2013年03月05日

天皇陛下について143

さて、楠木正成である。

天皇が隠岐に遷される前に、風の如く現れ、賊将湯浅入道の守る赤坂城を奪還し、更に、兵を摂津の住吉から、天王寺あたりまで出して、京都攻撃を匂わせるのである。

それは、作戦。
六波羅勢が攻めると、赤坂へ引く。
そのやり取りである。

一方、正成は、金剛山に千早城を築く。
完成すると、気勢を上げた。
吉野、赤坂、千早の三城は、天下耳目の的となる。

鎌倉は、驚愕する。
北条勢は、大軍を三つの城へ。

赤坂は、陥落。
千早は健在である。

吉野陥落。

大塔の宮、護良親王は、高野山へ。
そこで、村上彦四郎義光の、大演技がある。

親王一向が、遠くに行くのを確認して、大音声で言う。
天照大御神のご子孫、神武天皇より九十六代の帝、後醍醐天皇の第三の皇子護良、いま逆臣がためにここに命を落とす。ただ今わが自害のさま見ておき、汝らが武運のたちまちつきて腹切らん時の手本とせよ・・・

鎧を脱ぎ、投げ落として、袴姿となり、左の脇から、右の脇腹まで、一文字にかききった。

賊は、大塔宮のご自害である・・・
みしるしを賜ろう・・・

それが、身代わりと分かったのは、六波羅の首実験である。

宮は、高野山の後、正成の千早城へ行く。
元弘三年の春である。

千早は、善戦健闘している。
各地で、官軍に応ずる挙兵が相次ぐ。

2月24日、天皇は、密かに、隠岐を脱出された。
お忍びの徒歩である。

28日、名和長年が迎えて、船上山に奉じる。

3月5日、幕府軍は、千早を攻めるが、正成が防ぐ。
12日、赤松則村が、京都、六波羅勢と戦う。
13日、肥後の菊池武時が、挙兵し、九州探題の北条英時と博多で戦い、戦死。

16日、名越高家と、足利高氏が、幕府軍をひいて京都へ。
この時、足利高氏は、北条に見切りをつけて、天皇に帰順の手続きを終えていた。

5月7日、帰順した高氏、赤松らが、六波羅を攻めた。
北条時益は、殺され、北条仲時は、金剛院を奉じて、逃げた。

8日、新田義貞が兵を上野の挙げ、武蔵に侵入した。

新田義貞は、千早城攻撃に加わったが、高時の行為を見て、
義貞は不肖であるが、源氏の一族として名のある家に生まれた。高時の行いは、どう見ても、臣下としての本分を忘れて、無道を極めている。われらは一旦、本国へ戻り、彼を討ち、天皇の御心を安めたてまつろう・・・

その実践だった。
大塔の宮の了解も受けていた。

そこに、各地、越後、甲斐、信濃、更に、下総、常陸、上総、武蔵の兵も加わる。
大軍である。

鎌倉の、北条氏は、仰天した。
戦いは、遠く京都においてと、思っていたのであるが・・・

5月9日、仲時が、近江の番所で自殺。
官軍は、金剛院、後伏見上皇、花園上皇を擁し、護国寺にお遷しした。

22日、義貞勢を向かえ討った北条勢は、破れ、ついに、この日、高時以下、280余名の自殺で、頼朝依頼150年の、鎌倉幕府が滅亡した。

6月1日、新田義貞の使いが、兵庫にて、天皇に戦勝の書を奉る。
2日、楠木正成が、兵庫に、天皇をお迎えする。

この時、天皇は、御簾を高く上げて、正成を近くにお召し、
今日の成功は、ひとえに汝が、忠戦による・・・
と、お言葉を賜る。
正成は、
いいえ、陛下の威霊がございませんでしたら、私とても、重囲を脱することが出来ず、再び、天日を仰ぎ得なかったと存じます・・・

天皇は、正成軍を前駆として、京都にお入りになる。

幕府は、無い。将軍も無い。執権も無い。
武家の手にあった政権が、再び、朝廷に戻ったのである。

この六月、大塔の宮、護良親王が、将軍に任じられた。

まもなく、諸侯への、恩賞決定がなされた。

天皇は、足利高氏を勲功第一とせられ、御名、尊治、たかはる、の、尊を賜り、尊氏と改めさせられた。
武蔵、常陸、下総を与えられ、正三位に叙し、参議に任じられた。

新田義貞は、従五位下、摂津、河内を。
名和長年は、因幡、伯耆を。

奥羽地方は、重要であると、参議、左近衛中将北畠顕家を、陸奥守、むつのかみ、とし、皇子、義良親王、後の後村上天皇を奉じさせ、奥州へ。

顕家の父、親房も同行し、結城宗広と共に、親王をお助けする。

更に、関東は、皇子成長親王を鎌倉に派遣され、鎮めさせられた。
それを助けたのが、尊氏の弟、直義であり、相模守となる。

翌年、建武と改元され、この新政を、建武の中興、という。
当時は、公家一統の政治といった。



posted by 天山 at 05:54| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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