2013年03月14日

神仏は妄想である。403

神道以前に、古神道があり、それは、古道からなる。
それで、古道とは、何か。

それは、まず、弥生時代の神道、渡来系の神道、稲作優位神道を廃し、更に、中国大陸からの、道教、儒教、そして、最大に影響を与えた仏教を取り除いてみることである。

仏教の場合は、実に根が深い。
特に徳川幕府の統制による、全国民を家族単位で、各寺院の檀徒として、強制的に届けさせたことである。
それに乗って、仏教は、堕落の一途を辿る。

その反省から生まれた、新興仏教勢力も、結果的には、堕落している。
全く、仏陀の説いたものではないものを、仏法として、喧伝しているのである。

また、それに対して起こった、復古神道、国学から出た神道は、国家神道という、お化けを作り出した。

全く、妄想の産物である。
そして、その議論、教義に似たものも、道教を取り入れるという、愚かさである。
というより、表現形式が道教以外になかったといえる。

神仙道などというのは、全く、神仙妄想である。

明治維新によって、復活した神道は、神道という名ばかりのもの。
砂上の楼閣神道である。
つまり、国家神道の大本である。

実に天皇陛下は、迷惑したことだろうと、察する。

今から、約2300年前から始まった、弥生神道、弥生時代以降、古道は、姿を見せなくなった。

皇室神道が、弥生神道の大本である。
否定はしない。
もはや、伝統という長きに渡り、続けられているのである。

それでは、古道とは・・・
簡単である。
天地自然の様を見ることである。

ある研究家は、純神道、縄文神道などと、呼んでいる。

その古道を知るためには、古事記、日本書紀より、自然科学、地球の歴史、考古学などを学ぶ方が、縄文期の状況が分かるというもの。

現在人の考え方は、おおよそ、唯物思考である。
それは、極めて、天地自然の霊妙な仕組みを受け付けない思考でもある。

勿論、それらの一流の科学者は、自ら、その天地自然の霊妙な仕組みに対して、畏敬の念を持って語り、更に、神なるものの存在すら否定しないのである。

アインシュタインでさえ、宇宙に意志があれば、意思の発動者がいる。それは、カミである、と言うのである。

日本発のノーベル賞の湯川博士は、科学は宇宙の、ある絶対的なものとつながっていることを否定しえない。これ以上のことは科学者として言えない・・・科学と宗教は究極一体のものであろうと、言う。

ただそれが、唯一絶対の神、一神教とはならないのである。

古道では、人間の作りえない全ての、天地自然の物が、神であるという、考えに行き着く。

つまり、ある特定の人や、物などに、神というものは、存在しないのである。
生き神などという、存在自体が在り得ないのである。

宇宙の、秩序と法則が神である。
と言えば、最も近い言い方になる。

純神道、縄文神道という人も、神とはアニミズムと言うが、何となく、唯一神のような書き方をする。
それは、妄想である。

想念の極地、超越した心・・・
それでは、ユダヤ、キリスト、イスラム教の神観念になる。

天地創造の神という、観念である。
地球も、太陽も、月も、人類のために、物質化されたものであると、断言できるというが・・・
それでは、古道ではない。

旧約聖書の天地創造と、変わらない。

あれは、神話である。
喩えである。

旧約聖書の書かれた背景を眺めれば、それは、霧散する。

自分の信じる神が、一番であるという、考え方は、古道にはない。
地球も、太陽も、月も、その他の惑星も神であると考えるし、そのように、捉えるのである。

縄文期の、森羅万象に霊が宿る・・・
それで、十分である。

ちなみに、そこから離れて、人間は生きられないのである。
端的に言う。
人間を生かしているものが、神なのである。
とれすば、地球も、太陽も、月も、惑星も、自然のありとあらゆるもの、神である。

その、古道が、宗教対立を生むことがないということも、実の、証明である。

古来から、宗教は、多くの対立を生み、今、現在もなお、対立し、抑圧し、更に、戦争を起こしている。

そして、そこに、民族が関わると、更に複雑怪奇になる。

日本人が、宗教に対して寛大なのは、古道の潜在意識を受け継いでいるからだと、思われる。
あらゆる物が、神であれば、何を神として、奉じてもいいのである。

古道の最高の行為は、太陽崇敬に現れている。
しかし、それを、強制することは、一切無い。

ちなみに、大地に対する崇敬も、である。




posted by 天山 at 03:51| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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