2013年04月01日

天皇陛下について147

称光天皇の後に即位されたのが、第百二代後花園天皇である。
1428年から1464年。

ご時世は、足利義教、義勝、義政の将軍時代である。

その間の寛正年間に、疫病が流行り、飢饉が襲う。
だが、将軍義政は、何処吹く風である。

宴遊に耽り、土木工事を起こし、その費用は庶民から徴収する。

天皇が、御製詩を下されて、戒められた。
残民争いて採る首陽の蕨
ところどころいおりを閉じ
竹扉をとざす
詩興の吟はたけなわなり
春二月、満城の紅緑誰がために肥えたる

詩歌の興もうかばない、悲歌は巷に満ちている。
京中の死者、八万余人である。
満都の花は先匂う。
だが、それを誰が見るというのか。

痛烈な天皇の批判に対して、さすがの義政も、一時ではあるが、態度を改めた。

そのご在位の御製歌は、二千首を超える。

くもらじな 天つ日嗣の いやつぎに 守りきにける 神の御国は

よろづ民 憂へなかれと 朝ごとに 祈る心を 神やうくらむ

すましえぬ 我がみなかみを 恥づるぞよ 濁るうき世の 人の心を

春宮、後の後土御門天皇に贈らせ給へる御文、というものがある。

ご進退などは、いかにも静かに重くあることが大切
宮のお声は、どうもきふきふ「汲々」と聞える。のどかに、柔らかにいわれたようがよい
幼きときは別として、今はご成人である。どうか御身を謹まれ、世のあざけりを受けぬようにたしなまれることが大切です
学問が大切。これあるゆえに、ご自身の過ちも改められる。他人のよしあしを正すことも出来ます
近頃、小鳥など集めてお楽しみのようだが、これもまたいけない。そんな無用なことに心を移していると、肝腎な時に、上滑りしてしまうもの
このようなことを、くだくだというと、さだめて心外な、と思われようが、私が申さなければ、誰がいってくれようか
仏籍、漢籍にも、親の命には背かぬが孝行という。どうか以上のことを、ないがしろにしないように

和歌一首
あはれしれ 今はよはひも 老の鶴の 雲井にたえず 子をおもふ声

天皇譲位の時、46歳。
第百三代後土御門天皇即位。1464年から1500年。

それから、二年半後、応仁の乱が起こる。

天皇が、28歳の時である。
一月十八日、畠山義就、同政長を破る。天皇・上皇室町第に幸し給う
大日本史

ここで、武人の擁するところとなり、以降、諸大礼、四方拝以下の年中行事などは、一つとして、挙げ給うことなく、朝廷の威厳は、地に落ちる。

応仁の乱後は、世の中が、乱れに乱れた。
下克上である。

守護代大名が、その家来の守護代に、守護代は、またその家来に、滅ぼされるという。

守護大名の家来から、戦国大名になった者は、越後の上杉、尾張の織田、越前の朝倉、安芸の毛利など。

守護大名がそのまま、戦国大名になった者は、薩摩の島津、駿河の今川、甲斐の武田など。
浪人から名高いのは、相模の北条、美濃の、斉藤道三など。

関白一条兼良以下、公爵百官は、諸国に逃れた。

天皇は、上皇と共に、室町泉殿の一室に、十数の朝臣と幽居に近い暮らしをされる。

だが、九年後の文明8年、ここも兵火に襲われ、朝廷の記録、書籍から、日用品にいたるまで、灰になったのである。

この時、義政の小川第に行幸され、翌日、北小路第に、お移りになられた。

朝臣は、剣を腰につけ、その中を、神器が、裸同然で担われていった。

あるとき、両軍の兵が行宮の傍で戦い、流れ矢が、玉座まで飛び込む。
将軍の義尚が、
こちらには、玉座がおわす
と、たまりかね、飛び出して、大声で言うほどである。

戦火収まり、文明11年、1479年。
土御門内裏にお戻りになられた。
行宮を転々とすること、13年である。

流転の最中、文明七年に、四方拝の儀式を行われている。
翌年、そして十年、十二年に至り、土御門内裏で、四方拝が行われた。

中世から近世まで、朝儀は厳粛に行われてきた。
それが、朝廷の権威を高めたのである。

天皇は、朝儀の再興に情熱を燃やす。

まつりごと その古に のこりなく たちこそかへれ 百敷の中

神代より いまに絶えせず 伝えおく 三種のたから 守らざらめや

明応9年、1500年、土御門天皇崩御。


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2013年04月02日

天皇陛下について148

第百四代後柏原天皇センソ。1500年から1526年。

当時は、戦国時代の闇の時代である。

先代、後土御門天皇の、ご努力により、朝儀の復興は成ったが、即位の大典には、五百石ほどの費用が必要だった。
だが、調達できない。

管領の細川政元は、
即位の儀式など一文の得もない。強力な力の無い者は、帝王でもないでもない
と、言う。

公武の諸氏が、それに同意したといから、呆れるばかりである。

即位の大典は、センソ後、22年目に行われた。

天皇が朝儀の復興に努められたからである。

また、天皇は、瘡病が流行し、人々が苦しむのを御覧になり、自ら、般若心経を書写して、延暦寺、仁和寺に納められた。

ご在位26年、崩御される。
第百五代後奈良天皇センソ。1526年から1557年。
御年、31歳。

それから、十年後に即位の大典を執り行われた。
皇室の衰退は、甚だしいものだった。

その極みに達し、日々の食事すら欠乏するのである。
皇室が衰退したのは、歴史的にこの時である。

御所の屋根は、破れ傾き、修理が出来ない。
お庭も、原野同然。
紫宸殿の前庭には、庶民が、よしず張りの茶屋を開いたというから、驚く。

御所の廊下も、子供たちの遊び場になっていた。

ところが、天皇は、それに対して、ビクともしない。
毅然とされて、その尊厳さは、これまでにないものと、言われた。

天文8年、1539年である。
諸国に洪水と凶作の被害が出る。
翌年は、飢饉である。
疫病も流行り、病死者無数。

時に天皇は、般若心経を書写して、悪疫の終息を祈られる。
その御自らの、心経は、諸国の一宮に奉納された。
各地、25ヶ所に及んだという。

天下大疫病、万人多く死亡せり。われ、民の父母として徳覆うあたわず、わが心いたむ。ひそかに「般若心経」一巻を金字にうつし、僧正をしてこれを供養させた。ねがわくば疾病の妙薬になってほしい。

奈良朝に、聖武天皇の例がある。
しかし、皇室の経済力には、雲泥の差である。
最悪、最低の時代にもかかわらず、天皇のご実践がある。

天文9年は、織田信長の父、信秀が、三河の安祥城を陥落させた頃である。
5月には、武田信玄の父、信虎が、信濃の佐久郡を攻略していた。

この信虎が信玄に追われて、今川義元に頼るのは、この翌年のことである。

その四年後、天皇は、ご即位後20年を経ても、だいじょうえ、つまり、おおにあえ祭りという、即位された天皇が、天照御大神の、御子となる、重大な儀式である、を執り行えない。

伊勢の大神宮に対し奉りて、
このことは、あえて怠るのではございません。国力が衰微しているため、出来ないでいるのです。
未だ願いを満たしておりません理由は、公道が行われず、賢聖有徳の人物がなく、下克上の心盛んで、暴悪の族が横行しているためでございます。
守護の武士、みだりに自己の欲心を満足させ、諸社の神事も衰え、諸王諸臣も衰微、絶対の皇位さえ危ういという状況、もはやこれは、神々の御加護なくば、長き皇統の将来も心配です。いそぎ威力を下さり、上下和し、庶民も安全で、豊かに、また宝ソ長久を祈願いたします。

天皇は、35歳の享録3年、神祇というお題で、
いそのかみ ふるき茅萱の 宮柱 たてかふる世に 逢はざらめやも
と、お詠みである。

20年に一度の、伊勢のご遷宮も途絶えていた。

ご在位32年、1557年、天皇は、62歳で崩御あそばす。

第百六代正親町天皇、おうぎまち天皇、1557年から1586年。
御年、41歳である。

ご即位の礼は、三年後の永禄三年正月。
皇室は、貧しい。
大礼の費用は、毛利元就、隆元の父子の献納による。

元就は、そのため、陸奥守、隆元は、大膳太夫に任じられ、桐菊の紋を賜る。

その永禄三年、五月、あの有名な桶狭間の奇襲がある。
駿河の今川義元を斃した一戦である。
織田信長、27歳の時。

やがて、信長は、三河の松平元康、後の徳川家康と結び、尾張一国を支配、更に、美濃の斉藤を滅ぼし、岐阜に移る。

信長が、尾張、美濃などの皇室ご料地回復の命を受けたのは、この年である。

これは、信長の皇室を敬意する忠誠心にもよるが、皇室が、新しく興った武士階級との関係を深め、皇室の権威を回復されようとした第一歩でもある。

信長の父、信秀は、後奈良天皇の天文12年、1543年、京都御所修理のために、銅銭千貫文を献上している。
天皇は、喜び、世間の人々を驚嘆させたのである。

戦国時代、これだけ多額を献じた豪族は、信秀以外に、なかったのである。

織田家は、元、斎部氏である。
越前織田剣神社の神官の出である。

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2013年04月03日

天皇陛下について149

永禄11年、1568年、信長が、京都に入った。
大乱に継ぐ大乱の京都である。
市民は、信長の軍に脅えた。

しかし、軍規は厳正で、問題がない。
それにより、京都、畿内に平和が訪れた。

信長は、第十五代将軍足利義昭を、取るに足らぬ人物と見ていたが、流浪中の義昭を奉じて、入京したのである。
そして、義昭に色々と釘を差していた。
その与えた、五箇条の書に、
天下を平穏にすること。また禁中「朝廷」の儀、常々ご油断のないように
と、皇室を大切にせよと、注意している。

更に、五年後、義昭に、諫言十七を突きつけて、特にこの中でも、
入京当初から、朝廷のことは、疎かにせぬことと、申しておいたはずだ。それにも関わらず、忘れ怠っているとは、何事か
と、いうものがある。

中世の戦記物語には、
朝廷をないがしろにするものは、必ず神仏冥々の加護が尽きる、とある。

信長の、朝廷への忠義で第一なのは、敬神と朝儀再興である。

当時、伊勢の大神宮では、戦国の乱の余波を受け、20年に一度の、遷宮が廃絶状態になっていた。

永禄6年、1563年、慶光院清順の勧進による献金で、豊受大神宮の式年遷宮が130年振りに復興したが、皇大神宮、内宮の方は、そこに至っていないのである。

天正10年正月、神宮の神官たちが、信長に遷宮執行について、ご努力をと申し入れた。
信長は、即座に、快諾した。

使者に予算を尋ねる。
まず千貫もあればと、思います。足りない分は募金で・・・
すると、信長は、
一昨年、石清水八幡宮の造営を行った。初め、三百貫であったが、実際は、千貫以上もかかった。それを思うと、大神宮の造営が、千貫で足りるはずがない。百姓町人に負担をかけるのは、よくない。まず、三千貫の予算とし、不足分は、要しただけ追加すればよい。
との、答えである。

翌日、森蘭丸を岐阜城に派遣し、
土蔵に一万六千貫ほどあるはず。大神宮の正遷宮の費用じゃ。要求に従い、その中から、惜しみなく渡せと、信忠に伝えよ、である。

だが、その年、六月、信長は、本能寺の変にて、自害する。

その意志は、豊臣秀吉によって、継がれた。

天正13年、1585年、10月13日をもって、皇大神宮、同じく15日、豊受大神宮、外宮の式年遷宮が執り行われた。

皇大神宮は、132年、豊受大神宮は、22年の遷宮だった。
これが、第41回目である。
以後明治二年まで、20年ごとに、遷宮が行われた。

今年、平成25年は、遷宮の年である。

信長の再興貢献は、それ以外に、宮中への献金、献品、朝儀の再興、皇室御料地、公家領の回復、内裏の修理、皇室経済の安定についての、配慮など、これまでの武将にはないものだった。

これにより、朝廷も、窮乏状態を脱する。
そして、役割の上でも、変化がある。

その一つは、朝廷が信長の武力を支えたことである。
信長は、石山本願寺に手を焼いていた。それを、朝廷のお力を借りて、和議を結んだことである。

天皇の勅使が効いた。
一度、二度と、勅使が派遣され、二度目は、天皇のお手紙である。
これには、違反出来ない。

信長の、尊王・勤王が、正親町天皇を動かしたのである。

新しい公武合体の姿がある。
南北朝、室町時代にはない、潮流が流れ始めた。

だが、時代は、まだ安定していない。

天正10年、信長没後は、秀吉による、山崎の弔い合戦、翌年の賤嶽合戦、12年の小牧長久手の戦い・・・信長の天下統一計画を進める。

13年、四国の長宗我部氏を討ち、根来寺を焼き払う。
七百年の間、凶暴をたくましくした僧兵にも、最後の留めを刺した。

そして、同年七月、関白にのぼり、14年には、太政大臣に任ぜられた。
朝廷からは、豊臣の姓まで賜る。

その年、12月、正親町天皇は、第百七代後陽成天皇、ごようぜい天皇に御譲位され、上皇となる。

天皇の歴史を俯瞰していると、多くの天皇は、国民のために、祈り続けられている。
権力者たちは、国民のことに関心がない。
ただ、自分の領土と権力の維持を目指す。

どんな状況にあっても、変わらずに、国民のために、祈られる天皇、皇室の姿がある。

その姿勢を見抜いていたのは、民である。
皇室が経済上の困窮みに達しても、宮中の儀式が廃止されても・・・
天子さま、皇室は、国民の慕う的だった。

国民の敬愛の的。
現在も変わらず、天皇、皇室は、敬愛の的である。
そして、そうしてこそ、日本という国がある。
天皇の存在なくして、日本という国は、有り得ないのである。

それも、これも、国民の智恵による選択だったということである。
天皇を擁する国として、建国から2700年の伝統を有する、世界唯一の国、日本である。

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2013年04月04日

天皇陛下について150

神武天皇より百余代の孫、と署名された天皇である。
第百七代後陽成天皇である。1586年から1611年。

秀吉の天下統一から、徳川家康の継承期である。

秀吉の皇室崇敬のもと、安定した時期のご在位である。
更に、この天皇の文化史上の業績も大きい。
勅命によって、刊行された印刷物が数多く、日本の印刷史上でも、特記せらるべき天皇である。

ご即位後の、二年目、天正16年、秀吉が京都に新築していた、聚楽第が完成した。
天皇にご臨席、臨幸という、を求めた。

その日、4月14日、秀吉は、早朝に参内し、天皇のご機嫌を伺い、左右両大臣をはじめ、織田信雄、徳川家康、前田利家以下、文武の百官を率いて、行幸のお供をした。

御所から聚楽第まで、15町、1,5キロ。
先駆は、すでに聚楽第に到着しているが、最後尾は、まだ御所の門を出なかったという。

更に、内大臣織田信雄、大納言家康以下、29名の諸大名をして、誓紙を奉らせている。

皇室の御料所地子以下、ならびに公家問跡衆処々知行など、もし無道の族これあるにおいては、おのおのとして、かたく意見をくわえ、当分の儀は申すにおよばず、子々孫々、異議なきのよう、申しおくべきこと

諸大名に、尊王を誓わせたのである。

天皇のご滞在は、三日から、五日となった。

天皇と秀吉の和歌のやり取りがある。
秀吉
時を得し 玉の光の あらわれて みゆきぞけふの もろ人の袖

天皇
玉をなほ みがくにつけて 世にひろく あふぐ光を うつすことのは

正親町上皇も
うづもれし 道もただしき 折にあひて 玉の光の 世にくもりなき

玉の光は、君臣の道が正しいことである。

さて、秀吉の朝鮮出兵である。
天皇にも、大明国を平げた上で、天皇の行幸を求めた。
天皇も、驚かれて、勅書を下された。

朝家「朝廷」のため、天下のため、かへすがへすも、おもいどまり候へ

だが、秀吉は、明国との和議が起こった後で
汝、豊臣秀吉を報じて日本国王となす
との、文句を見て、激怒する。

尊皇をもって、天下平定の大義である。秀吉には、その文面が無礼極まるものだった。

だが、その後、病死する。
後を継ぐのが、家康である。

皇室尊崇という点では、家康は、どの程度だったのか・・・

家康の開幕などで、天皇のご不満は募り、遂に、慶長16年、ご譲位・・・

ある時、家康が参内した。
豊臣秀頼征伐のことを奏上すると、天皇は、気色荒く
秀頼は、そちの婿ではないか。何の罪あっての征伐なのか
と、咎めた。

ここから、家康は、天皇を怨んだという。

元和三年、1617年、二代将軍徳川秀忠が、上洛し、仙洞御所の玉座に召された。

なんじを、父家康のように意見をすることが出来るのは、私より他にはあるまい。家康は、一生の間、兵馬を駆け巡った。したがって、その身の行いは、王道に背くこともあろう。しかし、秀忠は違う。治国の将たること、生まれながらである。殺伐をやめ、仁政を施すことだ。さすれば、子孫も無事に栄え、朝廷の守護もしっかり出来よう。過ちありと、気付いたら、すぐに改めることだ。そうあってこそ、天下の人々は仰いで、尊敬することであろう。少しでも、怠ることがあれば、天は、そのものに加護を垂れたまわぬであろう。

この元和三年8月、崩御される。
御年は、47歳であった。

後陽成天皇が、ご譲位によって、センソされたのが、御年16歳の、第百八代、後水尾天皇である。1611年から1629年。

朝廷と幕府の関係により、影響をお受けになられるのである。

25歳の元和六年、1620年、将軍秀忠の娘、和子を女御とし、四年後の寛永元年、中宮、皇后とされた。

公家、武家を問わず、女を入れて、皇室の外戚となり、権勢の手段とするのは、過去幾度となくあったこと。
徳川氏も、その方法を取ったのである。

更に、幕府は、諸大名と朝廷が結ぶのを恐れた。

参勤交代の際に、京都市内を通らせず、伏見を通らせた。
伏見奉行を置いたのである。

更に、天皇も、京都の外には、出られない。
それは、幕末まで続く。

元和元年1615年には、禁中並公家諸法度が制定された。

元号制定、官位栄典授与、大切な朝廷の事務、朝臣の処分権なども、実質的には、幕府が握ったのである。

天皇は、ご譲位を決意されるが、辛うじて、耐えられる。
だが、三第将軍家光の乳母福が、無位無官の身で、天皇に拝謁したいとの事件で、遂に、ご譲位を決心する。

その行為は、余りにも、目に余るものだった。
朝廷の権威、天皇の権威を無視するものである。

天皇家が、武家ならば、その場で、斬られる程のことである。


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2013年04月05日

性について229

精神分析による、性というもの・・・
それは、100年単位で、その当時の驚くべき分析が出る。

分析は、分析に陥るのである。
100年後に、その分析が通るかどうかは、解らない。

性について、色々書いてきたが、もう一度、ここで、性というものの、進化を見たい。つまり、オスが男になる、メスが女になるというものである。

オスが男になる過程を見れば、メスが女になる過程も解る。

つまり、オスはどうして、男になったか・・・である。

動物としての、オスが、人間としての、男になるということである。

単なる生殖行為としての、オスと人間の男は、変わらないとは思えない。
何せ、オスは、人間の男のように、年中性行為が出来る訳ではないし、その期間だけ、生殖行為をするのである。

人間の男と女だけが、年中、性行為をするという・・・
呆れるほどの、性行為を繰り返している。

何故か・・・

更には、それで足りずに、マスターベーションも繰り返す。
何故か・・・

本当に、欲望なのか・・・
それとも、強迫性のものなのか・・・

食べる行為と同じく、毎日、性行為をする時期もあるのだ。

更には、性の劣等感である。
特に、男のペニスが小さいなど・・・

巨根願望である。
大きいペニスを持つというだけで、自信を持つという、男というもの。
少し哀れであるが・・・

何の才能も無いが、ペニスが大きいというだけで、何か、特別な自信を持つ男という哀れさである。

オスがヒト化した、男のペニスは、巨大化した。
それは、直立二歩行にともない、大脳化現象と、対面位が、メスの性器を巨大化したからである。

更に、メスがいつもオスを受け入れ、多重型オーガズムを獲得していったことが、上げられる。

そこから、巨根神話が出来上がるのである。
更に、多様な、性的逸脱行動である。

特に、性的逸脱は、男に多い。
強姦、露出症、小児性愛、同性愛、覗きなど、そして、若い女を好む・・・
それは、オスには、見られなかったことである。

オスが男になっていく過程を俯瞰すると、五億年前から、二億年前に終末を迎えた、古生代を経て、は虫類の時代と呼ばれる中生代が、7000万年前に終わり、新生代に入るのである。

その中で、300万年前に始まったとされる、更新世と、それに続く、現世とを合わせて、第四紀とも呼ばれる時代。
その第四紀が、ホモ・サピエンス誕生の時期である。

最初の哺乳類が発生したのは、中生代初期で、体温調節に巧みなものが、白亜紀を生き延びて、新生紀まで生きた。

霊長類は、この新生代の始まる前、白亜紀の終わりに存在していたと、いわれる。
生き延びた、乳類から派生したのである。

第三紀末に訪れた、極端な気温低下は、その後、断続的に訪れ、これが第四紀の、寒冷気候の特徴である。

人間の先祖は、その過酷な環境を生きてきたのである。

第三紀には、六回の氷河期と、五回の暖期があった。
わずか一万年前から始まった現世、完新生は、新世代最後の氷河期のあとの、間氷期である。

現在は、暖期なのである。

だが、新生代の本当の寒冷期が始まるのは、地殻変動の沈静する、一万年前以降の中新生である。

地殻変動が起こると、生物も、新生し進化する。
鳥、昆虫も新世代に入り、繁殖した。

最も初の、霊長類のツバイ科動物は、樹上で生活を始めたリスと同じ形と、大きさを持つ動物だった。

これが、新世代に入り、間もなくの、6400万年前であり、その後、幾つかの過程を経て、ヒト科が出来上がる。

およそ、3500万年前に、旧人類、類人猿が繁殖して、やがて、400万年前の、鮮新世の終わり頃に、類人猿とほぼ同じ大きさの脳を持ち、ホモ・サピエンスと同じように、直立して歩く、類人猿の従兄弟が誕生する。

ユーラシア大陸にアラビアとアフリカをのせた大陸が食い込み、つながっているうちに、ユーラシア大陸の各地に、移り住んでいた。
およそ、3500万年前である。

ヒトにより近くなった、類人猿ドリオピテクスは、およそ2300万年前から、800万年前まで、生息していた。

このサルは、チンパンジーのように、手の指を曲げて、木の幹を押しつつ、歩いていたのである。樹上の生活である。

発情した時だけ、オスは、メスと交尾し、発情期が過ぎると、別れて、オスは子育てに参加しない。

メスは、環境が良いので、オス無しで、子育てが出来たのである。

メスがオスに与える、発情のサインは、尻を腫らせ、真っ赤に着色した視覚信号と、膣から出す、フェロモンの臭覚信号、ラブコールの、聴覚信号である。

人類は、遠い昔に、このドリオピテクス類から枝分かれして、屈折した道を歩み、現在の人間に成るに至ったのである。


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2013年04月06日

性について230

人類は、ドリオピテクスから枝分かれしたのである。
その、ドリオピテクスには、発情期があり、現存する、ゴリラ、オランウータンから類推されるように、月経周期の半ばの排卵期が来ても、尻も腫れず、赤くもならないだろう。

だが、性的に興奮していることは、行動で示したと思われる。
月経周期に関わらず、いつでも、交尾する類人猿はいない。

人類の祖先の、ドリオピテクスにも、まだ、発情期の痕跡が残っていたと思う。

飼育下で、ゴリラや、オラウンータンの交尾の主導権は、いつもメスが握っている。しかし、ボルネオの密林では、オスのオランウータンが、交尾を強要したり、強姦という形を取ることもある。

オランウータンは、体の性差が、最も著しいサルといってもいい。
メスの二倍もある体格と、頬の輪郭と、垂れ下がったのど袋を誇示して、オスの間で、メスの獲得のための、駆け引きが展開される。

更に、行動の性差が激しい。
オスの長い呼び声である。これは、オスの間の性選択の手段である。

この長い呼び声は、社会的に優位のオスだけに、許されている。
順位付けの、音声信号である。

だが、これにより、メスが性的に惹かれるわけではない。
そして、メスと性行為をしたオスは、更に長い叫び声を上げるという。

ドリオピテクスも、同じようなものだったと、推測するのである。

ただ、オスとメスの、体格の性差は、オランウータンほどではなかった。
オスの身長は、90センチメートルで、メスは、これより少し小さい。

チンパンジーの性差位である。

彼らの大勢の子孫から、最初の人類が誕生しようとしていたのである。

学者により、様々な、人類系統図が、描かれているが・・・

最も、新しい説は、5,600万年前に、まずゴリラの祖先から、ついでチンパンジーの祖先から、短期間のうちに分かれたという説である。

つまり、チンパンジーが、人間に一番近いサルということになる。

これは、遺伝子のデオキシリボ核酸の、比較研究から出されたものである。

チンパンジーと人間の、共通の祖先から分れた年代は、570万年前から640万年前という、鮮新世の時代だと、推測される。

兎も角、人類の結婚の起源は、ドリオピテクス類から始まると、考えてよい。

それは、人類の視覚、体型、群居性、性生活、社会生活の要素の大半を、ドリオピテクスから引き継いでいるからである。

さて、ドリオピテクスに限らず、霊長類の交尾システムは、大きく分けて、ハレム型と、乱交型である。

一夫一婦という関係は、極めて稀である。

乱交は、メスが発情していれば、交尾の相手が自由というタイプであるが、一夫一婦制がないように、完全な乱交も、有り得ないという。

好みにより、一定期間をペアで過ごす型と、オスの社会的順位によって、左右される型とがある。
後者の方が、サルの社会では、よく見られるもので、交尾の相手は一定しないが、時には、オスの順位で決まる。

複数のオスと、複数のメスで形成される、社会単位である。

ハレム型は、一頭のオスと、複数のメスと子供からなる社会単位をもつ、サル社会に見られる。

いずれにせよ、その基本は、繁殖を成功させることである。

一夫多妻型は、過酷な自然環境の中で、数千年の過程で、種を絶やさぬための戦略として、引き継がれてきたのである。

性を楽しむという、人間の在り様ではないということだ。

1926年、南アフリカで、ヒトと類人猿の両方の特徴を持つ、頭蓋骨が発見された。
これは、アウストラロピテクス、南のサルと、命名された。
1947年に、ヒト科と認められた。

この、ヒト科動物の系列に花を添えたのが、1972年から74年、国際遠征隊によって発見された、ルーシーの存在である。

東エチオピアで発見された化石は、身長110センチ、年齢推定は18歳から21歳の女性である。
地質年代は、340万年前から、300万年前である。

数少ない化石から、ヒト科の平均寿命を推定することは、不可能である。

ただ、1966年に、シュルツの作った各種霊長類のライフサイクル表は、ヒト科動物の寿命が、30から40歳以上であったことをうかがわせる。

メスザルは、死ぬまで血を流していたと思われる。
過酷な自然環境の中では、月経周期が終了するまで、生きていることが出来なかったと、思われる。

さて、ヒトとチンパンジーが共通の祖先を持つとすると、卵巣の働きも同じようだったといえる。

ただ、漸新世から、鮮新世にかけて、地殻変動と森林の後退といった悪循環の下では、寿命は、長くなかったはず。
20から30歳程度である。

人類の遠い祖先も、月経周期を持ったまま、死に、あるいは、月経周期を終えると、死んだ。

過酷な環境から逃れて、肉食獣から身を守る、唯一の方法は、自由になった手で、武器を作るこだったと思う。

それは、ドリオピテクスより後の、ホモ・ハビリスの時代になってからである。
ホモ・ハビリスの手足は、現代人と変わらないのである。

更に、脳の大きさである。
脳の大きさが、人類の進化の大本である。


posted by 天山 at 00:03| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月07日

性について231

鮮・更新世の頃の、乳幼児の死亡率は、極限に達する。
そこで、出産率を増やさない限り、種族の絶滅に至るのである。

それでは・・・どうするのか・・・
まだ月経周期のあるメスと交わることである。

その頃の、原人たちの寿命は、解らないが・・・
30歳程度か・・・
月経停止を向かえるメスも多かっただろう。

アフリカのカラハリ砂漠に住む、クン族「ブッシュマン」の平均寿命は、30歳で、月経停止は、30歳を超えた女にみられるという。

それまで、熟女を相手にしてきた男たちは、出生率を増やす段階に入り、熟女を敬遠し、若い女に相手を変更した。

事実は、ヒト科以外の霊長類のオスが、若いメスを特に好むという傾向はないが・・・

例えば、チンパンジーは、交尾の形に、乱交と、ハレム型があるといったが、この類人猿だけは、交尾の相手に、好みという傾向を持つ。

チンパンジーの発情したメスの前に、発情したオスが並んで順番を待つ。
どのオスとも交われるのだが、息子や、兄弟を外す。

中には、個人的な好みをはっきりと、示す例が報告されている。

それは、年長のオスを選んでいる。
若いオスを除き、高順位のオスたちが、年長のメスを独占するという。

現代人は、どうか・・・
男は、二十歳前半までは、年齢に拘らないが、後半になると、年下の女がいいという。

若い女をというのは、その後、男の年齢が増えるほど多くなる。

これに対して、女は、年上の男をという思いは、強くない。

であるから・・・男の浮気、不倫は、徹底的に若い女が相手である。

更に、女も、婚外性交率が、うなぎ上りである。
結婚後に他の男と関係したという、報告には、六人に一人である。
その三分の二が、職業婦人である。

これは、寿命が長くなったゆえのこと。
昔は、相手が嫌になった頃に死ぬ。
しかし、現代は、寿命が長く、嫌になっても、生きている。
勿論、両者共に、である。

性の選択が多くなったのは、進化によるものである。
特に、メスが月経周期に関係なく、オスを受け容れるようになった。

更に、対面位性交により、強い性的快感を感じるようになったからである。

加えて、情報である。
性欲をそそる情報の氾濫である。
あらゆるものに、セクシャル・エロスが含まれている。


posted by 天山 at 00:53| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月08日

神仏は妄想である。406

縄文時代の、信仰について書いてきた。
勿論、当時は、信仰などという感覚ではない。
それは、自然と共生、共感して生きるというものである。

それを、私は、古道と呼ぶ。
そして、その所作にこそ、妄想ではない信仰が存在したという。

更に、現在では、考古学によって、縄文時代の人々の生活が、予想していたより優れていたという証拠が、どんどんと発見され、発表されている。

現代人が、丸裸の自然に投げ出された時、生きては行けないだろう。
それほど、自然と、隔絶された生活の中で、生きている。

それは、進化か、あるいは、退化か・・・

進化したのは、文明であり、人間は、ある種の退化をしたのである。

自然から教えられることを、知らない、覚えないという意味では、退化といえる。

さて、古道に関しては、いずれまた、触れることがあると思う。
これから、少しばかり、精神分析と、信仰、宗教について、触れたい。

心理学、精神分析から見る、宗教である。
それは、対立するものなのか・・・
あるいは、協力関係を持って、歩むものなのか・・・

宗教と信仰を、人間の一つの、特性として考えた場合に、両者は、協力関係を結ぶ。人間の心の自己実現のために、である。

エーリッヒ・フロムの、精神分析と宗教、という書籍を利用することにする。

宗教と信仰の病理を扱うのではない。
肯定的に、宗教と、信仰を考えるという意味において、フロムの言葉を、紹介する。

まず、時代背景から、人々の不安を俯瞰している。

ある日々とにとっては宗教へ立ち帰ることが答えになるが、それは信仰という積極的な行為としてではなく、堪え難い懐疑から逃避するためにほかならない。そのような人たちは信仰からではなく、安心を求めるところからこの決意をする。教会には関心がないが、人間の魂への関心は持っている現代社会の研究家は、このような段階を神経障害のもう一つの兆候であると考える。
フロム

文明生活に浸かって、生きる人々の心に起こる、不安感である。
果たして・・・このままの生活で・・・

余程、鈍感な人で無い限りは、文明生活に浸かった状態を不安に思うだろうと、考える。


伝統的な宗教へ立ち戻ることによって解決を見出そうと試みる人々は、宗教家たちによってしばしば提起される、次のような見解の影響を受けている。すなわち、われわれは宗教か、あるいは、本能的要求や物質的快楽の満足のみを求める生活かの、いずれかを選ぶべきであり、さらに、もし神を信じないとすれば、魂やその欲求を信ずる理由もーーーまた権利もーーーわれわれはもたない、という見解である。
フロム

あたかも、僧侶や牧師は魂の問題を扱う唯一の職業的集団であって、愛、真実、および正義という理想の、唯一の代弁者であるかのようである。
フロム

これに対して、フロムは、異議を唱える。
哲学があり、倫理学があり、心理学がある、等々・・・

そして、その系譜について、論じている。

フロムの言いたいことは、
もし宗教の教義を受け容れないなら、魂の問題をもまた断念しなければならないという言葉が正しくないことを、私は・・・
精神分析家は、非宗教的な象徴体系の背後にある人間の現実と同じく、宗教の背後にある人間の現実をも研究する立場にある。・・・
人が宗教に立ち戻って神を信ずるかどうかということではなく、人が愛に生き、真実に考えるかどうかにあることを知っている。もし人がそのように生きているならば、かれの用いる象徴体系は副次的な意味をしかもたない。しかしもしかれがそのように生きていないならば、それはもともとなんらの意味をも持たない。
フロム

このエッセイは、神仏は妄想である、という、題をつけて書いている。

フロムの、宗教の背後にある人間の現実をも研究する、という言葉は、そのまま、神仏は妄想である、の、テーマでもある。

人が愛に生き、真実に考える・・・
それが、問題である。

それは、宗教の問題ではない。
個々人の問題である。

神を信ずる以前の問題なのである。

宗教は、その一つの手段と考えてもいい。
勿論、フロムは、神を信ずるという方針ではあるが・・・
後に、権威主義的形態の宗教を廃して、人道的宗教の必要性を訴えている。

集団の問題ではなく、個々人の問題であるということが、テーマである。

それは、人間が真に理性をして、独立性を獲得し、宗教の問題は、人間における、愛と自由とを発展させるところにあるという目的になる。

とすると、伝統宗教は、それに耐えられるか。

帰依するとは、理性も神仏にお任せして、ただ、その安心の上に立って生きるということになりそうである。
信仰とは、一種の知性と、理性を捨てる行為に、堕落する。

何せ、神に委ねる、仏の家に身を投げ入れるというのである。
そこに、独立性を見出せるか。
信仰が深くなればなるほど、頑固頑迷になり、果ては、孤立してゆく信仰の過程がある。そして、辛うじて、その集団の中では、孤立していないと、幻想を抱くのである。

posted by 天山 at 00:07| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月09日

神仏は妄想である。407

神仏は妄想である、と言うとき、それを扱う集団を宗教と呼ぶ。
つまり、神仏は、宗教とイコールになり、そうすると、宗教は妄想であると、言い換えてもいいのである。

個人的な信仰、信仰心というものに関して、否定するものではないが・・・

ライヒは、その宗教というものの、定義についても、心理学的に言う。
宗教という言葉を聞くとわれわれは、神および超自然力を中心とする一つの組織を連想する。いいかえれば、すべての他の宗教を諒解、評価する際に、われわれは一神教をその準拠体制と考えようとするのである。したがって、仏教とか道教とか儒教とかいうような神をもたない宗教は、はたして固有の意味で宗教と呼ばれうるかどうかが疑問となる。
しかし、現代の権威主義のような、いささかも宗教と呼ばれていない世俗的な組織すら、心理学的にいえば充分宗教と名づけうるものなのである。
ライヒ

わたしがここでいう宗教とは、およそ、一つの集団に共有されそして各個人に構えの体制と献身の対象とを与える思考と行動との組織一切を意味していることを、最初にことわっておきたいと思う。
ライヒ

つまり、主義、イデオロギーに関しても、各個人に構えの体制と献身の対象を与える思考と行動・・・なのである。

共産主義、赤軍派、日教組・・・
色々ある。

その恐ろしい事実は、ライヒの、人間における自由、という書籍で語られる。

自覚や理性や想像というものは、動物的生存を特徴づけている「調和」を瓦解させてしまった。それらの出現は人間を変則となし、造化のいたずらとなしてしまった。
ライヒ

造化のいたずら・・・
これが、問題である。

人間も、動物であるが・・・
動物ではなくなったのである。
つまり、動物のように、本能に生きられなくなった。
そして、あらん限りの妄想を抱いて、生きるようになったのである。

あるいは、幻想である。

その人間の創りだしたモノ・・・
すべては、妄想であり、幻想である。

これで、話は終わり。

ところが、人間は、身体のある限り、生き続ける。生きなければならぬ。
その、生きる、拠り所として、妄想や、幻想を信じ込む。あるいは、のめり込む。そして、われを忘れる。

実際、神仏によって、救われるのではない。
自己が自己暗示によって、救われていると、するのである。

何かに依らずに生きることは、至難の業である。

であるから、国民国家というものも、幻想を創り上げる。
それが、成功すれば、国家は、成り立つ。

国家という、共同幻想によって、かろうじて、保たれる国家意識。

だが、国民が、共同幻想を持たない場合は、国家として成り立たないのである。

国家のみならず、我という意識も、である。

私は、その妄想、幻想を否定はしない。
ただ、批判するのである。
そして、批判は、芸術行為である。

批判は、芸術行為によって、許される。

哲学の弁証法というものも、芸術として成り立つから、哲学としての、意義がある。

学問の極まるところは、宗教と科学と、芸術である。
と、飛躍してみる。

この三つが、調和した時に、人間は、少しの救いを観るはずである。

人間の栄光であるはずの理性は、またかれの呪詛でもある。理性は始終人間を強いて、解決不可能の二分性を解決しようとする課題に向かわせる。
人間存在はこの点において、他のあらゆる生物とは異なるのである。人間の存在は、絶え間ない、避け難い、不均衝の状態である。
人間の生活は、その種族の生活様式をただ繰り返すことによって「過ごされて行く」ものではない。
人間は自分で生きなければならないのである。
人間は退屈し、不満を覚え、楽園を追われたと感ずることのできる、唯一の動物である。
人間とは、自分にとって自分自身の存在が、自分で解かねばならぬ問題であり、またその問題から逃れることのできない、唯一の動物である。
人間は、自然との調和を保っている人間以前の状態に帰ることはできない。
人間は、自分が自然の主となり、また自分自身の主となるまで、理性を発展させて行かねばならない。
ライヒ 改行は、私。

最後の言葉は、矢張り、ユダヤ、キリスト教に大きく影響されている。
自然の主となるとは、おこがましい。

自分自身の主になるべきではあるが・・・

楽園を追われた者という意識を持つ、唯一の動物・・・
つまり、楽園とは、自然であり、自然の中から逃れた者である。
追われたのではない。

人間が、一体、どこの楽園から、追われたというのか・・・

勿論、本能から開放されて、造化になった人間は、自ら、楽園を捨てたのである。
それが、理性である。

へんてこなものを、持った訳である。

言葉を捏ね繰り回すという、欧米の思想家は、見事に、妄想、幻想全開である。
しかし、それが、面白い。
実に、面白いのである。

理性と、知性をギリギリまで使い切るという姿勢は、上等である。


posted by 天山 at 00:28| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月10日

神仏は妄想である。408

楽園を、すなわち自然との和合を失ったので、人間は永遠のさすらい人になってしまった。人間はいっそうの前進を強いられているし、また、無限の努力をもって、その知識の空白をいろいろの解答で充たしながら、未知のものを理解して行くように強いられている。人間は自分自身に対して、自己自身とその存在の意味とを解明しなければならない。人間はこの内面的な破れを克服するためにかりたてられ、そして自己を自然から、仲間から、また自分自身から隔てている呪詛を消散させうるような「絶対者」や、他のなんらかの調和を熱望して苦悩するのである。
ライヒ

と、言いたいことは、この「絶対者」である。

一つの目的、一つの理念、あるいは神、というような、人間を超えた力への献身は、全生活過程の完成を求める、このような欲求の一つの表現なのである。
ライヒ

つまり、人間は、超越的存在を求める存在であると、言う。

それが、
宗教的欲求、すなわち構えの体制と献身の対象とを求める欲求を持たない人はいない。
ライヒ

勿論、その間に、色々と、くどくど言葉を重ねているが・・・

人間の基本的欲求には、そのような、神、あるいは、構えと、献身の対象が存在するということだ。

問題は、宗教か無宗教かではなく、どのような種類の宗教かということ、すなわち、それが人間の発展を、いわば人間特有の能力の展開を、促進させるものであるかまたはそれらを閉息させるものであるか、ということにあるのである。
ライヒ

これには、依存はない。
その通り。
人間には、簡単に言うと、拝む対象が必要なのである。

それが、宗教でも、思想でも、何でもかんでも・・・

鰯の頭も信心から・・・
あながち、間違いではない。

それが、人間の本性か・・・

構えの体制と献身の対象とを求める欲求が、人間存在の諸条件に由来するという考えは、歴史上あまねく宗教が存する、という事実によって充分実証されると思われる。
ライヒ

それも、その通りだが・・・
古代の宗教といえるものが、現在のような妄想、幻想の宗教の形だったのか・・・

宗教という言葉のなかった、古代である。
それをも、すべて宗教行為、あるいは、信仰と、言えるのか・・・
言ってもいいが、それが妄想、幻想の産物ではなかったとも、言えるのである。

この宗教という言葉も、西欧のキリスト教から、出た言葉であり、それは、キリスト教が最高の宗教であり、他のものは、いずれキリスト教に向かって行くとの、勘違いの宗教観念であった。

ただし、フロイトが、神経症と宗教との関連を、人類の集合的小児神経症と解釈したのは、面白い。

そして、ライヒも、
われわれは神経症を個人的な宗教形態であると解釈することができる。
と、言う。

更に、
神経症とは公に認められた宗教様式と抵触する、原始的宗教形態への退行であるということができるのである。
とも、言う。

面白い例を上げている。
北米インデアンはキリスト教に改宗させられたが、キリスト教以前の、古い宗教は決して、根絶されていない。キリスト教は、古い宗教の上にかぶせられためっきであるという。

現代文化の中での一神教的宗教や、またさまざまの無神論的不可知論的哲学とかいったものは、インデアンの宗教よりもいろいろの点でもっと「原始的」であり、まったくの偶像崇拝であり、そしてはるかに一神教の本質的な教説とは矛盾するような、さまざまの宗教に上にかぶせられた薄いメッキなのである。
ライヒ

その偶像崇拝の対象は、権力や、成功や市場の権威などである。
成功哲学なるものも、その一つである。

現代人をひと皮はがせば、われわれはそこに、個人化された原始的宗教形態のいくつかを発見する。
その大部分は神経症と呼ばれるものであるが、しかし同時にそれらを、それぞれの宗教的名称で呼んでもさしつかえないのである。
ライヒ

このことについては、私も同じ意見である。
深い信仰というものは、多分に神経症の状態と同じである。

ちなみに、それを取り上げてみると、その神経症は、不安増大神経症となる。

更には、自虐神経症、強迫神経症となる。

罪悪感神経症もある。

そして、宗教は、その神経症のどれか一つを、徹底して、攻撃することにより、信者を獲得するのである。

しかし、それが、相当数の人々に共有される、つまり、集団化すると、ある程度の安定感を得るのである。
それが、宗教団体の姿である。

更に、
一つの集団の共有となれば、ある種の快感を与える。
ライヒ

一つの主義は、たとえどんな不合理なものでも、ひとたび社会的な力を獲得すれば、何百万という人々は、自分がのけものにされ孤立していると感じたくないので、それを信じ込むようになるであろう。
ライヒ

中国共産党にように・・・


posted by 天山 at 00:02| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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