2013年04月09日

神仏は妄想である。407

神仏は妄想である、と言うとき、それを扱う集団を宗教と呼ぶ。
つまり、神仏は、宗教とイコールになり、そうすると、宗教は妄想であると、言い換えてもいいのである。

個人的な信仰、信仰心というものに関して、否定するものではないが・・・

ライヒは、その宗教というものの、定義についても、心理学的に言う。
宗教という言葉を聞くとわれわれは、神および超自然力を中心とする一つの組織を連想する。いいかえれば、すべての他の宗教を諒解、評価する際に、われわれは一神教をその準拠体制と考えようとするのである。したがって、仏教とか道教とか儒教とかいうような神をもたない宗教は、はたして固有の意味で宗教と呼ばれうるかどうかが疑問となる。
しかし、現代の権威主義のような、いささかも宗教と呼ばれていない世俗的な組織すら、心理学的にいえば充分宗教と名づけうるものなのである。
ライヒ

わたしがここでいう宗教とは、およそ、一つの集団に共有されそして各個人に構えの体制と献身の対象とを与える思考と行動との組織一切を意味していることを、最初にことわっておきたいと思う。
ライヒ

つまり、主義、イデオロギーに関しても、各個人に構えの体制と献身の対象を与える思考と行動・・・なのである。

共産主義、赤軍派、日教組・・・
色々ある。

その恐ろしい事実は、ライヒの、人間における自由、という書籍で語られる。

自覚や理性や想像というものは、動物的生存を特徴づけている「調和」を瓦解させてしまった。それらの出現は人間を変則となし、造化のいたずらとなしてしまった。
ライヒ

造化のいたずら・・・
これが、問題である。

人間も、動物であるが・・・
動物ではなくなったのである。
つまり、動物のように、本能に生きられなくなった。
そして、あらん限りの妄想を抱いて、生きるようになったのである。

あるいは、幻想である。

その人間の創りだしたモノ・・・
すべては、妄想であり、幻想である。

これで、話は終わり。

ところが、人間は、身体のある限り、生き続ける。生きなければならぬ。
その、生きる、拠り所として、妄想や、幻想を信じ込む。あるいは、のめり込む。そして、われを忘れる。

実際、神仏によって、救われるのではない。
自己が自己暗示によって、救われていると、するのである。

何かに依らずに生きることは、至難の業である。

であるから、国民国家というものも、幻想を創り上げる。
それが、成功すれば、国家は、成り立つ。

国家という、共同幻想によって、かろうじて、保たれる国家意識。

だが、国民が、共同幻想を持たない場合は、国家として成り立たないのである。

国家のみならず、我という意識も、である。

私は、その妄想、幻想を否定はしない。
ただ、批判するのである。
そして、批判は、芸術行為である。

批判は、芸術行為によって、許される。

哲学の弁証法というものも、芸術として成り立つから、哲学としての、意義がある。

学問の極まるところは、宗教と科学と、芸術である。
と、飛躍してみる。

この三つが、調和した時に、人間は、少しの救いを観るはずである。

人間の栄光であるはずの理性は、またかれの呪詛でもある。理性は始終人間を強いて、解決不可能の二分性を解決しようとする課題に向かわせる。
人間存在はこの点において、他のあらゆる生物とは異なるのである。人間の存在は、絶え間ない、避け難い、不均衝の状態である。
人間の生活は、その種族の生活様式をただ繰り返すことによって「過ごされて行く」ものではない。
人間は自分で生きなければならないのである。
人間は退屈し、不満を覚え、楽園を追われたと感ずることのできる、唯一の動物である。
人間とは、自分にとって自分自身の存在が、自分で解かねばならぬ問題であり、またその問題から逃れることのできない、唯一の動物である。
人間は、自然との調和を保っている人間以前の状態に帰ることはできない。
人間は、自分が自然の主となり、また自分自身の主となるまで、理性を発展させて行かねばならない。
ライヒ 改行は、私。

最後の言葉は、矢張り、ユダヤ、キリスト教に大きく影響されている。
自然の主となるとは、おこがましい。

自分自身の主になるべきではあるが・・・

楽園を追われた者という意識を持つ、唯一の動物・・・
つまり、楽園とは、自然であり、自然の中から逃れた者である。
追われたのではない。

人間が、一体、どこの楽園から、追われたというのか・・・

勿論、本能から開放されて、造化になった人間は、自ら、楽園を捨てたのである。
それが、理性である。

へんてこなものを、持った訳である。

言葉を捏ね繰り回すという、欧米の思想家は、見事に、妄想、幻想全開である。
しかし、それが、面白い。
実に、面白いのである。

理性と、知性をギリギリまで使い切るという姿勢は、上等である。




posted by 天山 at 00:28| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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