2013年01月23日

神仏は妄想である。398

あまり、批判する値打ちは無いが、教派神道にもう少し触れる。

金光、天理、大本教などは、神憑りという状態によってなった。
神というより、霊憑りであるが・・・

幕末の混乱期に、それらは、起きた。

一応に言えることは、貧農、昔からの、特別な地域の意味がない場所。
長い、苦悩の中で生きていた人。
特に、女性たちは、嫁になると、嫁いだ家に生涯を捧げる。
家に仕えるのである。

天理教の、中山みき、という人は、そんな中で、神憑りを起こした。
たまたま、息子の足痛、夫の眼病などの、祈祷を頼み、行者が護摩を焚いて、陀羅尼を唱える時の、加持台という役を、代理で務めた際に、みきが急変した。

神の座に、加持台という神がかりに入らせる、巫女を置き、巫女にかかる神や霊との会話で問答し、どういうものが憑いているのかを見分け、それに応じた祈祷を修めて、鎮め、退散させるというもの。

最も古い、資料から見ると、どなたですかという問いに、みきは、大神宮なり、天の将軍と、答えたという。

これで解る通り、大神宮とは。伊勢神宮のことであり、将軍とは、徳川将軍に対するものである。
とても、神とは、思えない答えである。

更に、三千世界を助くべし・・・と言う。
三千世界とは、仏教の世界観である。

その神は、いや、霊は、家族に、みきを社に貰いたいと言う。もし、駄目ならば、家を断絶させるという。
脅しである。
当時、家の断絶は、致命的なことである。

家にすべての価値を置いていた、封建時代である。

夫、善兵衛が、差し上げますと言うと、一時、静まったという。
最初に、みきの神、霊を拝んだのが、夫である。

その後、みきは、始終、ゆらゆらと体が揺れて、夜になると、様々な神が罹ったという。

面白いのは、その後、てんりんおう、つまり、仏教の転輪王という、大和の浄土宗寺院、山伏寺での、十王の一つを名乗るのである。

元々、みきは、浄土宗の熱心な信者だった。

それが、憑いたと思い込んだのであるが、後に、てんりおう、と変更する。
更に驚きは、なむ、てんりおう、と、唱えたのである。

ナムは、仏教の帰依であり、後で更に変更して、神道系にするため、あしきをはろうて、たすけたまえ、てんりおうのみこと、と、唱えるようになる。
天理になるという。天理王である。

これを結論から言うと、創造の病、という。

その、みきの症状を分析した、治療文化論の、中井久夫氏の、解説から・・・

これは発病であろうか。ある意味ではそうかもしれないが、同時に解消「解決」ではないか。彼女の伝記で宣言のくだりを読むと、暗鬱な雲が吹き払われて、明るい天地が眼前に開けた印象を持つ。バリトン流に言えば、一人過程が終わって二人過程が始まる転回点である。バリトンにあっては別ものだった創造と病いとは、ここでは統合されて「創造の病」となっている。
中井

解消というのは、実に明確である。
みきは、嫁から離れて、つまり、そのすべての束縛から離れて、神という自由を得たのである。

勿論、本人は、当初、それに悩んだという。

普通なら、座敷牢に入れられた。
今日では、患者収容車が呼ばれる。

そして、その何も意味の無かった土地一体に対して、ここが、万人の実家であり、人類発祥の地であり「おやさと」であるという。
世の終わりに、天から、甘露が降る・・・

ミキは最晩年は活動的であり、機転が利き、洞察力が強く、入獄した際に明らかになったように、威厳は明治の官員を畏怖せしめるに十分であった。いずれにせよ精神科医が欠陥と呼ぶ状態、平坦化と呼ぶものとは遠い。
中井

ところが、それが狂いの状態なのである。
狂うと、大きく狂う者を飲み込む。

現代でも、そういう事例が多々ある。
我は、普賢菩薩である、と、突然に名乗り、家族を驚かせる。
しかし、しかるべき、療法をもって、以前に戻るのである。
その際に、必要なことは、周囲の人間関係である。

みきの場合も、家族が、良かったのである。
みきの、霊の指令に従ったのである。

病者を病者としてではなく、以前のままに扱うのである。
それが、現代では、治療へと、だが、その当時は、従うこと以外に方法が無い。

それは、当時、神憑る者たちの共通のものだった。

大本教になると、天理教の倍の強さになる。
何せ、出口ナオの神憑りと、その婿に入った、王仁三郎の、誇大妄想が激しかったのである。
古神道を名乗るが、復古神道からの文献を利用しての、古神道であり、言霊に関しても、復古神道によるものからである。

「創造の病」はその提唱者によれば、抑うつや心気症状が先行し、「病い」を通過して、何か新しいものをつかんだという感じとそれを世に告知したいという心の動きと、確信に満ちた外向的性格という人格変容を来たす過程である。
中井

興味深いのは、「創造の病い」が通常の疾病分類に入りえないことである。フェヒナーはうつ病だそうであり、フロイトは神経症、ユングはほとんど分裂病に近かったであろう。ウェーバーは何と肺炎に起因する症候性精神病である。おそらく、分裂病・うつ病と推定された人も含めて、多少の意識混濁あるいは意識変容が必要なのであろう。
「創造の病い」においては何らかの形の意識混濁あるいは変容が伴うと私は思うのだが、その理由は、それなくしては、過去と現在と未来とが一望の下に見えるような、そして、その中で、創造的に仕事の条件である「思いがけないものの結合」が起こらないからであろう。
中井

生きるに、疲れ果てた人が、時に陥る病である。
それが、創造の病と、思われる。

教派神道の場合は、成功例であるが、失敗例の方が、圧倒的に多いのである。

だが、神道の大本は、全く別物である。
意識混濁も、意識変容も必要無い。

極めて、健全な意識である。
更に、神憑り、いや、霊憑りになる必要は無い。

ただ、怖いことは、長年に渡り、天理王のみこと、という、人の信仰により、生まれる想念の塊である。
それを幻視することになると、危うい。

中山みきの、唯一の救いは、意識混濁、意識変容という、狂いに関わらず、他者に施しを行ったことである。
そして、家屋敷を施すほどの狂いであったということである。
他者から、奪うことがなかったということだ。

だが、その後の天理教は、搾取の宗教として、存続している。




posted by 天山 at 05:55| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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