2013年04月24日

もののあわれについて611

小説には、着想がある。
そして、作家の情緒と力量である。

源氏物語は、世界初の散文小説である。
だが、当時、小説の書き方などはない。

それでも、紫式部の創作欲は旺盛であり、それでは、着想があったのかといわれれば、あったのである。

当時の、歌詠みも同じく、本歌をして、歌詠みをするという形がある。

それでは、紫式部は、どこから、その着想を得たのか。
実は、それは、当然そのように書くという、見本があったのである。

重要なことは、古い物語の成立する際の、伝統である。

光源氏の、着想には、伊勢物語の、在原業平が存在したのである。
伝統であるというのは、貴種流離譚である。

つまり、身分の高い者が、流浪するという悲劇である。

であるから、その着想は、独創的であってはならないのだ。
それが、書き物、創作の伝統だからだ。

平城帝の皇孫として、臣籍に下った、業平が、色好みの極限に生きるという・・・
高貴な女性を犯して、東下りをするという。

光源氏もまた、桐壺帝の子として、臣籍に下った。
色好みの極限に生きるのである。

須磨明石に下り、流譚の生活を送る。

貴種流離譚の型を骨格とするのである。

紫式部にとってまず重要なことは、犯してはならぬものを犯したときの罪と苦悩と、それにも拘らず迷う快楽の魅力を創造することであった。
亀井勝一郎

そのために主人公の実生活をすべて抹殺して、「十代の青春」の色好みの狂気に限定し、そこから出発した。
亀井

ということだ。

要するに、作者が、苦悩を託すために必要な、極限状態を虚構したのである。

光源氏五十年の運命はここで決するのである。
亀井

つまり、色好みに掛けて、紫式部は、自らの、苦悩を具現化させたかったのである。

母を知らぬ源氏が、父桐壺帝に入内した、若い義母、藤壺との密通である。更に、懐妊してしまうという・・・

古代からタブーとされていた、近親相姦である。

紫式部は光源氏の青春にまず「罪の烙印」を押した。同時に藤壺に、女であるゆえの十字架を背負わせたようなものだ。それは永久に消えない烙印であり、女にとっては死んでもなお亡霊となってあらわれざるをえないような受難であり、そして双方がなければ源氏物語は成立しないのである。
亀井

この、光源氏は、物語の中で、女を求める時に、障害のある女を求めている。それが、大きければ、大きいほど、情熱を燃やすのである。

単なる、色好みの物語ではないのである。
更に、この文体は、敬語に貫かれられている。

大和言葉による、流れと響きに、色好みと、その底流に流れる、あはれ、という情緒を描くのである。

紫式部は「罪の烙印」を押しながら、同時に「罪の美しさ」のために絶妙の筆をふるった。
亀井

これが、彼女の才能であると、言う。

更には、本居宣長が言うように、物語と共に、歌の道を描くのである。

それもまた、彼女の才能である。

当時は、物語は、女子供のものであり、漢字かな混じりの文は、男の読むものではなかったのが、物語は評判を呼び、様々な階級の男の世界にも、広がったという。
だが、まさに当時は、仏教、儒教の受容期であり、その評価は、いかばかりだったのか。

現代でも、単なる、淫乱の物語だという人がいるほどであるから、当時は、もっと、強い批判があったことも、想像できる。

後の天皇の中でも、この物語が生まれてから、朝廷、貴族の生活に乱れが生じたという御方もいる。

一歩、踏み誤ると、そのような極悪な物語として、受け取られるはずである。

本居宣長の言葉を紹介すると、
物語は、儒仏などのしたたかなる道のように、迷いを離れて悟りに入るべき法にもあらず。また国をも言えをも身をも治むべき教えにもあらず。ただ世の中の物語なる故に、さる筋の善悪の論はしばらくおきて、さしもかかわらず、ただもののあはれを知れるかたのよきを、取り立ててよしとはしたるなり。
である。

ただ、もののあはれ、を知る術を知る上で、よしとする、と言うのである。

仏教、儒教のような、物言いは、全く無い。
ただ、世の中、つまり、人間の生きるということを、もののあはれ、と捉えているのみで、いいのであると、言う。

更に、私は言う。
物語は、面白いから読む。

物語の蛍の巻きで、源氏に物語について、語らせている。
そこで、源氏が玉葛に、女の物語好きをからかうのである。

架空の物語に、欺かれて、喜んだり、悲しんだりする、女というもの、と。

紫式部自体が、突き放して、物語を見ている。
それなのに、書き続けるという、執念である。

小説家は、嘘つきである。
虚構を書いて、人を欺く。
しかし、それで、救われる人たちもいる。
また、深く考える人たちもいる。

ここからは、文学というものについての、話になる。
私は、素人なので、そんな話はしない。

面白くない、物語、小説は、読むに値しない、と、それでいい。

例え、誰に読まれずとも、その作者は、充分にそれで、満たされているはずだ。
死ぬまでの、暇を潰すのに、最適であるから。




posted by 天山 at 05:24| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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