2013年01月28日

性について225

正常な性交の有用性の根拠の一つである種族保存の目的は、むしろ、まれな場合にしか追求されない。この点では、正常な性交のほとんどが、性倒錯と同じく、純粋に無償の遊びである。
岸田秀

その通りと言うしかない。
正常な性交が、すべて生殖を目指している性行為ではないのである。
つまり、それらも、倒錯である。

人間の性は、おおむね、純粋に無償の遊びに近いといえる。

ある精神科医は、言う。
性行為は、日々の夫婦関係の情緒的な関係であり、それは、心の豊かさを得る行為である、と。

何と言っても、生殖の伴わない性行為が、異常とすると、それも、異常になる。

今時、もう、妊娠を目的とした、性行為は、限られた人による。

日本に、フリーセックスという言葉が生まれた時代から、すでに、その異常の世界の性を享受しているのである。

それは、性倒錯に他ならないと、岸田は言う。

性器リビドーも前性器リビドーも、不自然であるという点では同じであり、個人がどの形式によってそのリビドーを満足させようが、それは個人の問題であり、自然に反するという根拠にもとづく性倒錯者への非難や軽蔑は正当ではない。
岸田

大体、人間の性は、最初から、自然に反しているという考え方であるから、当然である。

性を支配する者は、人間を支配する。
この、自然に反する云々とは、多く、キリスト教の世界で、言われることである。
西洋の性に関する考察は、すべて、その教会の考え方が、主たるものである。

更に、一夫一婦制も、正常ではなかったのである。
一夫多妻である。

それも、教会により、一夫一婦制となった。
一体、誰の差し金か・・・

ユダヤ教から離れた、キリスト教、カトリックの教義による。

モーゼの十戒に、姦淫するなとあるのは、他人の物を盗むなという意味で、他人の女を盗むなという意味の、姦淫である。

つまり、女は、男の所有物だった。
それが、父系社会の到来を告げたのである。

産めよ増やせよ地に満ちよ・・・
旧約聖書の神の言葉である。

要するに、女は、子供を産むための、モノだった。

それが、正常だった、時代がある。

正常な性交と妊娠とはほとんど切り離された。人間のエロスの、この点に関する快感原則と現実原則との対立はほとんど解消された。現実原則が快感原則に歩み寄ったのである。
岸田

ということで、時代は、その先を行く。

性の快楽における、正常、異常の垣根が、ぎりぎりと近くづくのである。
快感原則に歩み寄るということは、そういうことである。

ここで、私は、快感ではなく、快楽という言葉を使う。
この快楽は、実は、人間を生かしているものとの、意識を言う。

勿論、セックスを嫌うという、快楽のこともである。

あらゆる性の形があって、当然であるという、意識である。
そういう、時代性になった。

心理学者が、色々と分析するのは、単なる、暇つぶしになるのである。
最初から、倒錯しているものを・・・今更・・・分析するという。

次の問題は、個人が求める性のあり方に対して、どのようにしたら、スムーズに事が進むか、である。
専門家は、それを助ける役目である。

治療ではない。
個人が求める、性の在り様を、如何に、スムーズにして上げられるのかということ。

ただし、ここで、社会性という問題がある。
何でも、許すことは、出来ない。
社会が容認する範囲での、性の形である。

犯罪として、成り立つ、幼児性愛、児童買春などは、反社会的行為である。
更に、暴力、レイプ・・・

幼児性愛も、個人的に勝手に、マスターベーションの範囲で楽しむのは、問題がない。
その枠を超えない、性的遊戯である。

更に、問題は、その対象関係であると、岸田は言う。
それについて、少し、見てゆくことにする。

それぞれの、リビドーによる、倒錯の様子が伺える。
そして、それには、対象が必要となる。

前性器リビドーが、大きな比重を占める。
それは、口唇リビドー、肛門リビドー、男根リビドーである。
それぞれに、倒錯の種がある。
とはいえ、倒錯・・・という言葉を使うのである。

倒錯というより、傾向と命名した方が、無難だと思うが・・・
すると、傾向と対策という形式に移れると思うが・・・

兎に角、正常というものも、幻想であるということだ。
正常というものは、どこを探しても、無いのである。




posted by 天山 at 00:02| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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