
つまり、大侵略行為である。

だが、世界に向けてだけではない。
西欧においても、深刻な派閥争い、異端審判、魔女狩り、火炙り、拷問、ホロコーストと狂気の沙汰になっているのである。

その影響は、現在の民族、宗教紛争にも連なっている。

西欧の歴史を見ると、それはそれは、戦争、紛争の多いことに気付く。

百年戦争、30年戦争、七年戦争、ばら戦争、ユグノー戦争、アイルランド紛争・・・

世界の大陸の中で、西欧ほど、戦争の坩堝になったところは、無い。
それは、すべて、ユダヤ・キリスト教に起因するのである。

15世紀以来、その狂気が世界を駆け巡る。
更に悪いのは、その侵略行為が、神の名による聖戦として、正当化されるのである。

アメリカのインディアン虐殺も、黒人奴隷も、すべて、神の定めた宿命して説明する暴力である。

ただ今は、キリスト教精神が、唯一の拠り所である。
それは、彼らの野蛮性を唯一、引き止められるために利用されているからである。

彼らの先祖、バイキングの性質に戻ることなく・・・
イエスの説いた、愛の教えを、他民族、自然に対しても、行って欲しいと願うのである。

ユダヤ・キリスト教は、神との契約というものを、重んじるようだが、対人間との契約は、全く守らないというのも、事実である。

契約不履行は当たり前なのである。

アメリカが先住民族インディアンと結んだ契約は、300以上もある。しかし、どれ一つも、彼らは、実行しなかった。
そればかりか、勝手に、契約をして、勝手に破るという、野蛮である。

契約、条約を結び、インディアンに弓矢を置かせて、契約を破り、インディアンを皆殺しにするという、繰り返しをして、西部全域を手に入れた。

これが、未だに、謝罪無く、裁かれていないのである。

昔、西部劇が流行したが・・・
それが、どれほど、野蛮なものかを知らぬ。
そして、バイキング精神を発揮して、侵略、略奪することを、自慢するという根性は、ただ事ではない。

ちなみに、彼らは、ポツダム宣言でも、約束を破っていた。
無条件降伏は、日本軍に対してである。
しかし、それを、日本国に入れ替えたのである。

日本軍が武装解除すると、即座に、日本国の無条件降伏に変更するという、手口である。

その後の、軍事占領は、国際法違反である。
更に、原爆投下も、日本の各都市への空爆も、国際法違反である。

一般市民を攻撃することは、禁止されている。
ところが、謝罪もなく、今も平然としていられる根性である。

ユダヤ・キリスト教には、世の始まりがある。
つまり、白人に世界を任せると、世の終わりが来るということになるのだ。



posted by 天山 at 01:46| 国を愛して何が悪い2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月03日

国を愛して何が悪い66

長期の十字軍遠征の暴挙があったにも関わらず、今度は、同じキリスト教同士の内乱が、18世紀まで、続いた。

西欧は、いつ果てるとも知らぬ、戦争、内乱の巷と化していた。
人々が、この戦乱に疲れ果てた頃に、戦争にも何かの決まり、秩序が必要であると、気付く時がくる。

国際法の、はしり、として、オランダのフーゴ・グロティウスの有名な、戦争と平和の法について、がある。
三十年戦争のさなかにあって、戦争の災禍から人類を救うために、国際法的ルールの設定を提唱したのである。

グロティウスの残した法的遺産は、その後、17世紀の半ば、イギリスの国際法学者、リチャード・ズーチの、諸国民間の法、に継承された。

続いて、18世紀末、ベンサムが、国際法、と名づけて現在に及んでいる。

だが、この国際法の適応範囲は、西欧のキリスト教国にのみ、限られている。

18世紀にアメリカの独立があり、その適応範囲が、欧米に拡大された。

それでも、白人キリスト教国家間の法という、基本的性質は変わらない。

19世紀になり、少しその性質が変わった。
1856年のパリ条約の際に、トルコの参加を認めたのである。

それに先立ち、1842年、中国が、南京条約を結び、また、日本が、1854年、日米和親条約をして、次々に、条約を結び、国際法の適応を受けることになった。

日本では、最初、万国公法として、知られた。

日本の坂本竜馬などは、それを持って、世界への道を考えたのである。
しかし、日本では、世界を律する、道義の道として高く意識されたが・・・

元々、それほどに、高次のものではないのである。

互いのエゴイズムを調節し合うという程度であった。

日本人は、万国公法を非常に高く評価していた。し過ぎでいたのである。

日本開国当初は、その万国公法では、一等国が、イギリス、フランス、オーストリア、プロシア、ロシアとされていた。
二等国として、スイス、デンマーク、オランダ、スペイン、ポルトガル、イタリアなどが、続く。
それ以外は、三等国扱いである。

アメリカは、新興国という扱いである。

さて、日本は、日清、日露戦争に勝利して、英米独仏と共に、五大一等国の地位を勝ち取った。
だが、その頃から、キリスト教国以外の、非白人国で、ただ一国、国際社会に参入したということで、西欧では、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世などにより、黄禍論、こうかろん、が叫ばれ、日本は、アングロサクソンの人々から、目を離せない、脅威の存在となっていた。

それは、多分に、差別である。

その証拠を、松原久子氏が書く。
開国したばかりの日本に西洋からやってきた人たちは、この国は二百年以上も戦争がなかったばかりではなく、社会が安寧を保ち、人々は太平の世を謳歌している豊かな国であることを見抜けるだけの態勢になっていなかった。西洋人にとって重要なことはただ一つ、日本はキリスト教ヨーロッパ文化圏の外にあるということだった。

彼女は、そこで、1876年に東京帝国大学医学部の教授として、来日した、ドイツの医師、エルヴィン・ベルツの書簡を上げる。

彼が家族に宛てた手紙の中に、
お前たちはだいたいこんな風に想像すればよいだろう。日本人はわずか十年前までは、我々の中世の騎士時代の文化状況、つまり教会、修道院、手工業者の同業組合といった封建制度の中で生きていた。それが今、我々のヨーロッパの文明がたっぷり五百年かけて成し遂げた発展過程を一足とびに跳び越えて、ヨーロッパがやっと19世紀になって勝ち取ったものを、一挙に横領しようとしているわけだ。
である。

この手紙の一部分は、当時に日本にやって来た、外国人が見て、感じたことを全て要約している。

更に、今日まで、日本について、聞いたり、見たりすることのほとんどに、浸透しているというから、驚く。

松原氏は、
開国した時の日本の文明は、西洋の五百年後ろを足を引きずり歩いていたという妄想は、数え切れないほどのバリエーションで繰り返し語られ、彩色されてきた。
と、書く。

西洋文明に一気に追いついた民族が世界に存在するという、興奮と、脅威である。

白人たちは、神経を苛立たせた。
神秘を感じつつも、危険を感じた。

その黄色人種は、異常な力を駆使でき、ヨーロッパ世界の脅威となる天才的な超人か、はたまた悪魔か・・・

このアンビヴァレントな想像は、ヨーロッパ人の心を深く惑わしている。好意的に考えるか、反感を持つかによって、日本は神秘と力に満ちた国になったり、暗黒の陰謀に満ちた帝国として描かれたりする。しかし魅惑も恐怖も、誤解に基づいたものなのである。
松原

この誤解が、今も続くのである。
人が理解出来るのは、その人の器による。
それを超えるものは、理解不能になる。
つまり、それ以外のことを考えられないのである。

西洋人は、それである。
考えられない、思考外の国、そして、日本人なのである。

本当は、彼らの救いが、日本にあることを知れば、幸いだが・・・
非寛容、排他的、更には、野蛮さ・・・

日本には、基本的に、そのような心情を持つ風土ではないということ。

欧米人ほど、日本を学ぶべきである。

ちなみに、現在は、西洋白人こそ、人類を破滅に導く恐ろしい存在であるという、白禍論、はっかろん、が語られるようになっている。


posted by 天山 at 00:01| 国を愛して何が悪い2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月04日

国を愛して何が悪い67

西欧の人たちの、日本に対する誤解は、実に多い。
それは、日本を知らない。その歴史を知らないということから、いえる。

例えば、何故、日本だけが、早いスピードで、西欧に追いついたのか・・・

それは、19世紀の日本の置かれた状況を見るべきである。
当時は、国際的な開発援助などはない。技術教育の助けも、財政援助も無い。学術、技術、文化の交流も無い。
工業先進国の費用で学ぶことが出来る、第三世界諸国からの、留学制度も無かった。
国際連盟も、国際連合も無い。世界銀行も無い。

あったものは、苛酷で、情け容赦の無い植民地主義である。
植民地妄想に取り憑かれた欧米列強にとり、自国の国境の向こう側は、搾取の対象だった。

日本のように、二百年以上の鎖国から出た国は、彼らには、特別のご馳走であった。

西洋人が「我々は日本人を援助した。我々の助けがなかったら、日本の近代化は決して成らなかった」と言うのをしばしば耳にする。
松原久子

冗談ではない。

日本政府は、自国の費用で、何百人という日本の学生をヨーロッパの工業国に留学させ、更に、日本政府は、自国の費用で、学者、技術者を日本に招聘したのである。
その数、およそ、500名である。

そして、彼らに対して、莫大な給料を支払った。

日本以外の、発展の遅れを引きずる国々は、その原因が、必ずしも、植民地主義の後遺症というだけではないのである。

というのは、日本には、工業化のための、前提条件が当時、すでに揃っていたのである。

19世紀半ばの日本は、貧富の差が極端ではなく、富が広く分配されていた。
また、手工業の訓練を受けて、学習意欲のある、更にその熱意のある若者が沢山存在していた。
更に、見事に運営された学校制度があった。
総人口の比率で比較すると、すべてのヨーロッパ諸国より、多くの人たちが、読み書きが出来た。

数世紀前から、国内市場が栄えて、見事に張り巡らされた交通網と、それに付随する道路、運河、船の航路という、産業基盤も完備していた。
資金は、贅沢を考える人たちではなく、投資事業に意欲を持つ人たちの懐にあった。

日本には、手工業から工業化された生産過程への切り替えを可能にする、教育、訓練を受けた人たちが存在していたのである。

そして、兎に角、日本人には、向学心があり、学習能力に優れていたのである。

自力で工業化を成功させるためには、資金が必要である。
それが、19世紀半ばの日本には、すでに十分に揃っていたのである。

つまり、江戸時代とは、そういう、日本の根を張る時代だったといえる。

近代化を妨げる恐らく最大の問題は、富の不平等な分配である。一握りの上層階級が土地の大部分を所有し、その土地から生み出される富の大部分を独占するかぎり、需要も偏ったものになる。経済活動の軌道は金持ちの要求する方向へ向けられる。
金持ちの贅沢な要求を満足させるために、繊細で素晴らしい芸術作品が生み出されることもしばしばある。そういった作品はヨーロッパの美術館に飾られ、人々を感動させている。しかしその芸術作品を創作した民族の大部分は貧困に喘いでいた。彼らはわずかな上層階級の人たちの豪華な生活のために死ぬほど酷使される運命にあった。
松原久子

この状態は、私が旅して見聞した、多くの貧しい国において、実感できるのである。
何故、日本だけが・・・

植民地支配が終わっても、半工業化で精一杯な国々・・・
何故か・・・

経済的な豊かさと購買力が、広く行き渡ることが、工業化の前提条件である。
日本には、それがあったのである。

その原因の最大なことは、貧富の差である。
貧富の差のために、広く全国民に、利益をもたらす工業化の芽が、摘み取られてしまうのである。

松原氏は、
数世代にわたって、貧富の差が拡大することを食い止める効果的なメカニズムが、経済の仕組みの中に組み込まれていなければ、その社会はあっという間に、破局へと雪崩れ込んでいくだろう。無産階級が破滅の淵へと追い込まれ、生き延びる望みを失った時、彼らは暴力へと手を伸ばす。貧困、嫉妬、そして社会の不正に対する怒りが、常に革命の最大の温床であった。
と、言う。

日本には、革命が無かった。
それは、貧富の差、上層と下層の差が極端ではなかった。
そして、そのことは、世界の何処の国、どこの民族にも無いことである。

中国の温首相は、不正蓄財が、1800億円である。
これでは、革命が起きても、おかしくない。

ここで、象徴的に、天皇が、時の為政者に対して、お言葉を述べられていたこと・・・
国民が宝である。

住民の間で、個々の集団の格差があまりにも、極端になると、その社会は、不安定になる。日本は古くから、その考え方を常識として、深く根を下ろしていた。

どうして、他の国々が、それに気付かないのか・・・
事は、簡単である。

上にいる者、つまり、権威者である。
多くの国には、権力者のみである。
だが、日本には、天皇という長い伝統の権威者が存在したことが、幸いしたのである。

非常に皮肉なのは、フランス革命である。
自由、平等、博愛・・・
何故、キリスト教の隣人愛は、十数世紀もの間、自由、平等、博愛を西欧の基本的思想に出来なかったのか・・・

それは、教会自体が、権力者だったからである。
ローマ法王も、権力者だったからである。

為政者も、精神的指導者も、共に、権力者であった。

日本民族の智恵としての、天皇の存在が、日本を奇跡の国に仕立て上げたのである。
最高の権威が、国民と共にあるという・・・
実に、素晴らしいことだった。


posted by 天山 at 05:35| 国を愛して何が悪い2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月05日

国を愛して何が悪い68

格差の問題は、欧米と、日本企業の給与体系にも見ることが出来る。

欧米の企業幹部の給与は、一般労働者、社員の給与の百倍、千倍ということが珍しくない。日本では、伝統的に、幹部の給与は、低いのである。

その額は、新入社員の初任給の十倍、あるいは、十五倍以上と言うことは無い。

欧米では、その格差により、激しい嫉妬が噴出する。日本では、そういうことは、無いのである。

もっと、突っ込んで、西洋社会を見ると、いつも隣国などとの戦争により、鬱屈した苛立ちを発散させ、植民地で、日ごろの鬱憤を晴らす。

しかし、日本人は、このいずれの可能性も無かった。

内部に溜まった、不満のガス抜きを取るものが無い以上、問題は、あくまでも、自己の中で完結させるという。

日本人は、見知らぬ人たちの群集の渦にあっても、いつでも目に見えない、自分の繭に引きこもることが出来る能力を身に付けた。
どんな雑踏の中でも、欧米人ほど苛立つことなく、いられるのは、歴史から得た智恵である。

欧米人は、その肩を他人に触られるだけで、激怒することがある。
私も、実際に体験した。

更に、日本語は、断定的な表現を避けて、暗示という綿のように柔らかい表現方法を発達させたのである。

刺激的な物言いが和らげられて、過敏な反応も回避することが出来たのである。

また、反対意見に対しても、当たり障り無く、言い方により、賛同さえすることもある。

それを、以前は、日本人の曖昧さは、世界の非常識と言われたが・・・智恵である。

日本では、欧米人から見れば、過剰と思えるほどに、礼儀作法が発達した。
松原氏は、
その作法は、要は、人間が空間的にお互いに離れることのできない社会において、相手と人為的な距離をつくるための手段なのである。
と、言う。

更に、続けて、
今日もなお日本では、譲歩したり、相手や場の雰囲気に合わせたりすることが、美徳として高く評価される。譲歩してはじめて何かが達成できる。先を譲ることによってはじめて、開いたドアを自分が通れる。自分の意見を相手の意見とあわせることができて、自分の意見に耳を傾けさせ、自分の意見を通すことができる。
と、言うのである。

もし、同じことをドイツで試しても、大方失敗に終わるらしい。
松原氏は、ドイツに長く住み、ドイツ語で、これを書くほどの人である。そこから見た、ドイツ人は、
節くれ立った樫となってどんな厳しい攻撃にも抗しなければならない。常に自分にこう言い聞かせていなければならない。「私は屈服しない。私は説き伏せられない。私は翻弄されない」と。

そうなると、争いになるしかなくなるのである。

ヨーロッパ人は、いつも社会の中で、自己を拡げる十分な空間を持っており、握りこぶしで机を叩いて自己主張をすることに慣れていて、自制よりも言葉による衝突、闘争で決着させる方が、お好みだというのである。

さて、松原氏が、英国紳士はいかにして生まれたかという、チャールス・ピートリー卿の考察した一文を載せている。

「自制心は英国紳士の特徴だとよくいわれる。確かに英国人の自制心に対する愛着を国際社会で比較してみれば、その評価は正しいといえよう。しかしイギリス人のこの性向も、その歴史をたどれば決して古いものではない。1300年から1750年までの英国の歴史は、残忍な内乱の連続であった。征服された敵を、残酷を極めて虐待し迫害するのが伝統であった。英国の刑法はヨーロッパの中でずば抜けて情け容赦のないものだったし、また実際その通りに執行された。自制、それは18世紀から19世紀にかけて英国の生活様式の中に取り入れられたものだが、それは決して英国人の国民性が善に目覚めたことによるのではなかった。あくまで国民経済の利益のためだったのである。人口が増え、人々が裕福になると、物事は極端に走るのは得策ではないという認識が定着し、次第に自制、抑制といった伝統が育成されるようになった。つまり、自分自身と、文明の発展と、そして獲得した富を保守するために自制の精神が生まれたのである」

英国人が、紳士に目覚めた頃は、植民地を占有していた時期である。
更に、植民地は、本国で規則に従おうとせず、紳士として振舞おうとしない人たちに、広い活動領域を提供していたのである。

バンキングの子孫たちが、紳士になるのは、並大抵のことではない。
野蛮極まりない人たちが、それなりに、富、利益ということを、考えて、自制を身に付けていったというのである。

日本人とは、全く別物である。

植民地の無かった日本は、自己昇華をしたのである。

であるから、万国公法というものは、ヨーロッパ人たちが、長い悪行を続けてきて、やむなく作った、戦いのルールだったのだ。

それを日本人は、最初から、善であると、誤解していたのである。

実際は、西欧中心の、そして西欧人の自己の戦争を優位かつ合理的に展開するための、ルールとして作られた、国際法である。

その底には、差別全開がある。
非キリスト教徒、非白人への蔑視と、コントロール術が内包されていた。

幕末の志士たちは、万国公法を学ぶことが、文明開化であり、新しい時代への参入と考えて、これを迎えたのである。

ところが、悪魔というものは、善の顔して、華やかである。
賑やかな、西洋文明礼賛・・・

その文明の裏など、気付かずに、いたのである。それは、日本人が、性善説だからである。
更に、話し合えば解るという、甘さ。誠意を持って当たれば、通じるという、日本の伝統的美徳の精神に満たされていたからである。
哀れと言えば、哀れである。

今こそ、白人主義の野蛮と、傲慢に気付き、今度は早めに手を打つことである。

ちなみに、世界的な歓楽街では、イギリス人が最も、評判が悪い。
行儀が悪いのである。
紳士面をしていても、矢張り、血は隠せない。
酒を飲むと、その本性が出るのである。


posted by 天山 at 05:34| 国を愛して何が悪い2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月06日

天皇陛下について151

三代将軍家光の乳母、春日局が、無位無官の身で、天皇に拝謁という事件で、天皇は、ご譲位される。

幕府に対する、抗議をお示しになられたのである。

興子内親王、七歳。
第百九代明正天皇である。

天皇は34歳の年である。
その御製、
葦原や しげらばしげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず

思ふこと なきだに背く 世の中に あはれ捨てても をしからぬ身を

天皇は、院にあって、政を見られた。

その院政は、明正、後光明、後西、霊元天皇と、四代に渡る。

それだけに、天皇とは、いかにあるべきかという訓戒書もある。

その中から、
天子の位にあるという心があると、知らず知らずのうちに驕る心が出来、人の言を用いられぬようになる。これをよく考えよ。昔こそ、天子の詔勅といえば、背けぬもの、とされていた。しかし今は違う。将軍がほしいままにふるまい、勅命といっても従わぬ。また公家たちも軽んずる風潮がある。末世、まことに浅ましいが、これもいたし方ない。

気短であってはならない。また、怒りの心が深いとなにごともでも破れる。怒ったあとで後悔しないものはないのだ。

柔和であることが大切。余り慈悲深いと下が恐れなくなるから放埓になる、というものもある。が、もっともではある。しかし何事も、過ぎたるは及ばざるが如しの道理、しかし、怒りは過ぎ易い、また慈悲は過ぎるほどには行いがたい。その辺の分け方が大切。延喜の昔、醍醐天皇は、いつも、にこにこされていた。それは、人が何かを言いやすいようにとの、ご配慮だったという。

宮中のこと、まず敬神が第一。ゆるがせになさらぬように。朝晩のご拝に怠りがないように。仏法もまた捨ておかれがたいもの。すべてがそうだが、上を敬い、下を憐れむ者に、必ず神仏を信じない者はない。また信心するものは心がねじくれていない。

芸能のこと。これはまず、和歌を第一にご稽古されるがよい。

天地人の関係。これは、天地には私がない。が、人には私がある。政道が正しくないとその影響が天にも及ぶ。天変地異は人の私心よりおこるから、慎むこと。

天皇は、「当時年中行事」の著作がある。
後光明天皇に贈られたものだ。
だが、清書本が焼けて、草案のみが残った。

後、第百十二代霊元天皇に贈られた。
その序文である。

応仁の乱このかた、宮中は日々零落し、保元建武の昔の面影がない。信長が天下を手中に収めてから、ようやく禁裏の経営をはじめ、家康が四海を平らげて絶えたるをつぎ、すたれたものを興した。そのため、再び光が甦った。ついで秀忠、家光に至り、古き軒端を改め、玉を磨いた孝は他日に倍している。
しかし、万事はなお寛正のころ、「乱世、後花園天皇時代」にも及ばず、御禊、ダイジョウエその他の諸行事も次第に絶え、今は跡もないような有様となり、再興するあてもない。何事も、みるみるうちに変わってゆく末の世であるから、せめて、衰退の世のたたずまいだけでも、失わないで欲しいと思う。しかし、それも覚束ない。嘆かわしい次第である。そこで、思い出すままに、ここに書き付けておく・・・

後水尾天皇、延宝八年、1680年、崩御される。

家康の孫に当たる、家光が政治を始めてから、20年目の寛永20年、1643年、後光明天皇が第百十代の御位に就かれた。1643年から1654年。

御年、11歳である。

後水尾天皇の第四皇子である。
ご在位は、12年間。

この天皇が、書写されたものの中に、家伝軍書序、というものがある。
内容は、文事ある者は、かならず武備あり、である。

であるから、天皇は、剣術の稽古をされた。
時に、幕府から見張り役として来ていた、所司代の板倉重宗である。
天皇は、第一に学問をなさいませ、と公家法度にあります。武芸をお修めなど、江戸に聞えましたら大変です。お上がおやめくださらなければ、重宗は、切腹いたさねばなれません。
と、言う。

勿論、直接言うことは、出来ないので、伝奏役を通してである。
天皇は、黙っていた。
しかし、再三言われる。

そこで、天皇は、
朕はまだ武士の切腹を見たことがない。丁度良い、南殿の庭に席を設けるので、やってみよ。親しく、見物してつかわす・・・

これには、重宗も二の句が告げない。

更に、御父君の後水尾上皇が、ご病気になられた。
ただちに、上皇の御所を訪ねようとした。
またしても、重宗が、
御所内とは申せ、天皇が御座所からお出ましになられるのは、朝廷の大事にござる。されば、まず関東に問い合わせてからにしてくださるように・・・

何から、何まで、監視である。

天皇は、
しからばそのことは、止めにしょう。ついては、この御所の辰巳の隅の築地より、院御所の戌亥の隅まで梯子をもって、高廊下を急ぎ造れ。禁裏のうちを行くのは常のこと。廊より、廊を移るのである。これを行幸と申す者はあるまい。早々に造れ・・・
とのお言葉である。

その時、19歳であられる。

この天皇から、本の序文が始まったといわれる。
つまり、庶民の著書に、御製の序である。

儒者、藤原惺窩の惺窩文集を上梓された折、勅序を賜ったのである。
一千言に近い。
文は高尚で、専門家の儒者にも遠く及ばないと言われる。

けだし聞く、文は道を貫く器なり・・・
と、始まる。


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2013年05月07日

天皇陛下について152

明暦3年、1657年、江戸で振袖火事というものがあった。
徳川幕府の江戸城も、この時、天守閣が焼け落ちた。

翌年、万治元年、また、江戸大火である。
そして、凶作。

更に、万治三年、江戸大火である。
そして、大阪城の火薬庫が爆発。

その翌年の、寛文元年、皇居炎上。
江戸も大火。

翌二年、畿内、東海、東山、北陸、西海諸国大地震。
被害は、京都が最も激しい。

これが、後光明天皇の、後を受けた、第百十一代後西天皇、1654年から1663年の、せいであると言うのである。

当時、徳川幕府、将軍家綱は、天皇の失徳といい、御譲位を迫ったというから、呆れる。
自らの、政治能力の無さを、天皇に負わせるという愚である。

しかし、天皇は、大変に聡明であり、父帝、後水尾天皇、兄帝によく似ているためと、これを忌み、言い立てて、御位を去らせたいのである。
と、見抜く。

ご即位の時、18歳。
その頃の、書が問題である。
要するに、文字が醜いのである。

臣下が、諌める言葉を、お聞き入れされた天皇は、その後、二三年で、見事な書を書くのである。

そして、二、三年後、天皇の書が見事なものに。
諌めた者が、はらはらと涙を流し言う。
よくわれがらごとき微賎なものの諌めを捨てられず、ご修行あそばされた・・・

ご在位、八年。
後を継がれたのが、第百十二代の霊元天皇、1663年より、1687年。
その父は、後水尾天皇。後光明天皇のご養子である。

ご即位の時、10歳。
ご英邁の質をお持ちだった。
冬は、火鉢に寄らず、夏は扇も使わない。克己心が非常に強かったのである。

そして、二余年、廃絶していた、立太子式を幕府にはかり、復興された。
その時、御年、30歳である。

それから、四年後、東山天皇即位。1687年より、1709年。
御年、13歳。
その冬、先帝霊元天皇のご悲願である、ダイジョウエ、おおにあえまつり、を挙行された。

伊勢の神宮に勅使を立てて、大典復興を告げる。
悠記、主基の二殿を設け、近江、丹波から嘉穀を進めしめられている。

その時の将軍は、犬公方で有名な、綱吉である。

やがて、第百十四代中御門天皇。1709年より、1735年。
第百十五代桜町天皇、1735年より、1747年。

この時代は、江戸元禄である。
水戸光圀らの労苦により、少しずつ芽が吹き出した。
国学者、賀茂真淵も登場する。

そして、第百十六代桃園天皇、1747年より、1762年。
御年、7歳。
将軍は、吉宗の後の、家重である。

時代は、いつも激動である。
日本も、長い徳川幕府の時代から、抜け出ようとしていた。

明治天皇から、三代前の天皇は、第百十九代光格天皇である。1779年より、1817年。

御製がある。
はへばたて たてばあゆめと いそぐなり わがみにつもる おいをわすれて

這えば立て、立てば、歩めの親心、である。

天皇は、世間に通じていた。
17歳の時、諸国に飢饉あり、米の相場が上がり、京都でも餓死者が出た。

そして、老若男女数百人が、御所の周りをぐるぐると廻るのである。
今で言えば、デモである。

御製
みのかひは なにいのるべき 朝な夕な 民やすかれと おもふばかりを

私が神々に祈るのは、自分のことではない。多くの庶民が、少しでも幸せになるようにである。

たみ草に 露のなさけを かけよかし 世をもまもりの 国のつかさは

国を治めるものは、人々に、露のような情けでもかけてくれ。

幕府の時代である。
天皇は、民を救えない。

ぐるぐる廻る「お千度廻り」という静かなデモ。
御所周辺は、幕府が手を出せない場所である。
だが、これにより、京都への支援米が早まったのである。

つまり、民は、皇室、朝廷が軽んじられているという意志を示したのである。

天皇が世間に通じていたのは、その母君が、町家の娘であった。庶民の血を引いていたことが上げられる。

お人柄は、剛直でもあり、体躯は二メートル近くあったという天皇である。
後水尾天皇と並び、江戸時代きっての、傑出した天皇といわれる。


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2013年05月08日

天皇陛下について153

江戸時代、最後の天皇として名高いのは、孝明天皇である。
弘化三年、1846年、16歳でセンソされて以来、慶応二年12月25日、崩御される。

21年のご在位である。

この後、慶応四年、明治と改元される。
明治維新である。

日本が近代国家となる、その激動期を生きた天皇陛下である。
センソされて、七年目の嘉永六年、6月3日、ペリーが軍艦四隻を率いて、浦賀に来航した。

アメリカの目的は、通商条約を結ぶこと。
それは、遠洋漁業、当時は、捕鯨の中継基地、大陸に市場を開拓するためである。

日本は、基本的に、幕府の法である、鎖国体制であるから、申し出を断る。

その時に、ペリーが持参し、当時の幕閣に宛てた書面である。

ぜひとも、通商をというわけでもない。嫌なら、砲弾をお見舞いして、お前たちが、天の理に背いている罪をただしてやる。だからお前たちも、日本の国法にそって、防戦をしなさい。だが、必ずわれわれが勝ちます。その際、もし和平ということが欲しいなら、降伏しなさい。そして、今回われわれが、プレゼントしておいた白旗を立ててやってくること。

これが、当時のキリスト教と白人の感覚である。

温和な老中、阿部正弘も、さずかに書面を叩きつけたという。
そして、詠んだ歌。
まことなき 夷の舟を 浦安の はやき沖手に 打ちかへさなむ

まことのない、邪悪な彼らを、沖へ追い払いたい・・・

だが、日本には、そんな力はない。
このときの、孝明天皇の改元の詔に、
洋夷出没、辺海やすからず、いまだにやまず、つまびらかにおもう。咎を徴するは予一人に在り・・・

その罪は、私一人にあると、仰せられたのである。

そして、安政五年、天皇は、伊勢神宮に勅使を遣わした。親筆の宣命、せんみょう、を付して、これを奏せしめられた。

嘉永以来外国人が来航する。なかでもアメリカはその首魁ともいうべく、表面は我が国に和親を請うようだが、実は併呑の心を蔵している。キリスト教の伝染も恐るべきものがある。が拒めば干戈に訴えると威嚇するので国家危急の時にのぞんでいる。

その御製である。

この春は 花鶯も 捨てにけり わがなすことは 国民のこと

様々に 泣きみ笑ひみ 語りあふも 国を思ひつ 民を思ふため

矛とりて 守れ宮人 九重の 御階の桜 風そよぐなり

天皇の御妹、和宮さまは、十四代将軍家茂のところへ、降嫁されるに先立ち、

惜しまじな 君と民との ためならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも
と、お歌になる。

天皇は、アメリカの心を見抜いていた。
それは、大東亜戦争にも、現れている。

日本を占領する。
当時の、欧米人は、白人主義の最盛期である。

孝明天皇には、祖考光格天皇の皇運挽回の御志をば、最も痛切に会得、最も熱心に紹述あらせられた。しかしてその御一身を以って、国難に処せんとする御覚悟、御決心に至りては、あたかも亀山天皇が、元寇の危機に際し、身を以って国難に代らんと遊ばされたると、その揆を一にした。この御誠意が、天人に貫徹して、遂に維新中興の祥運を導き来つた・・・
蘇峰徳富猪一郎 近世日本国民史

明治維新の舞台は、京都だった。
すべて、京都から発している。

徳川幕府が、朝廷に奉仕したところをもっても、孝明天皇は、その一代において、幕府に対した、恩恵は、甚だしいものがある。

そして、明治、大正、昭和と続く。
その帝・・・

民主主義という思想を超えて、すでに、日本の天皇は、国民主体であらせられたということ、明々白日である。

どのような、権力者、為政者であれ、天皇御自身は、いつも、国民が主であり、その祈りは、国民に向けられていたことである。

世界に類のない、君主である、天皇という存在を有する国、日本は、いつも天皇の存在によって、未来が拓かれるのである。

つまり、天皇の、大御心、おほみこころ、による、お言葉で、国民は、天皇を崇敬するのである。

日本民族の智恵として、存在し続けている天皇・・・

昭和天皇も、敗戦後、これは、私の一人の咎である、との御心だった。

このような存在が、国に在るという、日本の幸運は、どこの国にも有り得ないのである。

神武天皇建国から、今年は、2673年である。
この歴史は、揺るがない。
歴史が揺るがないということは、国が揺らがない。

その時、その時の、為政者が誰であろうが、天皇が天皇である限り、日本は続くのである。
そして、為政者が、天皇の御心に添うことで、国を治めることが、出来れば、日本は幸運である。

天皇の安泰を願うことは、日本の安泰を願うことであり、国民の安泰を願うことであることは、明白である。
何となれば、天皇は、国体なのである。

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2013年05月09日

天皇陛下について154

明治維新なくして、今日の日本は無いと、いえる。
それにより、日本は、アジアで初めて近代独立国家となったのである。

日本以外では、タイを除いて、すべてが列強の植民地、半植民地になった。

更に、先の大戦により、敗戦を経験したが、アジアの奇跡といわれるほどの、先進国に回復した。

それは、一世紀も早く、国民に近代文明が行き渡っていたからである。

その明治維新は、天皇の存在あってのものである。

江戸時代も、天下の祭り主は、天皇であり、二義の政務執行は、幕府に御委任されていた。しかし、徳川家は、行政を独裁するという事態である。

そこで、気付き始めた、多くの浪士たちにより、幕末の混乱が起こる。
だが、そこで天皇の存在が輝いたのである。

京都の朝廷から・・・
帝のお言葉により・・・

独裁専決の徳川幕府は、自ら滅びる道を開いたのである。
地方分権的な全国諸藩が、誰の意見を聞くのか・・・
それは、朝廷であるしかない。

今までは、各藩には発言権は無かった。
そこで、各藩は、身分の壁を取り払い、この国難に必要な人材を登用したのである。

勿論、多くの脱藩者もいた。

今までは、無関心だった天下に対する思いを、惜しみなく発揮する時が来たのだ。

皇室からも、幕府に対して、しばしばご沙汰があった。
その多くの資料を通じて、一貫していることは、諸侯、諸藩と相協議して、公儀を統合して当たれとの原則である。

大事は、独断すべからず、との皇室の伝統が連綿として生き続けていたのである。

これで、天下は、万機公論に決するべし、との維新の思想が明確になったのである。

古来から、天皇は、独裁ではない。
専制独裁者としての、天皇の姿は、どこにも無いのである。

大化の改新の詔、みことのり、にも、
朝廷では箱をおいて民の国政に対する直言をもとめ、なお投書で徹底しない時には、備え付けの鐘をならせ・・・
と、ある。

天皇が、投書で、民の労役の義務を軽くされた例が示されている。

民の希望、民の苦しみを知り尽くして、精神の統合を図ることが、祭り主としての、統治者の御任務であること、天皇自らが、示されている。

歴代天皇を眺めてきたが・・・
その多くの天皇は、民が第一である。

どんな権力者、為政者に対しても、天皇は、民の側からの、ご進言をされている。

民の安らかなれ、国の安らかなれ・・・
その一事のために、天皇は、第一義とされる。

明治の初めての、憲法には、
大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す
と、ある。

多くの学者は、それを立憲君主制と呼んだ。
しかし、西欧中世の専制的覇権者としての王が、議会との間に苦しい戦いを続けて、妥協して出来た、立憲君主制とは、その由来するところの、歴史的伝統が全く違うのである。

天皇には、専制独裁者としての、歴史が無いのである。

天皇は、最初から民主である。
だからこそ、祭主であられるのだ。

ご自分は、その統合としての、祭主としての、存在意義を深く深く、身に沁みてご存知である。

であるから、その頃の、天皇の宣命、お言葉の前には、
明神 御大八洲天皇
あきつみかみと おほやしましろしめす すめらみこと
との、署名である。

西欧の王とは、全く違う存在なのである。

明治維新は、天皇によって、成ったのではない。
だが、天皇なくして、成り立たなかったのである。

それを、精神的伝統という。
日本には、それがあったから、維新が成せたのである。

避け難い党派の別、利害の対決の壁を超えて、国民の精神を高い一点で統合される存在が、天皇である。

君主であり、主席であり、形の上から言えば、自由な国の立憲君主といえる。

更に、大統領とも、全く違う。
国民の半数の投票を持って、大統領に就任する。
反対する者が負けて、彼らが、野党として、大統領の政策を指摘するような存在でもない。

一派のイデオロギーを徹底させるという、存在でもない。

対立する国民の間にあっても、その存在が揺るがないという存在。
存在することを持っての、存在感なのである。

西欧の立憲君主とは、天皇の統合者としての力は、比較にならないのである。

民安かれ、国安かれ・・・
それに反対し、敵対する者がいるだろうか。
これが、悠久として、天皇が培ってきた、伝統であり、そこには、至公無私の高貴な御風格をもたれるのである。

国民は、天皇に政治、行政をお願いするのではない。
更に、多くの知識、教養を求めるものでもない。

日本が国の品位を高めるための、第一義を身をもって成してくださること。
つまり、祈りである。

授けることをのみ成して、求めることを欲しない、品格をもたれる存在なのである。

王者の風格を欲する、由緒ある文明を誇る国では、世襲の王子を、国の力で高貴な品格の王に教育しようと、務めるのである。

その点に掛けては、日本は、世界唯一の国柄である。

皇祖皇宗、つまり、国の御親に続く血統を有し、国民の祖先の象徴としての、祖霊に対し奉り、祈りを捧げる、祭り主なのである。

昔の日本人は、それをもって、日本を神国と呼んだのである。

神とは、皇祖皇宗であり、祖霊であるからだ。

であるから、創作の神観念とは、また違うのである。

日本人の祖霊である。
それを神と呼ぶ。
だから、神の国なのである。

そこに、様々な宗教が存在してもいい。
また、様々なイデオロギーが存在してもいい。

国民のすべてを、包括、包容して成り立つ、皇室の粋である。

一つだけ例を上げる。
タイ国王は、おおよそ250年の歴史を有する。
タイ国民は、国王に対して、特別な感情を持つ。
思想信条の自由があっても、国王は、別物なのである。

国王を持って、タイ国という、国民意識を培うために、子供の頃からの教育がなされる。
それで、タイ王国は、一つに、まとまるのである。

そのタイ国王が、最も敬愛するのが、日本の天皇である。

posted by 天山 at 00:28| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月10日

神仏は妄想である。414

観念というものは、その人の性格構造に基づいている時のみ強力なのである。いかなる観念もその感情母胎より強くはない。そこで、宗教に関する精神分析的操作は、思想体系の背後にある人間の現実を理解することを目ざすのである。それは、一つの思想体系が、それの描く感情の表出であるのか、または反対の態度を隠す合理化であるのかを究明する。さらにそれは、その思想体系が強固な感情母胎から成長したものであるのか、または空虚な意見なのか、をただすのである。
ライヒ

反対の態度を隠す合理化・・・
多くの宗教の、教学、教義に関しては、合理化を目指している。
そのようにして、教化するのである。

もし一部が全体の関係から孤立してしまっているならば、どんな勝手な誤った解釈でも可能になってしまう。

多くの新興宗教が、そのようである。

どのようにでも、誤魔化すことが出来るのである。

耳障りの良い言葉の数々を上げていれば、信者や会員は、満足するし、また、その言葉に酔うのである。

勿論、それらは、妄想の産物である。

新興宗教も、100年ほどを経ると、次第に衰退する運命にある。
それは、時代、時代性、時代精神から、離れるからである。

勿論、ライヒは、そのようなことを言うのではない。
一つの体系を全体として吟味して行く過程においては、その体系のもつ不条理、あるいは矛盾を注意することは重要である。
これらの不条理や矛盾は通常、意識的に主張されている意見と、その底にある感情との相違を示すものなのである。
たとえば、人が救われるか、あるいは永遠の滅びに定められるかということは、その人が生まれる前に、そしてその人が自己の運命を変える力をもたないうちに決定されているのだ、というカルビンの予定説は、神の愛についての観念とはめちゃくちゃに矛盾する。
ライヒ 改行は、私。

実は、この予定説は、多くの宗教に見られる。
キリスト教のみか、仏教の宗派・・・

人類の何十万人が救われる・・・
などと言う、馬鹿な集団もある。

更に、前世により、決定されている・・・

精神分析家は、ある思想体系を告白する個人や集団の、人格構成や性格構成を究明しなければならない。かれは表明される意見と性格構成との一致をただし、また、あらわれる行動の綿密な規定から結論される、無意識の要因という言葉で思想体系を説明するであろう。
ライヒ

要するに、理屈である。
だが、ライヒは、理屈ではなく、その本人の行動が問題だという。

つまり、イエスの言葉に集約される。
その果実によって、かれらを知るべし・・・

長々と、ライヒという、精神分析家は語るが、最も端的に言えば、イエスのその言葉に、集約されることを言うのである。

思想体系云々ではない。

もし精神分析家が宗教の諸教理の背後にある人間の現実と、また同一の宗教の底にある対立的な人間の態度とを見出すであろう。
ライヒ

その背後にある、人間の現実・・・

宗教の肯定は、ライヒの中では、
その信者たちの成長と力と自由と幸福とに貢献するならば、われわれはそこに愛の果実を知ることができる。もしそれが人間の可能性の萎縮とか不孝とか生産力の減退とかを招来するならば、教義が何を伝えようとしても、それらは愛から生まれ出たものではない。
と、言う。

こうして、精神分析家であり、思想家である、ライヒの限界がある。

ライヒの愛とは・・・
仏陀、イザヤ、キリスト、ソクラテス、スピノザの教説の底ある人間の現実は、本質的に同一のものである。
ライヒ

キリスト教の概念である、愛、という言葉を持って、対処するのである。

愛という言葉の、妄想性を知らないようである。

勿論、充分に説得力のある、宗教体験のある種の型の分析をしている。

人道主義的宗教の勧めであるが・・・
宗教は、権威主義的なのである。

そして、権威の無い宗教というものは、存在しない。

信じ込ませるという行為は、権威以外の何物でもない。

ただし、そこに置いて、成長と力と自由と幸福に貢献するならば・・・
幻想でも、妄想でも、信じてよいのである。

夢を見ながら、成長し、力を得て、自由を得て、幸福になるならば・・・

言葉というものの、神経症的分析を求める。

すでに、人間は、言葉を使用するという、神経症を病んでいるのである。
そんな中で、精神分析による、宗教の云々と、語り続けても、権威主義的な人には、充分に理解し、そして、理解したことを誇れるが・・・
その程度のことである。

ここで言う、思想体系とは、宗教の思想体系のことであろうか・・・
そうだろう。
しかし、宗教の思想体系などというものは、思想体系などに値しないのである。

戯言である。
語れる程度の神、仏ならば、信じる必要があるのか・・・

更に思想体系を創り上げる程度の、教理、教義ならば、せん無いことである。
何せ、人間の頭が、捏ね繰り回したものである。

posted by 天山 at 00:16| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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