2013年01月19日

天皇陛下について139

天皇の長い歴史には、悲しいことも多くある。
そのひとつが、二つの朝廷である。

北朝を、持明院統、南朝を、大覚寺統という。

それを説明する。
第八十八代後嵯峨天皇のあと、皇太子、久仁親王が即位され、第八十九代、後深草天皇である。

次は、その御弟の、第九十代、亀山天皇であり、これは、後嵯峨天皇が、亀山天皇のご英邁なことを察して、その御子孫に、皇位をと考えられたからである。

そして、亀山天皇は、親政を行われた。
兄院の、後深草上皇の院政を、差し置いたことになるのである。

そして、第二の皇子、第九十一代後宇多天皇に、御位を譲られ、院政を執られる。

後深草上皇は、まだご在世である。
つまり、少しも政治に関与することがなかった。

そこで、後深草上皇は、ご出家あそばそうと、執権北条時宗に、その意思を伝える。
時宗は、それは、気の毒であると、宇多天皇の皇太子に、後深草天皇の皇子を、お立てになられるのはと考えた。
そして、両上皇のお許しを得た。

これが、第九十二代、伏見天皇である。
だが、この天皇の御世になると、後深草上皇が、亀山上皇にかわり、院政を執られ、その皇太子には、伏見天皇の御子、胤仁親王を立てる。

この皇太子が、第九十三代、後伏見天皇である。

このあたりから、朝廷では公家や役人が、二派に分かれることになってゆく。
更に、幕府から、後深草天皇からの意思により、調停役に立ったこともあり、後深草天皇に好意を寄せる。
つまり、亀山系統には、距離を置くのである。

執権は、時宗から、その子の貞時に移る。
貞時は、そこで、両系統から、交代で、皇位に就かれるようにと、諮問に答える。

だが、ここに、北条の計略があったのである。

歴史は、両系統対立から、建武の中興へという、激しい時代に向かってゆくのである。

南朝、大徳寺統は、最初から、幕府の処置に不満だった。
そこで、後醍醐天皇が、御位に就かれるにおよび、十四代前の、後鳥羽上皇の、御志を継がれて、倒幕へと。
更に、その系統を長く皇位に就くためにと、考える。

当時、公家政権は、武家政権に完全に服していたのである。

皇室の、重大な皇位継承に関しても、幕府の了解を得るという、形になっていた。

それは、違うと、建武の中興が、起こるのである。

北朝といわれる持明院へ、お渡りになる前の、伏見天皇について、少し説明する。

伏見天皇は、敬神の念深く、賢所、かしこところ、の御拝を伝える記録が多い。
その日記も、多い。

ここでは、その御製を紹介する。

神や知る 世のためとてぞ 身をも思ふ 身のためにして 世をば祈らず

いたづらに やすき我身ぞ はづかしき 苦む民の 心おもへば

いずれも、わが身を牽制して、民のために祈る天皇の姿がある。

その日記にも、
元来更に、私無し。ただ万民の安全、国家泰平、万世のため益あらんがためなり。

更に、
神の恵みにより、末代までの人は皆、敬神の誠のゆえに、その助けまた、遥かに及び難し・・・
訳・天山

天皇の心に、私無く、ただ国民のために祈る。
末代の人々までに、神の恵みにより、その助けがあるようにと、祈る天皇である。


北朝も、南朝も、共に、後嵯峨天皇からの流れである。

さて、北朝の、歴代天皇の中でも、学問第一といわれる、第九十五代、花園天皇である。

花園天皇は、南朝の後二条天皇が崩御された後に、御位に就かれたのが、12歳の時である。
そのご治世は、およそ10年である。

ご即位の際に、後宇多上皇にかわり、御父、伏見上皇が、院政を行い、17歳の時に、政務は、後伏見上皇に移った。

22歳の年に、皇太子、尊治親王に御譲位される。

親王は、33歳である。
第九十六代、後醍醐天皇である。

花園天皇には、名作がある。
誡太子書である。
それは、後伏見天皇の第一皇子、量仁親王のために書かれたものであり、親王は、後醍醐天皇の皇太子となっている。

量仁親王は、花園天皇の、甥に当たる。
やがて、御位に就かれる。
そのために、教育に心を砕かれたのである。

親王は、後に、北朝初代の光厳帝、こうごんてい、である。

花園天皇の、誡太子書については、次の回で、紹介することにする。

両系統の朝廷が出来たのは、矢張り、武力政権の鎌倉幕府、つまり、北条が力を持ち、朝廷の力を削いだことからである。

時代は、北条討伐へと流れてゆくのである。



posted by 天山 at 06:12| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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