2013年03月13日

神仏は妄想である402

日本でいうところの、神という言葉と、その概念は、西欧の神とは全く違うものであることは、何度も書いている。

おかしな、キリスト教の作家によって、日本には神不在だなどという、変な考え方が広がった時期があるが、全く、ナンセンスである。

日本で言う、神とは・・・
すべて、仮説的な発想でしか、なされていない。

ここで、日本で言うところの、神というものを、明確にする。

神とは、音で、シンである。
その漢字が入ってきた時に、霊というものを、神とした。

人間をはじめ、生きとし生けるもの、すべてである。
森羅万象、天地自然のすべてのものに、霊が宿るのである。

最も、古事記伝で、本居宣長がまとめた言葉が、合っている。

以下、私が読みやすく、書き写す。
さてすべてカミとは、古御典に見えたる天地のもろもろの神たちを始めて、その祀れる社に坐す御霊をも申し、また人はさらに云わず、鳥獣木草のたぐひ海山など、そのほか何にまれ、世の常ならずすぐれたる徳のありて、かしこき物をカミとは云うなり。すぐれたるとは、尊きこと善きこと、くしきことなどの、優れたるのみを云うに非ず。悪きもの怪しきものなども、よにすぐれてかしこきをば、カミと云うなり。

世の常は、尋常と書いている。
尋常ならず優れたる徳のありて・・・
悪しきもの怪しきものなども・・・

日本には、悪魔などは、いない。
何事も、対立させて考える西欧の考え方は無いのである。

よにすぐれてかしこきをば・・・
それが、悪しきものでも、怪しいものでも、である。

まさに、縄文期からの、考え方である。

漢字の神渡来以前から存在している、霊的なもの。あるいは、霊格なるものである。
それは、天地自然、人間、存在すべてに、あるものであるという。

漢字では、鬼神との表現を持つ。
それは、目に見えない世界のものという、意識である。

だが、日本に神という言葉が渡来した時に、即座に、それを霊なるものと、解したことは、驚きである。
つまり、それ以前に、その存在を認識していたということである。

日本に神という言葉が渡来して、今現在の、神という、概念がある。
中国には無いのである。

中国、道教により、神道という言葉も渡来している。

中国の霊は、死霊、悪霊、妖怪などの、雑多なものである。

日本にも言葉があったという、証拠である。
漢籍を翻訳したのは、日本に言葉があったという、証拠である。

賢きものとは、その昔、チ・ヒ・ミ・タマ・モノなどと、呼んでいた。

それらは、森羅万象、天地自然の働き、仕組みに対する、畏敬である。

ち、とは、血であり、人間の体内を流れる、精霊である。
更に、ちが、重なり、乳、父となる。
更に、精液も、ち、となるのである。

いのち、イノチという言葉を分析すれば、息のチという大和言葉が示す、始原的なエネルギーの言の葉になる。

この場合の、チは、霊である。
つまり、命とは、息の霊である。

ここで、面白いのは、木の精霊を、ククノチ、水の精霊を、オロチ、火の精霊を、カグツチ、イカヅチは、雷のこと、である。

一音に意味があるのが、日本語であると、色々書いている。

神という文字を、カミと読むことにしたのは、カとミの合成語として、考える。

カは、上を言う。
天の上には、太陽がある。
それは、輝く存在である。

カとは、支配者という意味もあり、領有するという意味もある。

ミとは、そのまま、精霊のことである。

山の精霊を、オオヤマツミ、海の精霊を、ワダツミ、雨の精霊を、オカミと呼ぶ。

海、ウミ、水、ミズ、水分、ミクマリと、呼ぶ。

それらの、精霊を総称して、タマと呼ぶ。

カミは、上の精霊である。
そして、それは、タマなのである。

御霊、ミタマと、書く。
精霊の御、尊いものである。

二つの霊格を結びつけて、カミと、命名したのである。

それは、人間と共に存在し、関わり、そして、その中に抱かれて生きるのである。決して、唯一絶対の超越した、存在ではない。

だから、西欧の神という言葉とは、全く異質である。

それが、縄文期の人々の、静かに築き上げた、かみのみち、つまり、生きることである。

生きること、それ自体が、神の道にあるという、観念である。




posted by 天山 at 05:54| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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