2013年03月22日

もののあわれについて605

大臣、この北の対の今姫君を、「いかにせむ。さかしらに迎へ率て来て、人かくそしるとて返し送らむもいと軽々しく、もの狂ほしきやうなり。かくて籠め置きたれば、まことにかしづくべき心あるか、と、人の言ひなすなるもねたし、女御の御方などに交じらはせて、さるをこの者にしないてむ。人のいとかたはなる者に言ひおとすなる容貌はた、いとさ言ふばかりにやある」など思して、女御の君に、内大臣「かの人参らせむ。見苦しからむ事などは、老いしらへる女房などして、つつまず言ひ教へさせ給ひて御覧ぜよ。若き人々の言種には、な笑はせ給うそ。うたて、あはつけきやうなり」と、笑ひつつ聞え給ふ。女御「などか、いとさ殊のほかには侍らむ。中将などのいと二なく思ひ侍りけむかねごとに堪へずといふばかりにこそは侍らめ。かく宣ひ騒ぐを、はしたなう思はるるにも、かたへはかがやかしきにや」と、いとはづかしげにて聞えさせ給ふ。




内大臣は、この北の対の、今姫君をどうしたものかと、余計なことをして、迎えて、連れて来て、世間がこんな悪口を言うからといって、送り返したりしても、身分に関わる、気違いじみたことだ。このように、邸に閉じ込めておいたのでは、本当に、大切に育てる気があるのかと、世間の人が噂するだろう。それも、いまいましいこと。女御のお付の一人にして、そういうような者と、扱うようにしてしまおう。世間では、見られたものではないと、悪口を言うと聞くが、あの子の顔立ちは、何もそんなに言われるほどではない。などと、考えて、女御の君に、あれを差し上げましょう。見ていられないことがあれば、年配の女房などに、遠慮なく、教えてお使いください。年若い女房たちの話の種にして、笑いものにしないでください。困ったことに、軽々しい性格らしいのです。と、笑いつつ、申し上げる。女御は、どうして、そんな酷いことがありましょう。中将などが、またとないほどに、立派だと思っていまして、予想に反したということでしょう。そのように、おっしゃり、お騒ぎになるので、決まり悪く思い、一つは、気おくれしているのでは、と、ご立派な態度で、申し上げるのだ。

今姫君とは、五節の君である。

女御とは、弘薇殿の女御である。
そちらに、姫君を侍女として、扱ってもらうという。

中将とは、柏木のことである。




この御有様はこまかにをかしげさはなくて、いとあてにすみたるものの、なつかしきさま添ひて、面白き梅の花の開けさしたる朝ぼらけ覚えて、残り多かりげにほほえみ給へるぞ、人に異なりける、と見奉り給ふ。内大臣「中将のいとさ言へど、心若きたどり少なさに」など申し給ふも、いとほしげなる人の御おぼえかな。




この女御の、様子は、隅々まで、良いというわけではない。上品で、清ましているが、やさしさがあり、美しい梅の花の咲きかけた、明け方の空のような感じがして、いいたいことも、差し控えて、微笑んでいるところは、人とは違う美しさである。そのように、見受けられる。内大臣は、中将は、何と言っても、考えが浅く、十分に調べることがなかつたゆえに、などと、申し上げるが、気の毒な扱いだ。

最後の言葉は、作者である。




やがてこの御方のたよりに、たたずみおはしてのぞき給へば、簾高くおし張りて、五節の君とて、ざれたる若人のあると、双六をぞ打ち給ふ。手をいと切におしもみて、近江「せうさい、せうさい」とこふ声ぞ、いと舌どきや。「あなうたて」と思して、御供の人の先追ふも、手かき制し給ひて、なほ妻戸の細目なるより、障子のあきあひたるを見入れ給ふ。この人も、はた気色はやれる。五節「御返しや御返しや」と、筒をひねりて、とみにも打ち出でず。中に思ひはありやすらむ、いとあさへたるさまどもしたり。容貌はひぢぢかに、愛嬌づきたるさまして、髪うるはしく、罪軽げなるを、額のいと近やかなると、声のあはつけさとに、そこなはれたるなめり。取りたてて良しとはなけれど、こと人とあらがふべくもあらず。鏡に思ひ合はせられ給ふに、いと宿世心づきなし。




その後、こちらへおいでになったついでに、ぶらぶらされて、覗くと、簾を高く押し出して、五節の君と、気の利いた若い女房と、双六をしている。手をしきりに、すり合わせて、近江が、小さい目、小さい目と、祈る声は、酷く早口である。何と情けないと、御供の人が、先払いするのを、手で制して、そのまま妻戸の細い隙間から、襖が開いているところを、覗く。五節の君も、負けずに、調子づいて、御辺報、御辺報と、筒をひねりまわして、中々、振り出さない。心の中に思っていることはあるが、見たところ、浅はかな感じである。器量は、小柄で、愛嬌もあるように見えて、髪は見事で、欠点はあまりなさそうだが、額が酷く狭く、声が上調子であるので、打ち壊されているようだ。特に良いというのではないが、肉親でなければ、争うわけにはゆかないほど、鏡に映る自分の顔に似ていると思うと、全く、前世の因縁がうらめしい。




内大臣「かくてものし給ふは、つきなくうひうひしくなどやある。こと繁くのみありて、とぶらひまうでずや」と宣へば、例の舌どにて、近江「かくて侍ふは、何の物思ひか侍らむ。年頃おぼつかなく、ゆかしく思ひ聞えさせし御顔、常にえ見奉らぬばかりこそ、手うたぬここちし侍れ」と聞え給ふ。




内大臣は、ここにおいでになるのは、そぐわず、落ち着かない感じがしないか。忙しいばかりで、訪れていないが、とおっしゃると、いつもの通り非常に早口で、近江が、ここにおりますと、何の心配なことが、ありましょうか。長い年月、気になって、お会いしたいと思い上げていたお顔を、いつも拝見できないのだけが、良い目の出ない思いがします、と申し上げる。




内大臣「げに、身に近く使ふ人もをさをさなきに、さやうにても見ならし奉らむと、むねては思ひしかど、えさしもあるまじきわざなりけり。なべての仕うまつり人こそ、とあるもかかるも、おのづから、立ち交じらひて、人の耳をも目をも、必ずしもとどめぬものなれば、心安かべかめれ。それだにその人の女、かの人の子と知らるる際になれば、親兄弟の面伏なる類多かめり。まとて」と宣ひさしつる、御気色の恥づかしきも見知らず、近江「何かそは、ことごとしく思ひ給へて交じらひ侍らばこそ、所狭からめ、おほみおほつぼとりにも、仕うまつりなむ」と聞え給へば、え念じ給はで、うち笑ひて、内大臣「似つかはしからぬ役ななり。かくたまさかに会へる親の孝ぜむの心あらば、このもの宣ふ声を、少しのどめて聞かせ給へ。さらば命も延びなむかし」と、をこめい給へる大臣にて、ほほえみて宣ふ。近江「舌の本性にこそは侍らめ。幼く侍りし時だに、故母の常に苦しがり教え侍りし。妙法寺の別当大徳の、産屋に侍りける、あえものとなむ嘆き侍りたうびし。いかでこの舌どさ、やめ侍らむ」と思ひ騒ぎたるも、いと孝養の心深く、あはれなりと見給ふ。




内大臣は、その通り、身近に使う人もあまりいないので、傍に置いて、いつも顔を見ていようと考えたが、それは出来ないことだった。普通の奉公人ならば、何をしても、大勢の中で、色々するのだから、誰の目にも、耳にも、必ずしも気付かないことなので、気も楽だろう。そうであっても、誰の娘だ、誰の子だと、言われるくらいの生まれになると、何かの時に、親兄弟の、不面目になることも多いようだ。その上に・・・と、言いかけて、止める。その様子の立派さも、何とも思わず、近江は、いえいえ。何のことが。一人前のつもりになって、女中たちと一緒におりましたら、窮屈でございましょう。おおみおおつぼの係りといたしましょう、と申し上げるので、我慢出来ず、笑って、内大臣は、あなたには、似合わない役のようだ。このように、たまたま会った親の私に、孝行しようという気持ちがあれば、その物の言い方をゆっくりとして、聞かせて欲しい。そうしたら、私の寿命も延びるでしょう。と、おどけたところのある大臣で、微笑んでいる。近江は、舌は生まれつきのものです。子供の時さえ、死んだ母が、いつも嫌がり、止めるように言いました。妙法寺の別当大徳が、産屋に詰めておりましたので、それにあやかったのだと、嘆いていました。何とかして、この早口を止めましょう、と、思案に戸惑うのも、親孝行の気持ちが深く、可哀想だと、内大臣は、感じるのである。

あはれなりと見給ふ
この、あはれは、可哀想だという、気持ちである。

何とも、一口では言えない、気持ちも、あはれ、となる。




posted by 天山 at 01:36| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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