2013年04月25日

もののあわれについて612

源氏物語に登場する女性の性格として、拒絶の強さをあげる必要があろう。言い寄る男に対して、浮気っぽくなびくような女性は原則としてひとりもいない。その身分や事情にもよるが、ためらい、はぢらい、或るときはそっけなく、概してひどく強情なのは、巫女的性格によると言っていいだろう。この拒絶が物語の大切な劇的要素になるわけで、光源氏の恋心はそのため一層切実さを帯び、同時に、この場で女のいのちのかなしさがあふれ出てくる。「恋ひ」が本来の「魂乞ひ」となり、「うた」となるのはこのときである。
亀井勝一郎

この、うた、歌の道に、源氏物語があるとは、本居宣長である。

そして、宣長が言う、
やすらかに見るべき所を、さまざまに義理をつけて、むつかしく事々しく註せる故に、さとりなき人はげにもと思ふけれど、返てそれはおろかなる註也。
と。

義理とは、儒教で言うところの、理屈である。
哲学と訳す場合もある。

わざわざ、難しく解釈する必要はない。
やすらかに、見るのである。
つまり、近代的解釈によって、こじらせて見るのである。

その必要は無い。

しかし源氏物語には、「もののあはれ」だけで尽くせない複雑な要素がある。伝統の色好みと、宣長のきらった仏教信仰との、微妙にからみあってゆくそこに生じた「たゆたひ」であ。仏教信仰なくしてはあらわれえなかったもので、宣長もその点は一応みとめている。
亀井

物語に、浄土思想が、ふんだん使われている。
そして、この世を厭うという感覚である。

登場人物の中に、その心境を思う者は多い。
しかし、紫式部は、それを心に傾けて書いたのではない。

いと心憂く・・・
何度も、使われる表現であるが・・・

源氏と藤壺の歌のやり取り
源氏
見てもまた 逢ふ夜まれなる 夢のうちに やがてまぎるる わが身ともがな

藤壺
世がたりに 人や伝へん たぐひなく うき身をさめぬ 夢になしても

藤壺は、拒絶しつつ、動揺する。
二人は、取り返しのつかない、運命に陥る。

罪業感を持った、戦慄である。

藤壺の懐妊と、出産・・・
しかし、源氏は、若紫をも、慕い続けるという・・・

それは二重の罪だ。紫式部はここで「美しさ」などに陶酔しているのではない。生の戦慄を描いたのである。色好みにまつわる矛盾のかぎりと、一の極限状況へ自分自身を追い詰めていったのである。
亀井

そういう形で、式部は、同時代の女の、嘆きを代弁したともいえる。

小説とは、道徳の書でもなければ、思想信条を説くものでもない。
虚構のお話である。
読者は、何にせよ、面白いから読む。
そこで、読者が、道徳に目覚めようが、人倫の道に目覚めようが、作者には、関わりが無い。

単に、それぞれの解釈の在り様である。
だから、解説などというものは、一切必要ない。
物語は、物語で、決着する。

世界初の小説は、作者の、物思いを描き出しているのである。

だから、実は、本居宣長も、亀井勝一郎も、何のことはないと言えば、言える。
それぞれの、解釈である。

宣長は、もののあはれを否定するはずの仏教が、逆にもののあはれを知らせる場合の多いことを語る。
だが、罪については、触れていない。

何故か・・・
仏教の説く、罪とは、何かである。

それは、仏を知らぬという罪である。
更に、仏の法を知らぬということである。
そういう人間が罪ある人間なのである。

宗教は、依然として、人間を罪に定める運命を持つ。
実に、白々しい。

だが、当時は、その仏教思想、浄土思想が、華やかなりし頃である。
この、華やかというのも、実に、おかしなものであるが。
流行だったのである。

更に、人間として、罪を重ねて、罪の意識を深めるという、自虐である。
呆れる。

物語は、そんなことを、描いたのではない。

宣長は、もののあはれ、に拘り、亀井は、たゆたひ、に拘る。

入信と悟りを思いつめながら、いよいよそれと矛盾して、戦慄の上に「たゆたふ心」のつらさを表現するのが物語りではないか。矛盾の自覚とその苦悩を背負うということではないか。
亀井

それを徹底したのが源氏物語であり、全編をつらぬくこれは「私」の内的主題だ。
亀井

内的主題である。

前世からの約束のように避け難い女の悲劇、「宿世」の嘆きを歌いたかったのだと彼女ならば言うだろう。
亀井

これには、同感する。
歌いたかったのである。

だから、物語は、歌の道を目指しているのである。
物語の中に、散りばめられている、歌の数々を見れば、それは、一目瞭然である。





posted by 天山 at 05:43| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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