2013年03月01日

タイ・ビルマ戦線6

私に取って、チェンマイの街とは、旧市街地が中心となる。

そこは、お堀に囲まれて、四角になっている。
その周りを道が走る。

旧市街地には、沢山の門があるが、一番好きな門は、ターペー門である。
最初から、その付近のホテル、ゲストハウスを利用した。

現在も、旧市街地にあるホテルを利用する。

そこから出ても、精々、ナイトバザールある、東の方角である。
それだけでも、十分に用が足せるし、不足は無い。

一度だけ、旧市街地の北西に出て、食事をしたことがあるだけ。

レストランなどには、ほとんど入らない。
現地の人たちが利用する、食堂、あるいは、屋台で麺を食べるか、屋台で買って、ホテルの部屋で食べる。

今回は、円安のせいで、一万円が、3000バーツという具合で、大変、きつかった。
だから、現地の値段の三倍掛けると、円になる。

麺一杯、30バーツだと、90円である。

今回は、屋台のおじさんが売る、もち米の焼いたものと、豚、鶏肉の串焼きが、驚くほど安く、毎日利用した。

辻代表も、もち米の焼いたものを美味しいと、毎日食べていた。

それは、あらかじめ、四角にしてあったり、丸くしてあって、軽く焼いてある。それを注文すると、更に焼いて、その屋台独特の味付けをする。

なんと、一つ、5バーツである。15円。
それを二つほど食べると、充分。

串焼きを買っても、全部で、25バーツ程度である。
この安さがたまらなく、いい。

これが、レストランに入ると、0が一つ多くなる。

朝食のアメリカンセットだと、120バーツで、360円。
高いのである、私には。

朝は、タイ風お粥にした。
60バーツ。180円。

地元の食堂で、焼き飯を食べると、50バーツ程度。150円。

バンコクに出て、アラブ料理店で、カレーを頼むと、それはそれは、高い料金になる。
二人で二つのカレーを頼み、ナンを二つ注文すると、400バーツ程度で、1200円。

だが、和食の店は、まだ高いのである。
だから、和食の店には行かない。
行く必要が無い。
日本に帰れば、いくらでも、食べられる。

チェンマイにも、和食の店があるが、価格は、それぞれ、まちまち。
一番安い店で、ラーメンを食べると、70バーツ。210円。

具が多いので、得した気分になるのが、いい。
チャーシュー麺のようなラーメン。

観光ではないので、買い物はしない。
お土産など買ったことも無い。

自分用の、蝋燭や線香などを買う程度。
それも、市場に行く。

更に、果物も、市場で買う。
屋台売りの果物も、安いが・・・
行く度に、清潔になっている、屋台の果物売りである。

チェンマイ市内と、バンコクの下町なら、10バーツで買える。
だが、バンコクも、街中だと、20バーツ。

更に、今回は、バンコクでも、道を一本別にすると、10バーツだったのが、皆々、20バーツに値上がりしていた。

30円と60円では、大きな差である。

ということで、滞在費は、ホテル代が一番多い。
だが・・・
チェンマイのホテルでも、古いホテルを選ぶと、一泊700バーツ程度。2100円。

古いホテルは、設備が壊れていたり、シャワーの出が悪かったりするが、部屋が広いので、それが、いい。

あるいは、ゲストハウスの一番高い部屋で、500バーツ程度。
今回は、次に泊まるゲストハウスを探した。

どんどんと、ゲストハウスが出来ていた。
新しい部屋である。
エアコン付の部屋は、皆、温シャワーがついている。
矢張り、シャワーは温かいのがいい。

出掛けた季節は、丁度、朝夕が涼しい時期で、昼間だけエアコンが必要だった。
昼間の温度は、30度程度である。
真夏である。

バンコクは、もっと、暑い。
外が暑くて、部屋がエアコンで涼しいというのは、本当に贅沢な気分を味わえる。
と、とても単純なことで、楽しいのである。

だが、日本に帰国して、愕然とする。
真冬である。
いきなり、叩かれるような気分になった。

最低気温1度、最高が6度だと・・・
天国から、地獄である。


posted by 天山 at 04:51| タイ・ビルマ戦線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月02日

タイ・ビルマ戦線7

チェンマイでは、日本人の方、三名にお話を伺った。
取材であるが、堅苦しくなくである。

一人は、女性の経営者である。アパレルの会社を起業した方。
そして、長期滞在の男性の方。
更に、男性の起業家である。

タイで仕事をする、意味と意義・・・
タイで暮らすことの、大変さ、楽しさ・・・

タイ人との関わり方・・・
仕事の場面で、日常の場面で・・・

沢山の、お話を伺った。

その様子は、辻代表が、ルポすることになっている。

その中で、私が驚いたタイ社会の、差別の話である。
タイでは、お金持ちが偉いということになっているという。

それが、子供の生活にまでも、浸透している。
いじめの原因も、そこからのもの。

タイには、固定資産税というものか無い。
ゆえに、土地を持つ者は、実に有利である。
それだけで、金持ちになれる。

そして、格差である。
それが、甚だしいのである。

持つ者と、持たない者・・・
それで、対応も変わる。

タイ人の一般的対応についても、学んだ。
タイ人は、怒られる、怒鳴られることを、極端に嫌う。
注意する場合は、一人の時である。

大勢の前で、叱る時は、辞めてもいいと判断した時だと言う。

タイ人を、動かすには、こちらが助けを求めるように、頼むこと。
それだけ、タイ人は、人を助けることを、喜ぶ。

それは、仕事関係でも同じで、従業員に対する対応も、それが主だという。

現在の滞在者は、日本の食料品が簡単に手に入る時代になった。
日本米も、タイで作っているという。

タイでは、醤油から、酒まで作る会社がある。
私も、タイでは、その醤油を使う。

日本人滞在者の色々な団体がある。
しかし、そこが面倒なところでもある。
日本社会の、悪い面が出るらしい。

更には、日本人同士の差別化である。

その団体に入り、しばらくすると、人の悪口、噂話が主になるという。
日本の社会に適応出来ずに、タイに来た人は、そこでも適応出来ないのである。

そのうちに、グループを作る。あるいは、孤立してゆく。

日本人社会そのままである。

更に、金を持つ者の発言権が強くなるという。
タイの風土を受け継ぐようだ。

更に、タイ人を見下す人たち。
人に依存する人たち。

何から何まで、人に依存する人がいるという。
タイ語が出来ない人が、特に、そうである。

二人の起業家の方は、順調に業績を伸ばしている。
男性の起業家は、日本向けの小物を造る会社を興して、成功している。

タイで、起業するのは、それなりの手続きが必要である。
外国人が働くことを、タイ政府は、とても敏感である。
だから、それをしっかりして置かなければ、後々、面倒なことになるのである。

外国人が、道端で物売りをしても、警察が来て、取り調べられ、しっかりとした申請をしていなければ、即座に罰せられる。

成功している人の中には、そのような脇の甘い人たちもいるという。

ただ、彼らは、タイ人を雇い、雇用を生み出しているから、タイにも貢献しているのである。
今年から、最低賃金の法律が出来て、給料をしっかり払うことになった。

アルバイトは、9000バーツほどから、高い人は、3万5千バーツである。
日本円にして、10万の給料は、タイでは、高級取りである。

そうすると、会社を辞めない。
それで、一家の生活を支えることが出来る。
仕事に専念出来る。

今回の取材は、丸一日を費やしたもので、実に充実していた。

ただ、60歳を過ぎた、長期滞在の方は、最後に矢張り、日本に帰りたいと言う。
だが、子供も出来て、帰るに帰られない状況である。

最後は、日本で死にたいようだった。
それが、印象的だ。

三人は、それぞれ、慰霊とボランティア活動も、主催している。
チェンマイにいると、自然に、タイ・ビルマ戦線のことが、分ってくるようだった。

その方たちから、日本を見ると・・・
日本人は、意識を変えるべきだという。
つまり、世界は、動いているということだ。

日本の社会にいては、見えないものを、彼らは、見ているのである。


posted by 天山 at 00:36| タイ・ビルマ戦線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月03日

タイ・ビルマ戦線8

今回の旅は、チェンマイにおける、追悼慰霊と支援活動である。

先にも言ったように、七年目の最初である。
基本に戻る。

追悼慰霊があり、支援活動がある。

当初、英霊と言えば、批判が出来ない、云々・・・という、書き込みなどもあったが・・・
その本人が、何を言いたいのか、分らない。

勿論、私の心の内の問題であるから、世の中に公表する必要は無い。
ただ、支援物資を集めるという意味で、テラの会として、告知することにした。

更に、それでは、追悼の意味として、その戦地のこと、そこから、戦記を紹介することにした。
それが、旅日記である。

過去に行われた、戦争の状態を鑑みる。
それによって、平和を希求する。
祈る。

その行為を、公表する。
知らせることが、大切なことと、思う。

その間に、大震災が起こった。
大変な被害を出した。

そして、慰霊と言う言葉が、普通に使われるようになった。

犠牲になった人たちを、思う。
慰霊である。

死者は、心の内にだけ宿るものではない。
確実に、存在する。

無、という状態に帰するものではない。

宇宙の外に出る以外は、無、という状態にはならないのである。

つまり、死者も存在する。
ただし、それをあえて、議論しない。

その存在があるから、慰霊の意義がある。

更に、その存在が浮遊しているのであれば、なお更に、心に掛けるべきである。

行き場を無くした霊位は、不孝である。
行くべきところに、赴くべきである。

それには、生きる者の力が必要である。

霊位とは、想念であり、思念であるから、生きている者の、想念、思念により、祈りにより、慰め励ますのである。

戦没者の追悼慰霊をはじめてから、その行為に霊的なことが数度、数えるほどあったが・・・それ以上のことはない。

幽霊を見ることもない。
その必要が無いからである。
すでに、その存在を認知しているからだ。

これからも続く、追悼慰霊であるが、旅日記には、戦地と、戦禍を伝えるべく、書き続ける。

国のために、命を賭けるという時代もあるということだ。
そして、そういう時代にしないための、方法も考えることが出来る。

平和は、いつも、創り出すものである。
黙っていては、平和を創りだせないのである。

それを、追悼慰霊によって、知る。

死ぬまで、旅は続く。
そう考えている。

支援活動は、年を取ると、出来なくなるかもしれないが・・・
慰霊は、死ぬまで続けられる。

少しばかり、自分を励ますこともある。
つまり、それは健康である。
健康でさえあれば・・・
いつまでも、続けられるのである。

誰も、逃れられない年齢というもの。
生きる歳月は、どうしようもないもの。
そして、その歳月の内に、亀井勝一郎の言う、
歳月は慈悲を生ず
を、感じたいと思う。

慈悲とは、あはれ、である。

いや、あはれ、の心象風景の、一つである。

もののあはれ
私は、これを生きるべく、生きているらしい。

日本人として・・・
私が日本人である、とは、旅の間に、いつも考えさせられた。

何処から・・・
ジャパンです・・・

私のふるさとは、日本なのである。
そして、多くの戦没者も、日本が、ふるさとである。
その、ふるさとのために、死ぬ覚悟があるか・・・

私は、自分に、いつも問い掛ける。

posted by 天山 at 05:53| タイ・ビルマ戦線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月04日

タイ・ビルマ戦線9

歌詠み

遥かなる 慰霊の旅を 続けては
国を思うと 心養い

風が吹く やさしく吹くよ 風が吹く
異国に眠る 大和魂

やしの木に 思い託して 眠るのは
若き兵士の 大和魂

作詞
カレン村の兵士
チェンマイに向う途中で迷い、カレン村で息絶えた、若き兵士を思う

たった一人で歩いてた
そこが何処かも分らない
力が尽きて横たえた
カレンの村の丘の下

見上げる空は故郷へ
続いていると涙を流す
ここが最期と諦めて
静かに息を引き取った

カレンの古老に見出され
彼はその地に埋められた
時を経ても伝える人
日本の若き兵士が眠ってる

ああ忠烈の兵士の御霊
安らかなれと祈る時
国の平和も共々に
彼の思いが甦る



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2013年03月05日

天皇陛下について143

さて、楠木正成である。

天皇が隠岐に遷される前に、風の如く現れ、賊将湯浅入道の守る赤坂城を奪還し、更に、兵を摂津の住吉から、天王寺あたりまで出して、京都攻撃を匂わせるのである。

それは、作戦。
六波羅勢が攻めると、赤坂へ引く。
そのやり取りである。

一方、正成は、金剛山に千早城を築く。
完成すると、気勢を上げた。
吉野、赤坂、千早の三城は、天下耳目の的となる。

鎌倉は、驚愕する。
北条勢は、大軍を三つの城へ。

赤坂は、陥落。
千早は健在である。

吉野陥落。

大塔の宮、護良親王は、高野山へ。
そこで、村上彦四郎義光の、大演技がある。

親王一向が、遠くに行くのを確認して、大音声で言う。
天照大御神のご子孫、神武天皇より九十六代の帝、後醍醐天皇の第三の皇子護良、いま逆臣がためにここに命を落とす。ただ今わが自害のさま見ておき、汝らが武運のたちまちつきて腹切らん時の手本とせよ・・・

鎧を脱ぎ、投げ落として、袴姿となり、左の脇から、右の脇腹まで、一文字にかききった。

賊は、大塔宮のご自害である・・・
みしるしを賜ろう・・・

それが、身代わりと分かったのは、六波羅の首実験である。

宮は、高野山の後、正成の千早城へ行く。
元弘三年の春である。

千早は、善戦健闘している。
各地で、官軍に応ずる挙兵が相次ぐ。

2月24日、天皇は、密かに、隠岐を脱出された。
お忍びの徒歩である。

28日、名和長年が迎えて、船上山に奉じる。

3月5日、幕府軍は、千早を攻めるが、正成が防ぐ。
12日、赤松則村が、京都、六波羅勢と戦う。
13日、肥後の菊池武時が、挙兵し、九州探題の北条英時と博多で戦い、戦死。

16日、名越高家と、足利高氏が、幕府軍をひいて京都へ。
この時、足利高氏は、北条に見切りをつけて、天皇に帰順の手続きを終えていた。

5月7日、帰順した高氏、赤松らが、六波羅を攻めた。
北条時益は、殺され、北条仲時は、金剛院を奉じて、逃げた。

8日、新田義貞が兵を上野の挙げ、武蔵に侵入した。

新田義貞は、千早城攻撃に加わったが、高時の行為を見て、
義貞は不肖であるが、源氏の一族として名のある家に生まれた。高時の行いは、どう見ても、臣下としての本分を忘れて、無道を極めている。われらは一旦、本国へ戻り、彼を討ち、天皇の御心を安めたてまつろう・・・

その実践だった。
大塔の宮の了解も受けていた。

そこに、各地、越後、甲斐、信濃、更に、下総、常陸、上総、武蔵の兵も加わる。
大軍である。

鎌倉の、北条氏は、仰天した。
戦いは、遠く京都においてと、思っていたのであるが・・・

5月9日、仲時が、近江の番所で自殺。
官軍は、金剛院、後伏見上皇、花園上皇を擁し、護国寺にお遷しした。

22日、義貞勢を向かえ討った北条勢は、破れ、ついに、この日、高時以下、280余名の自殺で、頼朝依頼150年の、鎌倉幕府が滅亡した。

6月1日、新田義貞の使いが、兵庫にて、天皇に戦勝の書を奉る。
2日、楠木正成が、兵庫に、天皇をお迎えする。

この時、天皇は、御簾を高く上げて、正成を近くにお召し、
今日の成功は、ひとえに汝が、忠戦による・・・
と、お言葉を賜る。
正成は、
いいえ、陛下の威霊がございませんでしたら、私とても、重囲を脱することが出来ず、再び、天日を仰ぎ得なかったと存じます・・・

天皇は、正成軍を前駆として、京都にお入りになる。

幕府は、無い。将軍も無い。執権も無い。
武家の手にあった政権が、再び、朝廷に戻ったのである。

この六月、大塔の宮、護良親王が、将軍に任じられた。

まもなく、諸侯への、恩賞決定がなされた。

天皇は、足利高氏を勲功第一とせられ、御名、尊治、たかはる、の、尊を賜り、尊氏と改めさせられた。
武蔵、常陸、下総を与えられ、正三位に叙し、参議に任じられた。

新田義貞は、従五位下、摂津、河内を。
名和長年は、因幡、伯耆を。

奥羽地方は、重要であると、参議、左近衛中将北畠顕家を、陸奥守、むつのかみ、とし、皇子、義良親王、後の後村上天皇を奉じさせ、奥州へ。

顕家の父、親房も同行し、結城宗広と共に、親王をお助けする。

更に、関東は、皇子成長親王を鎌倉に派遣され、鎮めさせられた。
それを助けたのが、尊氏の弟、直義であり、相模守となる。

翌年、建武と改元され、この新政を、建武の中興、という。
当時は、公家一統の政治といった。

posted by 天山 at 05:54| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月06日

天皇陛下について144

後醍醐天皇の御親政の芽が出た。

しかし、時代は、怒涛である。
建武の中興・・・だが、時機が熟さず。

事実は、武家の力、武家のものの考え方である。
その一人が、足利尊氏である。

結果は、大塔宮、つまり、護良親王が、尊氏の野心を見破り、それを討とうとした。しかし、尊氏がそれを知り、親王に謀反の疑いありと、讒言する。

親王は、鎌倉に送られた。
建武元年、1334年、11月のことである。

翌年、その七月に、北条高時の次男、時行が、信濃の諏訪で挙兵し、破竹の勢いで、武蔵から、鎌倉に迫った。
一方、北条の一族、名越時兼も、北国で挙兵し、越中、能登、加賀の兵を味方に、北陸道を京都に向かう。

時行の軍は、五万。鎌倉奪還を図った。
守るのは、相模守直義である。
だが、敗れる。

成良親王を奉じて、鎌倉を逃げた。

直義は、時行が大塔宮を奉じては大変と、家来に命じ、鎌倉、二階堂が谷に、親王を惨死奉らしめた。
建武二年、7月23日である。親王、28歳。

時行軍は、鎌倉に入る。
父、高時らが滅びてから、二年と、二ヶ月である。

尊氏は、京都にいた。
三河に達した直義より、書状が届く。
時行を討伐いたしたい。ついては、頼朝公の例にならい、征夷大将軍に任ぜられたい・・・

だが、天皇は、お許しにならない。
尊氏は、勅許のないまま、兵を率いて、京都を出て、直義と合体した。
鎌倉に入る前日、時行は、逃げたのである。

実は、その十日前に、尊氏が、征夷大将軍に任じられていたのである。
更に、従二位に叙せられていた。

天皇は、鎌倉に勅使を派遣し、
鎮定誠に喜ばしい。速やかに帰るように・・・
と、命じる。

ここに問題がある。
無断出兵の尊氏を征夷大将軍に任じ、勲功を認めて、勅使を立てたこと。
早くも、朝廷の権威が落ちた。

尊氏は、勅使の命に従わないのである。
つまり、天下を統一したのは、足利家の武威によるもの。再び京都に戻るのは、危険ではないか。公家や、義貞は、しばしば足利に対し、陰謀を企てた事実がある。

兄を説いたのは、弟の直義である。

その冬、自ら、征夷大将軍東国管領と署名し、鎌倉に拠って背き、名目を新田義貞を誅すると称した。

朝廷に対して、義貞の罪状を掲げ、追討の許しをと、願い出た。

これは、無礼である。
ゆえに、兄弟の官位を削り、討伐軍を向ける。

皇子、尊良親王が、上将軍、新田義貞が大将軍として、鎌倉へ。
しかし、敗れて、京都に引き返す。

次は、足利軍の、京都逆襲である。

足利軍は、一時、京都を占領する。
だが、官軍の勇戦で、西に払う。
足利軍は、九州に逃れた。
この時、息の根を止めていれば、歴史は変わったのである。

この尊氏の退陣の際に、持明院統の光厳院、つまり、北朝一代、量仁、かずひと、の、新田義貞を討伐せよ・・・との、院宣を手に入れるための工作をしていたことである。

つまり、度重なる敗戦には、錦の御旗が無かった。朝敵の汚名があるため・・・これでは、駄目だ、院宣を頂き、天下を天皇と天皇の戦いとして、合戦に持ち込むと、考えたのである。

そして、その工作により、院宣を手に入れた。
延元元年、2,月15日である。

これを掲げて、尊氏は、大友、小弐、島津らの大軍と東上する。
あたかも、南朝、北朝の戦いと見せるのである。

楠木正成は、京都に引き込んで、征伐すると考えるが、朝廷が受け入れないのである。

やむなく、官軍は、足利軍を摂津で向かえ討つ。
義貞は、敗れて、京都へ。
正成は、湊川で壮烈な戦いをして、七生報国と、死しても、なお止まぬ一念を残して、自決した。

その二日後、天皇は、比叡に避難される。

足利軍は、京都を占領した。
そして、比叡の官軍を攻める。

尊氏は、光厳院の御弟、豊仁親王を立てて、天皇とする。
北朝二代光明天皇である。
後の世に、光明院となる。
だが、三種の神器の伝えがない。つまり、正当の天皇ではない。

尊氏は、当然それを知る。
そこで、後醍醐天皇に、偽の降参を申し出る。

御近臣の讒言により、お怒りを蒙りました。また義貞らの私情から大乱となりましたが、陛下に対する謀反は、全くありません。どうぞ、京へお帰りください。御近臣に対する怨みも忘れました。官位や領地にも手をつけず、朝廷の政治にも、一切口出ししません・・・

天皇は、結果、京都に戻る。
すると、即座に、花山院に、押し込め奉るのである。

そこで、尊氏は、言う。
神器を光明様に、お伝えください・・・

天皇は、やむなく、偽の神器をお渡しになった。
花山院にて、二ヶ月後、天皇は、姿を変えられて、本物の神器を奉ぜられて、大和の吉野に行かれた。

その吉野院にて、政治を執られる。
だが、それは実質的に、配所である。
わずか、350坪の広さでの、政治である。

それ以外は、すべて北朝の支配下である。

これは、皇室にとって、混乱極まる歴史である。
だが、皇室は、現在も、連綿として続いている。


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2013年03月07日

天皇陛下について145

ときに、延元元年、十二月下旬である。1336年。

京都の南方に当たる、吉野朝廷と、尊氏がほしいままに奉じて、政治を執った北の京都朝廷ができた。

公方方の吉野、武家方の京都との、並立である。

57年間、日本全国は、至る所、二派に分かれ、南北いずれかに属して、勢力を争うのである。

南朝の皇居は、吉野の賀名生、摂津の住吉、山城の男山、河内の東条、天野などにも、移る。

57年間、吉野の天皇中心の政治に戻そうとする南朝と、京都の武家中心の政治を進める北朝との戦が続いた。
次第に、北朝が強くなる。

その最初の、後醍醐天皇、吉野遷幸後、二年の間に、南朝方では、尊良親王の自決、尊氏、直義兄弟による、恒良親王、成良親王の毒殺が、そして、北畠顕家、新田義貞の戦死、内大臣吉田定房らの死である。

北朝方では、延元三年、八月尊氏を、征夷大将軍に補していた。
尊氏は、京都に幕府を開き、再び武家政治をはじめるのである。

翌年、延元四年、後醍醐天皇崩御される。
即日、義良親王が、せんそ、される。
第九十七代後村上天皇である。

その村上天皇は、南風競わず、という情勢が続いてゆく。

だが、楠木正成の一子、正行が、俄然頭角を現す。

正平二年、1347年。
兵を出し、紀伊の隅田城を攻めた。
京都では、驚き、即座に兵を向けた。

だが、正行は、紀伊から軍を返し、河内の藤井寺付近で、幕府軍を破る。

幕府からは、援軍が来る。
総勢、六千の軍。
正行軍は、二千である。

11月26日、早朝、正行軍は、奇襲をかけた。
大和川の北側である。

この時、幕府軍は、渡辺の橋からせき落とされ、流れたもの五百余人。
正行は、それをすべて救い上げさせた。
手当てをして、釈放する。

後に、正行が、四条畷で戦った際に、この五百余名が正行軍に属して、いずれも討死している。

その年の暮れ、幕府方は、八万の軍を河内の官軍根拠地を覆そうと、動員した。

正行は、最期の時を感じた。
一族郎党、百四十三人が、吉野の皇居へ。

後村上天皇は、
正行は、わが股肱ぞ、慎んで命を全うして欲しい・・・
と、仰せられた。

一同は、感涙に咽びつつ、先帝の陵に参拝した。
そして、歌詠みをする。

返らじと かねて思へば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる

明けて、正平三年、1348年。正月。
幕府軍二万に、正行軍二千が、四条畷で決戦である。

一族郎党が、ことごとく刃に伏した。

その、25日、天皇は、三種の神器を奉じて、険しい山坂を越え、吉野から、西南方、穴生、あのう、の山中へ、難を遁れた。

幕府軍は、吉野を攻めたが、誰もいない。

穴生の行宮、あんぐう、をも犯すが、逆に官軍に叩かれた。

一年半以上も、攻防が繰り返されたという。

やがて、幕府軍の内紛が始まる。
更に、尊氏、直義の兄弟の対立も激化した。

彼らは、互いに、南朝と結び、相手を倒そうとした。
それが、度重なる、和議に発展する。

正平六年、尊氏と直義の対立は、決定的となった。
直義は、京を脱出し、東国へ。

尊氏は、直義と対決するため、南朝との和睦を考える。

それが成立したのが、正平三年、10月24日である。
これで尊氏は、直義討伐のため、京都を発つ。

そして、崇光院を廃す。
北朝三代目である。
光厳天皇の第一皇子である。

持明院統の光厳、光明、崇光の三上皇と、皇太子直仁親王は、南朝側に引き取られた。
したがって、京都の偽神器は、南朝が納め、天皇は、後村上天皇、御一人ということになる。

南朝は、和睦条件に従い、三上皇と皇太子を河内にお迎えし、更に、賀名生にお移りいただいている。

京都には、天皇がいらっしゃらないのである。

翌年、後村上天皇は、京都に還幸されようとする。
正月、27日、河内の東条に到着される。
28日、住吉へ。

風説がたった。
天皇は、京都を攻める・・・

尊氏の子、義あきらは、自衛のために兵を集める。

天皇は、しかたなく、北畠顕能、楠木正儀らを派遣され、義あきら討伐に踏み切られた。

義あきらは、七条大宮で迎え討ったが、大敗する。


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2013年03月08日

天皇陛下について146

三月、尊氏の子である、義あきらが、近江から軍勢を率いて、入京し、東山に陣する。

南朝軍は、男山八幡に退却する。
3月21日、八幡合戦である。

天皇は、その八幡に居られた。

南朝軍は、各地で迎え撃つが、5月11日、支え難いと退却する。

天皇も、行宮を脱出される。
だが、行宮が、取り囲まれたのである。

天皇のお傍には、康長一人である。
その乱戦の中を、駆け抜けられた。

このようなお姿で、疾駆されたのは、124代の天皇の中、後村上天皇お一人である。

この敗走の時、内侍所、ないじしょ、の唐櫃には、13もの矢の跡が残されていたという。

内侍所とは、内侍という役人が奉持していた、賢所、かしこどころ、である。つまり、朝廷の温明殿の中で、天照大御神の御霊代として、模造の神鏡を奉ったところである。

その、内侍が内侍所を、捨てて逃げる程の戦だった。

天皇は、乱戦中、御自ら、神剣を携え、神璽は、馬の鞍にくくりつけられて、賀名生に入られたという。

目の前にした、京都への遷幸は、遂にならなかった。

その後も、両朝の乱戦は、繰り返される。
南朝は、奮わない。

そして、正平21年。
和議がまとまりと、みられたが、南朝側が、京都側がも降参のこと、と、拘った。
しかし、義あきらは、合体を言う。

決裂した。

正平23年3月、天皇は、住吉の行宮で、崩御される。

南北和睦は、これより、24年後の、元中9年、1392年である。
第九十八代、長慶天皇、第九十九代後亀山天皇と続いた時点で、天皇は、
自分はどうでもよろしい。戦は、多くの民を苦しめるだけである・・・
との、仰せである。

時の将軍は、足利義満、尊氏の孫である。
義満は、京へ御戻りの上、三種の神器を後小松天皇にお伝えくだされば、後小松天皇の皇太子には、後亀山天皇の皇子をお立て致しますと、条件を出した。

天皇は、これを、御喜納された。

実際、南朝、北朝と、深い争いがあるわけではなかったのである。
つまり、足利氏の権力、政権をほしいままにすることへの、抗議であった。

元中9年、1392年、10月2日、天皇は、京に還幸され、5日に、後小松天皇に、神器を授けたのである。

第百代後小松天皇の誕生である。

後醍醐天皇が、吉野に潜幸されて、実に、57年目のことである。

だが、義満は、約束を守らなかった。

後亀山法王は、御在世中である。
後小松天皇の、第一皇子が、御位に就かれる。

第百一代、称光天皇である。1412年より、1428年。

約束であれば、後亀山法王の皇子が就くはずだった。

更に、義満は、高倉に開いた幕府を、室町に移した。
室町幕府である。

義満の政治は、専制政治である。
37歳で、将軍職を義持に譲り、強いて、朝廷に請い、太政大臣に上り、まもなく、辞して、出家するが、政治の実権を持ったままである。

その専横ぶりは、比叡山参詣の際に、行列を上皇の御幸に真似て、関白以下の公卿を供に命じた。
世間では、彼を公方と呼ぶようになる。

公方とは、皇室の尊称である。
義満の専横を極めた様が、公方のように見えたのである。

それ以後、将軍の別名となってしまったのである。

室町幕府は、義満から、15代続く。
最期の将軍、義昭まで、二百余年である。

尊氏が征夷大将軍になった時からでは、240年間である。

親子が争い、兄弟が殺し合い、主と従がいがみ合うという、足利の醜悪さ。その果ては、やがて、27万の大軍が11年間に渡って戦う、応仁の乱となる。

応仁の乱の後は、百年続く、戦国時代となってゆく。

南北朝の頃、その戦に付け込んで、各地の守護が力を伸ばした。
公家、寺社の荘園が、彼らによって、奪われたのである。

そして、その国の領主のようになってゆく。
それを守護大名と呼ぶ。

足利氏は、そういう状態を抑えるために、南朝との和睦を計った。

更に、戦国時代になると、守護大名に代わり、戦国大名が主人公となってゆく。
まさに、戦乱の世である。

そして、朝廷の力は、益々、衰えてゆく。

posted by 天山 at 06:09| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月09日

性について226

口唇リビドーは本質的に自己色情型であり、対象関係を欠いている。
岸田秀

口唇リビドーが主な倒錯は、窃視症、その受動態としての露出症、フェティシズムであるが、対象との直接的関わりを持たない。

口唇リビドーは、もともと純粋で無償のものなのだ。当人は、その口唇リビドーゆえに、対象と距離を置いて、遠くからあがめる形式を必要としているのであって、もし対象が一人の身体的な女として彼の愛を受け容れ、近づいてきたら、彼は、のぞき見しているところを相手に見つかり、・・・困って逃げ出すであろう。
岸田

肛門リビドーも、似ている。
その倒錯形式では、サディズムとマゾヒズムが代表である。

この場合の対象は、単なる道具の位置である。

岸田は、
サディストとマゾヒストから、いじめるのが好きな者といじめられるのが好きな者なのだから、うまくゆくように思われるかもしれないが、実際には、いじめ、いじめられる場面のすじがきの決定権をめぐって凄烈な争いが演じられるのがつねである。どちらも相手を道具の位置に、つまりは糞便の状態におとしめようとしているのだから、この争いには妥協の余地がない。
と、言う。

更に、これらの、自己色情的、半自己色情的リビドーには、その他の色々な妄想がついている。

全能の力をもった物体、突入する視線、男根を持った母親、無限の破壊力をもった男根、すべの精気を吸い尽くす膣、子供を生む肛門、血を吸い肉をかじる口、去勢される男根、男根となった乳房、など。
岸田

快感原則に支配されているこれら倒錯的リビドーのおもむくままに従っていたのでは、対象関係の確立はおぼつかず、それに伴う妄想に引きずられて、現実から遊離せざるを得ない。この点においては、快感原則と現実原則との対立は根本的に解決する方法が見当たらない。
岸田

そこで、自我が登場する。
性器リビドーをして、正常な性交を確立し、妥協策として、正常な性交に、あくまで従属的なものとして、色々な付帯条件をつける。

前性器リビドーを騙しつつ、正常な性交の枠の中に、押し込むのである。

賢いと思う馬鹿ほど、その努力が激しいといえる。
更には、それ、そのものに、興味が無いように、振舞うのである。
つまり、性行為は、二の次で、愛情であると、言い聞かせる。

吸う、咥えるなどの、口唇リビドー、締めるという形を取る、肛門リビドーは、そのまま、男根に対する膣の活動形式として、性器リビドーの中に、組み入れる。
更に、対象の攻撃、支配するという、肛門リビドーも、ある限度内であれば、女を獲得し、支配するという、男の正常な性行動の一つとなりえる。

何とか、正常に近づく性行為である。

しかし、前性器リビドーが強すぎると、それを抱え込むための妥協策が、正常な性交をくずすことになる。
岸田

前性器リビドーとは、幼児期における、リビドー興奮の体験の多少によって決まるものである。

口唇リビドーが主を占める倒錯は、圧倒的に男に多い。それは、異性である母親に世話されることによるという、説がある。

女の子より、多く、リビドーの興奮を味わうというのである。

性行為の主は、自我である。
結果的に、リビドーの満足の、最終的形式を決定するのは、自我である。

当人の自我がある倒錯形式に固執し、それをリビドーの満足を得る最善の形式であると信じている限り、はたの者はどうしようもない。自我は、性格をも決定するので、当然のことながら、性格と倒錯形式とは密接な関係がある。
岸田

と、ここで、それでは、あらゆる性欲を感じないという者の場合は、どうなのか・・・
そういう人間もいる。

特に、女に多いが、男にもいる。

上記の方法で言えば、自我が問題である。
性的満足を必要としないのか、倒錯以上の倒錯を抱えているのか・・・

不感症、冷感症・・・
これは、倒錯以上に困難な問題である。

女の場合は、精神分析が大きな効果を期待できるが、男の場合は、もっと困難な問題になる。

現在、そういう男が増えているというから、更に、問題である。
リビドーの刺激が、極端に少ない、低いからか・・・

更には、射精する感覚に、嫌悪するというものである。
それは、もう、脳内の異常というしかない。
性欲を司る脳内の部分が、破壊されている。
それは、つまり、他の部位にも大きな影響を与えていると、考える。

人間ではない、生き物。

これは、例外中の例外である。
ただ、男に性行為を嫌悪するという、現代の中の何処かに、問題があると思える。

勿論、社会的に、個人の問題であるから、事件などになることはないが・・・
何かかが、狂っているのである。

それも、一つの進化であるとは、言い難い。
脳の異常であると、見た方が真っ当である。

posted by 天山 at 07:21| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月10日

性について227

自我は、同時に、性格をも決定するので、当然のことながら、性格と倒錯形式とは密接な関係がある。つねに対象をおいてきぼりにする自己色情的なリビドーを主流とする倒錯形式をもつ者は、対人関係においても相手のことはどうでもよく、自分にしか関心のない手前勝手な者である。しかし、この逆は必ずしも真ではなく、正常な性交が可能な者が、相手への理解と思いやりにもとづく対象関係を確立した者であるとは必ずしも言えない。
岸田

正常な性交にも、色々なリビドーが参加し得る。
膣を使った、マスターベーションという事態もある。

自分でするより、一応は、相手の女とつながるが、相手を無視する点では、倒錯である。

岸田が強調するのは、
人間におけるエロスの発達は、格別の邪魔さえはいらなければ自動的に自然に進んでゆく過程ではなくて、われわれの自我がいわば人為的に達成しなければならないものである。そこには自然によってあらかじめ定められている予定のコースはない。
と、言うことになる。

リビドーの満足の最終的形式は、正常、異常に関わらず、すべて各人の自我の人工的構築物である、という結論である。

単なる、欲望を満たすという行為にも、結果は、自我の人工的構築物ということになるのである。

しかし、ここで言う、正常、異常という言葉も、本来は、意味が無い。
正常、異常ではなく、人それぞれという言い方になるのである。

社会的に逸脱した場合、異常と言われる。

そして、岸田も、エロスの対にある、タナトスについて触れている。
このタナトス、死への思い・・・
死の願望とか、希求とか、衝動とか、言われるが・・・

それも、それぞれの、リビドーにより、変化するのである。
エロスを語るのであれば、タナトスについて、触れる必要が、矢張りあるのだ。

また、長い旅が始まる。

フロイトは、死の衝動を提唱する際、衝動を定義して、過去の状態の再現をめざす傾向であると言ったが、この定義がすでに、衝動と本能との相違を明確に語っている。
岸田

更に、岸田は、フロイトの定義は、
動物の本能とは異なったところの人間の衝動についての定義であり、いわば、人間における動物的本能の歪みを表している。
と、言う。

色々な説明が語られるが、結果は、フロイトの定義の仮説は、本当についてではない。過去の状態を再現しようと求める衝動についての、仮説である。

その性質は、動物の本能には、存在しないのである。

過去を再現するとか、死の衝動とかを、人間以外の動物は、持たないのである。

フロイトが、本能と区別して呼んだ、衝動という言葉を、岸田は、欲望に置き換えるという。
確かに、衝動は、本能を思わせる。
それは、本能ではなく、人間の欲望であると、言った方が、すっきりとする。

何故、人間の欲望は、過去を再現するという性質を持つにいたったのか・・・

その欲望がかつて挫折した欲望であるかぎりにおいてである。
岸田

その理由は、
人類が、自己保存のためにせよ種族保存のためにせよ、その目的に役立つ本能的行動様式を失ってしまったことに起因するが・・・
と、ある。

本能的行動様式を失ってしまったとき、人間の本能は、欲望に変質したという、意見であるが・・・

更に、自己保存本能は、ナルチシズムに変質し、性本能は、エロティシズムに変質したという。

そして、欲望は、本能的形式と切り離されたため、自然の現実的諸条件と対応しておらず、したがって、挫折することが、欲望の運命となった。

動物の本能が、挫折した場合は、完全に個体、そして、種の滅亡である。
そして、人間の、欲望は、動物の本能のように、完全な満足は、有り得ない。

更に、満足させた場合も、それは、部分的、代理的満足に過ぎない。
厳密に言うと、挫折である。

頭の中で、考え得る限りの、思考であると、思える。
これが、分析である。

これは、基本には、動物の本能の満足を、是としている、考え方である。
人間は、何故、そのようにならなかったのか・・・

それは、大脳化であると、私は言う。
だが、岸田の思考に敬意を表して、続ける。

この分析により、人間が、より欲望を満たすことが出来る形式を作り出せるとは、全く考えない。

学者の言葉遊びである。

更に、時代は、益々と混乱して、本能も無く、欲望も希薄になり・・・
性は、何処へ向かっているのだろうか。

無性という、人種も現れて、それを心理学が、どのように分析するのか、楽しみである。

無性とは、男でも、女でも無いという。
勿論、生物学的には、体は、男でも、女でも、である。

ところが、彼らは、性が無いというのである。
これは、最大の倒錯であろう。

posted by 天山 at 01:57| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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