2013年03月08日

天皇陛下について146

三月、尊氏の子である、義あきらが、近江から軍勢を率いて、入京し、東山に陣する。

南朝軍は、男山八幡に退却する。
3月21日、八幡合戦である。

天皇は、その八幡に居られた。

南朝軍は、各地で迎え撃つが、5月11日、支え難いと退却する。

天皇も、行宮を脱出される。
だが、行宮が、取り囲まれたのである。

天皇のお傍には、康長一人である。
その乱戦の中を、駆け抜けられた。

このようなお姿で、疾駆されたのは、124代の天皇の中、後村上天皇お一人である。

この敗走の時、内侍所、ないじしょ、の唐櫃には、13もの矢の跡が残されていたという。

内侍所とは、内侍という役人が奉持していた、賢所、かしこどころ、である。つまり、朝廷の温明殿の中で、天照大御神の御霊代として、模造の神鏡を奉ったところである。

その、内侍が内侍所を、捨てて逃げる程の戦だった。

天皇は、乱戦中、御自ら、神剣を携え、神璽は、馬の鞍にくくりつけられて、賀名生に入られたという。

目の前にした、京都への遷幸は、遂にならなかった。

その後も、両朝の乱戦は、繰り返される。
南朝は、奮わない。

そして、正平21年。
和議がまとまりと、みられたが、南朝側が、京都側がも降参のこと、と、拘った。
しかし、義あきらは、合体を言う。

決裂した。

正平23年3月、天皇は、住吉の行宮で、崩御される。

南北和睦は、これより、24年後の、元中9年、1392年である。
第九十八代、長慶天皇、第九十九代後亀山天皇と続いた時点で、天皇は、
自分はどうでもよろしい。戦は、多くの民を苦しめるだけである・・・
との、仰せである。

時の将軍は、足利義満、尊氏の孫である。
義満は、京へ御戻りの上、三種の神器を後小松天皇にお伝えくだされば、後小松天皇の皇太子には、後亀山天皇の皇子をお立て致しますと、条件を出した。

天皇は、これを、御喜納された。

実際、南朝、北朝と、深い争いがあるわけではなかったのである。
つまり、足利氏の権力、政権をほしいままにすることへの、抗議であった。

元中9年、1392年、10月2日、天皇は、京に還幸され、5日に、後小松天皇に、神器を授けたのである。

第百代後小松天皇の誕生である。

後醍醐天皇が、吉野に潜幸されて、実に、57年目のことである。

だが、義満は、約束を守らなかった。

後亀山法王は、御在世中である。
後小松天皇の、第一皇子が、御位に就かれる。

第百一代、称光天皇である。1412年より、1428年。

約束であれば、後亀山法王の皇子が就くはずだった。

更に、義満は、高倉に開いた幕府を、室町に移した。
室町幕府である。

義満の政治は、専制政治である。
37歳で、将軍職を義持に譲り、強いて、朝廷に請い、太政大臣に上り、まもなく、辞して、出家するが、政治の実権を持ったままである。

その専横ぶりは、比叡山参詣の際に、行列を上皇の御幸に真似て、関白以下の公卿を供に命じた。
世間では、彼を公方と呼ぶようになる。

公方とは、皇室の尊称である。
義満の専横を極めた様が、公方のように見えたのである。

それ以後、将軍の別名となってしまったのである。

室町幕府は、義満から、15代続く。
最期の将軍、義昭まで、二百余年である。

尊氏が征夷大将軍になった時からでは、240年間である。

親子が争い、兄弟が殺し合い、主と従がいがみ合うという、足利の醜悪さ。その果ては、やがて、27万の大軍が11年間に渡って戦う、応仁の乱となる。

応仁の乱の後は、百年続く、戦国時代となってゆく。

南北朝の頃、その戦に付け込んで、各地の守護が力を伸ばした。
公家、寺社の荘園が、彼らによって、奪われたのである。

そして、その国の領主のようになってゆく。
それを守護大名と呼ぶ。

足利氏は、そういう状態を抑えるために、南朝との和睦を計った。

更に、戦国時代になると、守護大名に代わり、戦国大名が主人公となってゆく。
まさに、戦乱の世である。

そして、朝廷の力は、益々、衰えてゆく。



posted by 天山 at 06:09| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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