2013年04月10日

神仏は妄想である。408

楽園を、すなわち自然との和合を失ったので、人間は永遠のさすらい人になってしまった。人間はいっそうの前進を強いられているし、また、無限の努力をもって、その知識の空白をいろいろの解答で充たしながら、未知のものを理解して行くように強いられている。人間は自分自身に対して、自己自身とその存在の意味とを解明しなければならない。人間はこの内面的な破れを克服するためにかりたてられ、そして自己を自然から、仲間から、また自分自身から隔てている呪詛を消散させうるような「絶対者」や、他のなんらかの調和を熱望して苦悩するのである。
ライヒ

と、言いたいことは、この「絶対者」である。

一つの目的、一つの理念、あるいは神、というような、人間を超えた力への献身は、全生活過程の完成を求める、このような欲求の一つの表現なのである。
ライヒ

つまり、人間は、超越的存在を求める存在であると、言う。

それが、
宗教的欲求、すなわち構えの体制と献身の対象とを求める欲求を持たない人はいない。
ライヒ

勿論、その間に、色々と、くどくど言葉を重ねているが・・・

人間の基本的欲求には、そのような、神、あるいは、構えと、献身の対象が存在するということだ。

問題は、宗教か無宗教かではなく、どのような種類の宗教かということ、すなわち、それが人間の発展を、いわば人間特有の能力の展開を、促進させるものであるかまたはそれらを閉息させるものであるか、ということにあるのである。
ライヒ

これには、依存はない。
その通り。
人間には、簡単に言うと、拝む対象が必要なのである。

それが、宗教でも、思想でも、何でもかんでも・・・

鰯の頭も信心から・・・
あながち、間違いではない。

それが、人間の本性か・・・

構えの体制と献身の対象とを求める欲求が、人間存在の諸条件に由来するという考えは、歴史上あまねく宗教が存する、という事実によって充分実証されると思われる。
ライヒ

それも、その通りだが・・・
古代の宗教といえるものが、現在のような妄想、幻想の宗教の形だったのか・・・

宗教という言葉のなかった、古代である。
それをも、すべて宗教行為、あるいは、信仰と、言えるのか・・・
言ってもいいが、それが妄想、幻想の産物ではなかったとも、言えるのである。

この宗教という言葉も、西欧のキリスト教から、出た言葉であり、それは、キリスト教が最高の宗教であり、他のものは、いずれキリスト教に向かって行くとの、勘違いの宗教観念であった。

ただし、フロイトが、神経症と宗教との関連を、人類の集合的小児神経症と解釈したのは、面白い。

そして、ライヒも、
われわれは神経症を個人的な宗教形態であると解釈することができる。
と、言う。

更に、
神経症とは公に認められた宗教様式と抵触する、原始的宗教形態への退行であるということができるのである。
とも、言う。

面白い例を上げている。
北米インデアンはキリスト教に改宗させられたが、キリスト教以前の、古い宗教は決して、根絶されていない。キリスト教は、古い宗教の上にかぶせられためっきであるという。

現代文化の中での一神教的宗教や、またさまざまの無神論的不可知論的哲学とかいったものは、インデアンの宗教よりもいろいろの点でもっと「原始的」であり、まったくの偶像崇拝であり、そしてはるかに一神教の本質的な教説とは矛盾するような、さまざまの宗教に上にかぶせられた薄いメッキなのである。
ライヒ

その偶像崇拝の対象は、権力や、成功や市場の権威などである。
成功哲学なるものも、その一つである。

現代人をひと皮はがせば、われわれはそこに、個人化された原始的宗教形態のいくつかを発見する。
その大部分は神経症と呼ばれるものであるが、しかし同時にそれらを、それぞれの宗教的名称で呼んでもさしつかえないのである。
ライヒ

このことについては、私も同じ意見である。
深い信仰というものは、多分に神経症の状態と同じである。

ちなみに、それを取り上げてみると、その神経症は、不安増大神経症となる。

更には、自虐神経症、強迫神経症となる。

罪悪感神経症もある。

そして、宗教は、その神経症のどれか一つを、徹底して、攻撃することにより、信者を獲得するのである。

しかし、それが、相当数の人々に共有される、つまり、集団化すると、ある程度の安定感を得るのである。
それが、宗教団体の姿である。

更に、
一つの集団の共有となれば、ある種の快感を与える。
ライヒ

一つの主義は、たとえどんな不合理なものでも、ひとたび社会的な力を獲得すれば、何百万という人々は、自分がのけものにされ孤立していると感じたくないので、それを信じ込むようになるであろう。
ライヒ

中国共産党にように・・・




posted by 天山 at 00:02| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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