2013年01月27日

性について224

本能とは、そもそも生体の適応に役立つものである。・・・
つまり、動物の本能は現実原則に従っている。本能のおもむくままに行動することが快感であるとすれば、動物においては快感原則と現実原則とのあいだに対立はないと言った方がいいかもしれない。
岸田秀

ところが人間においては、エスの本能的衝動のおもむくままに従うと不適応になる。人間の本能は現実と接触を失っており、本能の機能を果たさない。本能の代わりに自我がその機能を果たさなければならない。
岸田秀

そして、自我は、それに引きずられれば、不適応になってしまう、エスの衝動を抑圧しなければならない、と言う。

これが、問題である。
つまり、快感原則と、現実原則の対立である。

更に、
この対立、ひいては抑圧の必要性の原因を社会ないし文化のなかに求め、抑圧的文化の廃棄によって解消できると考えたのが、いわゆるユートピア思想である。
しかし、抑圧的文化の結果として快感原則と現実原則の対立が生じたのではなく、この対立があるために人間は文化というものをつくりあげたと考えられるのである。
岸田

そして、それがそうだとすると、抑圧的文化は、足萎えの松葉杖であり、ユートピア思想は、松葉杖を捨てさえすれば、足萎えは、治るという、誤った判断の上に立つとの説明である。

人間は、最初から、この対立を生きていた。
この対立は、性欲の出現と性器の成熟との間に、年月のズレがあるという、人間には、特有の生物学的条件に由来している。

岸田は、
文化的条件の変革によってはどうにもならないと思われる。
と、言う。

もう少し説明すると、前性器リビドーは、快感原則にのみ基づき、原始的的有用性とは、無縁で、純粋に、無償のものである。
完全に遊びのエロスである。

それを、現実的有用性をもつ、正常な性交の中に押し込めるためには、自我の強引な介入が必要であると、言う。

人間の性的行為は、最初から、正常ではないのである。
最初から、曖昧で、倒錯全開だったのだ。

幼児期の性欲傾向を見れば、一目瞭然である。
すべての倒錯性欲を持つのである。

権力、権威によって、人間の正常な性欲と、性交が、教えられたと、考えてもいい。

本来、エロスにタブーは、存在しないということだ。

定説などというものは、無いのである。

現実的有用性を持つ、正常な性交・・・
実は、そんなものは、無い。
ただ、生殖のみ、現実的である。

生殖を伴う性行為のみ、正常とすれば・・・
多くの人の性行為は、正常ではない。
本来は・・・

自我の強力な介入により、それを行為しようとする。

完全な遊び・・・
性行為が、完全な遊びなのである。
だから、社会的権力、権威が、その行為を定めて、それに沿うようにと、自我が働く。

女が、男に遊ばれた・・・
当然である。
本来は、性行為は、そして、性欲は、遊びなのである。
それで、女が妊娠したならば、儲けものである。と、考えられるか・・・

結局、女が損をするという、考え方に陥る。
ところが、今、時代は、女が妊娠してしまえば、儲けもの、と考えられるようになってきた。
種さえ、得られれば、男は、必要無しである。

古代、その子の父が、誰であるか・・・
女のみしか知らない。
母系である。
それが、父系社会に陥ると、性行為が、決定されることになってゆく。

更には、女、蔑視である。
何故か・・・
女には、叶わないからである。

子をもうけなければ、男は、ただの孤独な一人である。
父と子という、つながりに、託す思い・・・
父系社会の成り立ちである。

おおよそ、それが、五千年に渡り続いている。

さて、
わたしはライヒのように正常な性交を絶対視する考え方には組しない。
と、岸田は言う。

性倒錯は不自然であるから否定すべきだという考え方は取らない。・・・
正常な性交も不自然だからである。
岸田

心理学者ならば、当然、そのような考え方になるはずであるが・・・
多くの、心理学者は、正常を取る。
そして、その正常とは、統計である。

精神疾患における、正常、異常の問題ではないのである。
ここからが、重大である。



posted by 天山 at 06:23| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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