2013年01月22日

天皇陛下について142

ここで、楠木正成の登場である。

天皇にお召しを受けた。
正成は、河内観心寺領の、土豪である。

忍んで、天皇の下に行き、
どれほど賊軍が強くとも、謀をもってすれば、撃破することは、困難ではありません。しかし、勝敗は戦の習いです。たまたま敗れることがございましょうが、決してご心配されませんように。どうか、正成が一人、まだ生きているとお聞きであれば、ご運は開けるものとおぼしめしください。
との、言葉である。

正成は、すぐに河内に向かい、城を赤坂に築いて、天皇をお迎えする準備である。

後伏見上皇の院宣を以って、皇太子量仁親王、践ソあらせられる。
践ソとは、天皇の座に就くことである。

天皇が、都を出ると、北条高時が打った手が、北朝の光厳院である。

官軍は、奮闘したが、北条軍は、20余万である。
総攻撃である。
そして、山道が察知された。
山上に放火され、敗戦である。

城は、一ヶ月の命だった。
天皇は、徒歩で逃避行される。
そして、ようやく、山城国、有王山の麓に辿りつく。

その際の、御製である。
さしてゆく 笠置の山を 出でしより あめが下には かくれ家もなし

お供の、万里小路藤房の歌
いかにせん 頼むかげとて 立ち寄れば なほ袖ぬらす 松の下露

まもなく、賊兵に発見され、天皇を張り輿に乗せ奉り、宇治の平等院へ、お連れする。

その後、六波羅に移動される。

この時、天皇は、ご乱髪、一枚の小袖、一枚の帷子をお召しであった。
さすがの、六波羅の者どもも驚き、急ぎ、御衣をまいらせた。

神器を光厳院にお渡し下さいませ・・・

神器がなければ、ご即位ができないのである。
やむなく、剣をお授けになる。
だが、これが、偽物。
本物は、肌身に、お傍から、離さない。

さて、楠木正成である。
笠置を落とした幕府軍は、赤坂城に押し寄せる。

楠木軍の奮闘の甲斐なく落ちる。

正成は、戦死を装い、地下に潜った。
更に、大塔の宮も、奈良に潜行され、般若寺に。

だが、賊兵に踏み込まれる。
兎に角、その手を逃れて、熊野落ちである。

元弘元年、1331年12月。
幕府は、戦後処理を考える。

結果、天皇は、隠岐へ。尊良親王は、土佐へ、尊澄親王は、讃岐へ遷し奉ることになった。

翌年、太平記には、
春正月、六波羅の南方に在す。北条高時、天皇を説得して、剃髪することを求める。よって、僧衣を献上するが、天皇は、これを退ける。
現代語訳は、私。

後醍醐天皇は、それでも、毎日髪を洗い、体を洗って、宮中において賢所を御参拝になるように、囚われの身になっても、皇祖神霊を礼拝なさる。

その年、3月、天皇を、隠岐に遷し奉る。

この時、備前の児島高徳が、天皇奪還を企てるが、失敗する。

京を発して、20日余り、4月上旬、天皇は隠岐に。
承久の変の、後鳥羽上皇の境涯を、追体験されたのである。

幕府は、4月上旬に、謀に加わった者たちの処分を決めた。
それについては、省略する。

元弘の変は、幕を閉じた。

さて、大塔宮である。
熊野落ちは危ういと、大和の十津川へ、逆送していた。
土地の土豪の庇護を受ける。
その間に、還俗して、名を、護良、もりなが、と改める。

しかし、危険が迫る。
そこから、吉野に向かい、挙兵するのである。




posted by 天山 at 05:45| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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