2013年03月12日

神仏は妄想である。401

さて、列島先住民について、詳しく書くと、まず、海人族、わだつみ、の人々は、隼人「南九州」安曇族「北九州」肥人「西九州」越人「東日本」蝦夷「東北北部=現アイヌ人系」となる。

いずれも、漁労航海民である。
ただし、蝦夷系は、狩猟魚労民である。

海人族は、弥生時代より、少し前の、高天原族「天孫族」より、一足早く、対馬海流に乗り、九州にやってきた。
それは、東南アジア周辺、インドシナ半島辺りのタイ族、モン・クメール族、インドネシアなどの、航海操船術に長けた海人である。

最初は、入江、河口、湖畔の周辺に住んでいた。
が、安曇族は、後から来た、高天原族に、屈服させられ、彼らの神は、埋没したのである。

ただ、南九州の隼人族は、抵抗し、六世紀、奈良時代のはじめに、平定されている。

次の、山人族は、熊襲「南九州山岳部」土蜘蛛「東九州、山陽と近畿の一部」国ズ「くず=大和南部」その他の山人「東日本」がいて、森林狩猟民。

彼らは、海人族より、古くから列島に土着した。
縄文中期から後期である。

インドネシア、カリマンタン島、マレー半島系などの、系譜に分けられる。

熊襲は、原琉球系と、大隈半島の奥地を拠点にした、ソオ族である。
両者は、別の血流である。

山人系の民は、黒潮本流に乗り、渡ってきた。
奄美、沖縄を含む、南九州以外の、太平洋海岸地域にも上陸した。

更に、前者より、更に古くから列島に存在したのが、縄文人である。
一万二千年前から、二千三百年前である。

ここで、列島が大陸から離されたのが、一万二千年前であるから、列島の最初の民と言う事が出来る。

縄文人とは、考古学的呼称である。

彼らは、多くの遺跡から、山岳地と森林地を拠点にする集団と、海辺に近い地域を拠点にする集団に分けられる。

だが、気候変動や、自然環境により、住む場所を移動したといわれる。

青森県、三内丸山に住んでいた縄文人は、縄文前期中頃から、末にかけて、つまり、5500年前から、4000年前である、約1500年に渡り定住していたのである。

このことから、天津系渡来以前に、何らかの形で、血脈の交流があったのである。

ここで、国津神系の二つの民が、記紀で示される、服従しなかったものと、したものとがある。

わだつみ、やまづみ系である。
だが、それ以前の、縄文人とは、ある時期から、共存共栄していたのである。
だから、縄文期には、争いがなかったという。

海人族を、国津神というより、本来の先住民族である、縄文人を、国津神と呼ぶことである。

このことで、国津神とは、縄文人、海人族、山人族と考えてもよい。

私は、アカデミズムを主にして、考える者ではない。

研究家により、様々な区分けをしているようであるが、それらは、問題の本質ではない。

問題は、弥生系、つまり、天津系、天孫族系と、先住民族系の二つとして、考える。

先住民でも、渡来系の民と混血した人たちは、その神を受け入れた。
それではない人たちは、その神を受け入れない。

渡来系の神を、水の神とし、先住民系を、火の神とする、または、山の神、地の神である。
その中で、日の神は、その中間にあるものとする。

坂口光男死氏は、
森羅万象の霊妙な仕組みに神を感じていた先住民「原初からの縄文人とその系譜」、あるいは「ヒエ、豆類など」根菜「里芋など」に固有信仰をもっていた人々、「中から後期縄文人」が後者の系列です。稲作文明に関わらず、それまでの狩猟採取「鹿、猪、魚、木の実など」や、中期以降の畑作雑穀農耕をベースとしてきた先住縄文系の人々は、居住地を追われて次第に不便な山間部へと移り、その信仰形態を持続させていきました。
現在、彼らの信仰の痕跡としては、チモよりもイモ類を尊重し、正月を含むハレ「祝ったり、めでたい日」の行事の主役になるほか、樹木崇拝、山神信仰、地母信仰、火霊信仰としてわずかに風習をとどめています。
と、言う。

それでは、渡来系の人々は、
稲霊「いなだま」や水の神といった、稲の豊穣につながる神や、海神「常世神」船霊「ふなだま」蛇神「龍神」をも信仰するようになったのは弥生文明の一団と、前者の系統、混血合流の人々によって定着していきますが、こちらのほうが主流となって、後に戦いの神「軍神」を合わせた「弥生神道」として大きく発展し、稲穂神信仰を中心に皇室の中にも取り込まれていきます。この時点で、すでに原初神道はマイナーな存在になり、形骸化されてしまったわけです。
と、述べている。

確かに、そのようである。

私が一番、気になるのは、戦いという、観念を持ち込んだということである。
つまり、それは、歴史的必然であろうか。

弥生時代になると、大和政権に向けて、民族を統合しようとする働きが起こったのである。

流れとしては、これでいい。
ただし、稲作に関しては、縄文の後期に、始まっていることは、考古学として証明されたのである。

別ルートからも、稲作が入ってきたということである。

弥生神道は、渡来系の天津神として、その基盤を確実にした。
それが、皇室を代表する、神道の代名詞となる。

そして、更に、道教、儒教、最後には、仏教の思想も注入され、しまいには、神仏混合という思想に発展する。

それは、歴史的事実である。
否定することは、一切無い。

古代人の信仰・・・
それは、今の言う、現在言われる、信仰とは、違う。
全く別物である。

縄文も、弥生も、現在の信仰とは、区別して考えるのである。

更に、神という概念である。
それも、全く違う。
当時は、神と呼ばないのである。

縄文人の、実感として受け取っていた、森羅万象の霊妙な仕組みを、古神道の、大元であると考えて、更に進む。
それは、実感である。

自然を実感する感覚に、古神道がある。
言葉遊びではない。



posted by 天山 at 01:37| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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