2013年02月21日

国を愛して何が悪い52

1926年7月7日、ソビエトから膨大な物資援助を受けていた蒋介石は、今なお、軍閥の支配下にある、中国北部のために、民族主義軍隊を進攻させた。

北部中国の農村部には、一種の農地改革の波が渦巻き、共産主義者と、民族主義者の同盟を危うくしつつあった。

当時、上海では、労働組合は、軍隊の接近にともない、ゼネストを打ち出した。周恩来を含む共産主義者は、民族主義者軍隊が入城してくるのを見越して、蜂起を呼びかけた。だが、軍隊の入城は起こらなかった。

その蜂起は失敗し、スト参加者は、李宝章将軍により、残忍な弾圧をうけた。

将軍が介入すると確信していた民族主義軍の一個師団が上海に入り、蒋介石も入った。

スターリンが、蒋介石と、彼の軍隊の政策の、反帝国主義的姿勢に欺かれて、三月末に武器を放棄し、国民党との共同戦線の維持だけに留めるように、共産党に命令する。

そこで、蒋介石は、反共クーデターを起こして、共産主義者は、追い払われた。

だがスターリンは、即座に政策を変更し、反対派からの、批判の前に面子を失うまいとして、国民党との同盟を破棄した後、蜂起への動きを再び立ち上げるために、二人の密使を派遣する。

だが、二人によって、演出された「秋の収穫期の反乱」の失敗にも関わらず、反対派メンバーを排除することになる、ボリシェヴィキ党の第十五回大会が開催される瞬間に、指導者スターリンに勝利の報告書を提出すめため、広東で蜂起を開始させるまで、粘ったのである。

この策動は、多くのボリシェヴィキが、自分の側の党員も含め、一切の人命に対し、どの程度の軽蔑を抱くようになっていたかを示すものである。

自己の支持者の生命まで何とも思わない当時はまだ新しい現象だったが、無分別といってもいい広東コミューンは、その点を遺憾なく証明している。しかしこれは本質においては、数年前のブルガリアのテロリスト的行動とほとんど変わるところがない。
共産主義黒書

何が行われたのか・・・

数千の蜂起参加者に対して、その五、六倍の軍隊が、48時間対決したのである。

蜂起参加者は、イニシアチブの点では恵まれていた。しかし、ソビエト共和国の樹立は、住民の間に、何の反響も起こさなかった。
そして、国民党が、反撃に転じて、赤旗は、国民党の手に奪われた。
弾圧は、野蛮きわまるもので、殺された者は、数千人にのぼったのである。

黒書では、
コミンテルンはこのような経験から教訓を引き出すべきだったが、この本質的な政治問題に直面することはコミンテルンには不可能だった。共産党幹部のあいだに内戦文化が浸透していることを示す言葉遣いで、すべてに向け、またすべての失敗にもかかわらず、暴力の行使がまたしても正当化されたのである。
と、ある。

そして、次の自己批判である。
反革命分子を一掃するためにわれわれは十分働いたとはいえない。広東が蜂起分子の手にあった全期間のあいだに、殺したのはわずか100名に過ぎなかった。反動分子にたいする闘争委員会は、規則通り裁判にかけた後でなければ、全拘留者を殺すことができなかった。闘争のさなかでは、これはあまりにも遅すぎる手続きである。

このような、教訓となったのである。

中国の共産主義者にあっては、革命とは、何よりもまず、軍事機構の政治機能を制度化する軍事問題となった。

毛沢東が、権力は銃剣がつくりだすという、定式に要約するとおりである。

以後の展開は、この定式に則り、収奪と維持にかかわる、共産主義的な見方の本質となる。

ここで、一旦、元に戻り、続ける。

第一次大戦後、1919年のパリ講和会議にて、日本は世界で、はじめて、人種差別撤廃を強く提案した。

だが、過半数の賛成を得たにも関わらず、議長のアメリカ大統領、ウィルソンは、イギリスと組んで、このような重要決定は、全員一致が必要であると、否決したのである。

この提案が可決されれば、植民地を多く持つ白人列強に、都合が悪いからである。

更に、米英は、ワシントン会議を開き、海軍主力艦隊総数を、米5、英5、日本3、に決めた。

この不平等は、ロンドン会議にも、及んだ。
つまり、米英は、日本の軍事力を抑えて、日本との開戦に備えたのである。

すでに、日本と開戦することを、確認していたのである。

これで、今までの、大東亜戦争の、成り行きが覆る。
あたかも、日本が宣戦布告し、無謀な戦争に突入したかのように、言われたが、違う。

証拠は、満州に狙いを定めたアメリカである。
アジア大陸に残るのは、満州のみとなっていた。他は、英仏などの白人先進国に、大半が占領されていたのである。

満州には、日論戦争以来の利権があり、すでに五族協和を理想とする、満州国が成立していた。

だが、アメリカは、満州から日本を追い出すために、利権をその手中に収めようとして、次から次へと、日本叩きをはじめるのである。

日本を挑発し続けたのである。

当時の中国の要所は、英仏独、ロシアに侵食されていた。
もし、日本の力がなければ、満州も、朝鮮も、白人傘下に入っていたのである。

朝鮮半島、満州に日本が進出したのは、白人のアジア侵略を防ぎ、巻き返すための、当然の結果だった。

白人国は、植民地拡大であるが、日本の進出は、近隣諸国を自衛するためである。

ここが、敗戦後の、学者、識者たちの、大きな誤りである。

日本は、植民地主義の国ではなかったのである。
当然の、防衛であった。

その、防衛が、白人の先進国の、植民地政策と同じように、解釈されたのである。
要するに、思考法が無かった。軽薄だった。




posted by 天山 at 06:27| 国を愛して何が悪い2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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