2013年04月20日

霊学105

心霊主義はキリスト教の伝統を東洋の光に照らして改革したものであるが、その二つの霊的共作者、すなわちカトリック教会とインド・オカルティズムはただちにこれを否認した。
カステラン

司教座聖堂参事会員のリベは、悪魔による模倣とははっきり区別された神の神秘の中で、
これらの現象は、たとえ彼らが紹介している最も奇跡的な現象であっても、疑いの余地のないものと思われる。これらを否定する人は、ただ自分が恐れている結論を免れようとして否定しているにすぎない。
これらを認めるふりをして、いずれも詐欺によるのだということは、否定するのと変わらない。無意識的な筋肉の収縮で説明しようとする理論は、不完全かつ、根拠のない馬鹿げた理論であり、経験に反している。
手との接触による純粋に物理的な運動なら、生命流体の流出を原因とすることもできようが、人間からのいかなる影響によっても起こりえないような運動、人間の能力を超えた知的現象は、右のような解釈では説明がつかず、不可視の動因の存在を必要とするのである。この不可視の動因とは悪霊以外ではありえない。

結論的に、心霊主義が、悪魔による介入であるとの明確な判定である。

だが・・・
心霊であるから、それを悪魔からのものと判定したとしても、それも心霊である。

つまり、悪魔の存在を認めているのである。

つまり、心霊主義の積み重ねてきたことは、存在するということである。
悪魔の介入にせよ、である。

心霊現象の多くが、詐欺によるものでも、それ以外の、少数だが、現象として詐欺に当たらないもの・・・それを、悪魔の所業として、厳しく糾弾するのである。

ここに、教会の権威主義がある。

だが、教会の中にも、それに対しての、批判が起こる。
1899年、ロッカ司祭は、心霊主義会議で心霊主義・キリスト教的信仰を肯定するために演説をした。

それは、
テーブルを通じていったい誰が答えることができるのか。その自体は生命も知性もないテーブル自身ではありえない。死者の魂か。だが選ばれた魂はわれわれの下劣な好奇心を満足させるために、わざわざ至福の状態を離れはしないだろう。
悪魔の爪にしっかり捕まえられている呪われた魂は、なおさらやってくることはできない。煉獄の魂も駄目だ。彼らはいずれにせよ神の意志でわれわれから引き離され、われわれとしては彼らのために神の寛容を祈るしかない。それでは? そこで残るのは、悪魔自身、および人間の軽信と軽率を手玉に取る悪霊の軍団である。彼らは信じやすい人間を堕罪に引き込むために、高尚な調子の交信を寄せることまでするのだ。
ケベックの大司教はラテン語でこう結んでいる。
悪魔と戯れる者は、イエス・キリストにおいて楽しむことは許されまい。

だから、勿論、心霊主義の書籍は、公開で焼却されたのである。

心霊主義のオリエンタリズムはヴェーダという遺産に由来する、きわめて漠然としたインド的素材に着想を得ている。
カステラン

そして、この遺産は、極端に魔術的な性格を持っていたが、仏教に直面して、新たな哲学的再生を果たした。

だが、これとは、逆に仏教は、その理論性、教義を誇りにしていたにも関わらず、明らかに、ヒンドゥー的な実践や図像や思考を背負ってきたのである。

仏教とバラモン教という、互いに排除しあう異質な二つのシステムを一緒くたにして、インドの叡智について語ることは、理論的には馬鹿げているが、民衆が何世紀にもわたり、実践するうちに、仏教は、擦り切れて、実際に存在するのは、インド特有の宗教的風土である、無数のセクトになったのである。

われわれは心霊主義を、この宗教的風土の最も豊かな流れ、シャカ・ムニの抽象的教えと一環して生命を保っている魔術との総和、すなわちタントラ仏教とくらべることができよう。タントラ仏教という媒介により、われわれはインド・オカルティズムの最も完成された形態に到達することができるのである。
カステラン

タントラ仏教、密教などについては、別エッセイ、神仏は妄想である、で、論じているので、省略する。

カトリック教会にとっては、心霊主義は、悪魔の所業であり、タントラの伝統からは、それは、一つの誤りである。
カステランは、一連の誤りであり、部分的には、神智学によって修正された一連の誤りなのだ、ということになる。

タントラ派では、神智学の修正も誤りなのである。

神智学によると、宇宙的実体は攪拌され、原初の同一の質料から、次第に重くなる様々な種を作ってゆく。
そして、上位の界から降りてきた人間の魂は、様々な質料の界を通過し、それぞれの外被に覆われ、最後には地上の物質に覆われる。

タントラ派は、神智学の、モナド、つまり五つの外被に包まれた「アートマン」と呼ばれるものは、神性の反映、創造者としての様相が質料内部に顕現したもの、意志の花火にすぎない。
それは、無関心、盲目であり、力動的性質を持った至高の力の単なる乗り物にすぎない。
そして、進化と退化の波を、自分とは独立した法則に従って、浮沈子のように浮き沈みするのである。
それは、意識を持たない。

ここに至ると、屁理屈のお話になってしまう。

もう少し説明するが・・・
その後で、神智学としての、シュタイナーの思想と哲学を俯瞰する。

見たものは、何か。
感じたものは、何か。

そして、それは、様々に解釈される。
更に、それを言葉の世界で探ると、限界がくる。
その、限界を超えるために、行、というものがある。

だが、心霊主義には、行は無い。
ただ、霊との対話からえる知識を元にして、物事を考え、判定する。
実に、恐ろしいことである。

だが、行をすることが、正しいとは、言わない。




posted by 天山 at 05:41| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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