2013年01月21日

天皇陛下について141

花園天皇末期、鎌倉幕府は、北条高時である。
幕府は、乱れた。

高時は、健犬好きで、それが高じて、犬に錦の着物を着せて、駕籠に乗せて歩かせた。
このことで、幕府の状況が理解できるというもの。

執権は、人望を失い、幕府は、衰えた。

そこで、天子は万民を救うことにある。
神武天皇以来、天皇の仕事は、これに尽きる。

花園天皇が、復古を考えて不思議ではない。

まず、その第一が、院政を廃止することだった。
後宇多法王が、院政を執られていた。
だが、天皇の英邁さ、そして、お年も、34歳である。

白河法皇以来の、230余年あまりの院政が、まったく廃止されることになる。

更に、天皇は、後三条天皇の際に置かれた、記録所を再興され、出られて、政をみられた。

倒幕は、この後である。

ご即位、六年目、1324年。
近臣日野資朝が、山伏姿で、関東へ。
日野俊基は、修験者姿で、紀州の温泉へと称して、京都を出て大和、河内方面の武士を訪ねる。

後に、南朝一の忠臣といわれた、楠木正成との接触もあった。

まっさきに京に上ったのは、美濃の豪族、土岐頼兼、多治見国長だが、それが、六波羅探題に漏れた。
二人は、襲撃を受けて、惨殺された。

更に、資朝、俊基も、捕らわれた。
資朝は、首謀者とみなされて、佐渡に流された。

正中の変と言われた。

花園天皇は、即位後、御父、後宇多天皇のおぼしめしで、御兄、後二条天皇の皇子である、那良親王を皇太子にされた。だが、親王は、亡くなられた。

親王は、大覚寺系統である。南朝である。
御位に就かれず、亡くなられたのであるから、今度も、こちら側の皇太子をとの思い。
だが、高時は、かわるがわるでござる、とのことで、頑迷に主張した。

持明院系統、北朝の第九十三代後伏見天皇の皇子、量仁親王を皇太子にする。

倒幕のために・・・
武士を集めるのは、危険である。

そこで、僧兵を味方にと、考えた。

そして、皇子の、護良親王を天台座主として、比叡山延暦寺に。
親王の、お住まいが、大塔である。
世に、大塔の宮と申し上げるのは、これによる。

また、京では、名高い、天台の円観、真言の文観をお召しになった。
名目は、皇后の安産祈願である。

そして、あの俊基である。

だが、それも、漏れたのである。
結果、その三名は、捕らえられた。

この上は、六波羅を攻めて、その混乱の最中に、叡山に行幸し、そこを根拠にと、考えた。

だが、それも、官軍終結前に、六波羅勢が皇居を包囲したのである。

計画を変更して、奈良に向かう。
叡山では、大塔の宮はじめ、僧兵らが、待機しているはずである。
そこで、それらの人々の失望をご心配になり、大納言藤原帥賢に天皇の装束をつけて、輿で叡山へ向かう。

六波羅探題は、北条仲時である。
叡山に行幸されたと聞いて、それを追う。

叡山の僧兵は、輿を護り、奮闘する。
総指揮は、大塔の宮である。
だが、僧兵が、気づくのである。
あれは、天皇陛下ではない。大納言である。

それにより、皆、散り散りに逃げる。
防御線は破られた。

大塔の宮は、奈良へ。帥賢は、笠置に逃げた。

一方、天皇の御輿は、奈良へ向かう。
だが、鎌倉側の僧も多い。
そこで、笠置山へ転じた。

山の上の寺を本拠とし、近隣の兵を募る。
その報告が、鎌倉に流れた。

鎌倉は、大軍を向ける。

大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏らの将兵に、20万余の大軍である。

いよいよと、鎌倉幕府の滅亡の時期が近づく。
だが、まだまだ、紆余曲折がある。

権力は、腐敗する。
だが、権威は、腐敗しない。
何故か。
権威は、権威者たるものが、制御して、その位置に甘んじることなく、その在り様を考察するからである。

何ゆえの、権威であるかということを。
天皇の歴史である。



posted by 天山 at 05:01| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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