2013年03月06日

天皇陛下について144

後醍醐天皇の御親政の芽が出た。

しかし、時代は、怒涛である。
建武の中興・・・だが、時機が熟さず。

事実は、武家の力、武家のものの考え方である。
その一人が、足利尊氏である。

結果は、大塔宮、つまり、護良親王が、尊氏の野心を見破り、それを討とうとした。しかし、尊氏がそれを知り、親王に謀反の疑いありと、讒言する。

親王は、鎌倉に送られた。
建武元年、1334年、11月のことである。

翌年、その七月に、北条高時の次男、時行が、信濃の諏訪で挙兵し、破竹の勢いで、武蔵から、鎌倉に迫った。
一方、北条の一族、名越時兼も、北国で挙兵し、越中、能登、加賀の兵を味方に、北陸道を京都に向かう。

時行の軍は、五万。鎌倉奪還を図った。
守るのは、相模守直義である。
だが、敗れる。

成良親王を奉じて、鎌倉を逃げた。

直義は、時行が大塔宮を奉じては大変と、家来に命じ、鎌倉、二階堂が谷に、親王を惨死奉らしめた。
建武二年、7月23日である。親王、28歳。

時行軍は、鎌倉に入る。
父、高時らが滅びてから、二年と、二ヶ月である。

尊氏は、京都にいた。
三河に達した直義より、書状が届く。
時行を討伐いたしたい。ついては、頼朝公の例にならい、征夷大将軍に任ぜられたい・・・

だが、天皇は、お許しにならない。
尊氏は、勅許のないまま、兵を率いて、京都を出て、直義と合体した。
鎌倉に入る前日、時行は、逃げたのである。

実は、その十日前に、尊氏が、征夷大将軍に任じられていたのである。
更に、従二位に叙せられていた。

天皇は、鎌倉に勅使を派遣し、
鎮定誠に喜ばしい。速やかに帰るように・・・
と、命じる。

ここに問題がある。
無断出兵の尊氏を征夷大将軍に任じ、勲功を認めて、勅使を立てたこと。
早くも、朝廷の権威が落ちた。

尊氏は、勅使の命に従わないのである。
つまり、天下を統一したのは、足利家の武威によるもの。再び京都に戻るのは、危険ではないか。公家や、義貞は、しばしば足利に対し、陰謀を企てた事実がある。

兄を説いたのは、弟の直義である。

その冬、自ら、征夷大将軍東国管領と署名し、鎌倉に拠って背き、名目を新田義貞を誅すると称した。

朝廷に対して、義貞の罪状を掲げ、追討の許しをと、願い出た。

これは、無礼である。
ゆえに、兄弟の官位を削り、討伐軍を向ける。

皇子、尊良親王が、上将軍、新田義貞が大将軍として、鎌倉へ。
しかし、敗れて、京都に引き返す。

次は、足利軍の、京都逆襲である。

足利軍は、一時、京都を占領する。
だが、官軍の勇戦で、西に払う。
足利軍は、九州に逃れた。
この時、息の根を止めていれば、歴史は変わったのである。

この尊氏の退陣の際に、持明院統の光厳院、つまり、北朝一代、量仁、かずひと、の、新田義貞を討伐せよ・・・との、院宣を手に入れるための工作をしていたことである。

つまり、度重なる敗戦には、錦の御旗が無かった。朝敵の汚名があるため・・・これでは、駄目だ、院宣を頂き、天下を天皇と天皇の戦いとして、合戦に持ち込むと、考えたのである。

そして、その工作により、院宣を手に入れた。
延元元年、2,月15日である。

これを掲げて、尊氏は、大友、小弐、島津らの大軍と東上する。
あたかも、南朝、北朝の戦いと見せるのである。

楠木正成は、京都に引き込んで、征伐すると考えるが、朝廷が受け入れないのである。

やむなく、官軍は、足利軍を摂津で向かえ討つ。
義貞は、敗れて、京都へ。
正成は、湊川で壮烈な戦いをして、七生報国と、死しても、なお止まぬ一念を残して、自決した。

その二日後、天皇は、比叡に避難される。

足利軍は、京都を占領した。
そして、比叡の官軍を攻める。

尊氏は、光厳院の御弟、豊仁親王を立てて、天皇とする。
北朝二代光明天皇である。
後の世に、光明院となる。
だが、三種の神器の伝えがない。つまり、正当の天皇ではない。

尊氏は、当然それを知る。
そこで、後醍醐天皇に、偽の降参を申し出る。

御近臣の讒言により、お怒りを蒙りました。また義貞らの私情から大乱となりましたが、陛下に対する謀反は、全くありません。どうぞ、京へお帰りください。御近臣に対する怨みも忘れました。官位や領地にも手をつけず、朝廷の政治にも、一切口出ししません・・・

天皇は、結果、京都に戻る。
すると、即座に、花山院に、押し込め奉るのである。

そこで、尊氏は、言う。
神器を光明様に、お伝えください・・・

天皇は、やむなく、偽の神器をお渡しになった。
花山院にて、二ヶ月後、天皇は、姿を変えられて、本物の神器を奉ぜられて、大和の吉野に行かれた。

その吉野院にて、政治を執られる。
だが、それは実質的に、配所である。
わずか、350坪の広さでの、政治である。

それ以外は、すべて北朝の支配下である。

これは、皇室にとって、混乱極まる歴史である。
だが、皇室は、現在も、連綿として続いている。




posted by 天山 at 05:29| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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