2013年04月15日

神仏は妄想である。413

礼拝をすることはマゾヒズム的であり、また自己破壊的である。一は謙遜でありながら、他は自己凌辱である。
ライヒ

初期の宗教が、人道的であるが、結果として、宗教は、権威主義的に陥ってゆく。
どんなに崇高な、理想を語っても、結果は、権威主義的になるのである。

プロテスタント・・・
カトリックの権威的儀式、更に、司祭職等々の、権威から離れて、一人一人が、神へ向うなどと理想を語ったが、結局は、集団になり、そこで指導者が現れ、更に牧師に代表される、組織を作ると、それは、もう立派な権威主義的宗教になる。

そうすると、上記のライヒの言葉に、象徴される、信仰に陥る。
更に恐ろしいのは、それに気付かないということである。

それでは、日本仏教を見る。
彼らも、最初は、人道的だった。
しかし、今は、その見る影も無い。

空海、最澄は、最初から、権威主義的である。
しかし、鎌倉仏教は、違う。
だが、今、それらの宗派も、権威主義的宗教に成り果てた。

そんな中で、深い信仰を持つというのは、単なる、洗脳であり、僧たちは、世俗にまみれているが、説教の上では、聖人面をしている。

自分もよく解らない、教義を、まことしやかに、語るという・・・

その、読経には、何の意味も無く、更に、その内容にも、意味は無い。
その、変節は、仏陀滅後から起こっていた。

イスラムなどは、類を見ない、権威主義的宗教と化した。
というより、最初から、そのようだった。

その権威が、宗派によって、ぶつかるがゆえに、宗派の争いが絶えない。

ここで、宗教の功罪を挙げたいが・・・
先を進む。

神学的思考のもう一つの誤謬は、この依存に関する誤謬に密接に関係している。すなわちそれは、人間が自分を超えた何ものかと関係を結ぼうとする、消し去り難い切望をもっていることが明白である限り、人間を超えた外的な力または存在があるはずだ、という推論である。
ライヒ

推論である・・・
推論なのである。

だれかを愛したいというわれわれの強烈な欲求が、決して互いに愛し合っている人がいることを証明しないのと同じである。それが証明するのは結局、そのような欲求があり、またおそらくそのような能力がある、ということだけである。
ライヒ

このライヒの、宗教に対する、精神分析は、一つの意義ある試みである。
そして、まさに、理性による、宗教に対する理解を促すのである。

確かに、精神分析家の中には、いかなる思想体系に対しても懐疑的となり、その思想自体の論理的な準拠体制の範囲でそれを考察せずに、それらすべてを、様々の衝動、欲望の理屈づけに過ぎないと解釈する者も多い。

更に、宗教的、哲学的陳述に対して懐疑的であり、それらを、真面目に取り上げるべきではないという、強迫的思考だと、考える者もいる。
だが、それは、精神分析の立場からも、誤謬であると、ライヒは言う。

批判的分析を遂行するためには、理性を道具として、その合理化の機制を暴いてきたのである。

精神分析は人間の思考過程の性質の曖昧さを証明した。
ライヒ

そして、
実のところ、合理化の力であること虚構の理性は、もっとも不分明な人間現象の一つである。もしそれをよく知っていないと、人間の合理化の努力は、明らかに妄想状態と同じに見える。
妄想症の人はきわめて知的でありうるのであり、妄想状態になっている孤立した一部分を除けば、その生活のあらゆる場面に、きわめてよく理性を利用する。
と、言う。

それには、多くの説明が必要であろう・・・
が、一々、取り上げている暇がない。

一つだけ言えば、共産主義者と話し合うと、共産主義者は、理性と一致して、矛盾しないのだということを証明する機能しか、持たないのである。
つまり、その閉鎖性の思想体系に留まるのであり、話し合いは、進まない。

それは、宗教にも、大いにいえることである。

その教義の、理性と矛盾しない証明をする機能により、閉鎖的になる。
一人勝手の、亡者である。

あるいは、知的ではない人は、単なる人間関係の、緩く甘い関係で、攻めてくるのみ。
それを、布教と言ったり、折伏すると言ったりする。

全く、無根拠のものを、人に勧めるという行為は、詐欺行為であるが・・・
詐欺性を感じないのである。

無いものを、有るものの如く説明して、詐欺が成り立つ。

神仏も、そのようである。
信じる人に、妄想であると、言い聞かせても、せん無いことである。
騙されている人は、その騙しに気付くまで、待つしかない。

そして、死ぬまで、騙され続けるということは、見ての通りである。

ライヒの、精神分析と宗教に、私が余計な説明をつけて、書いている。
何故なら、精神分析に関して、知識の無い人がいるからである。

そして、これも、ライヒに対する批判である。
評価でもある。

まもなく、ライヒを終わる。
もう少し、見ることにする。



posted by 天山 at 00:21| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。