2013年01月13日

最後の沈黙を破る。70

この世が、心底、地獄であると思うことが、多々ある。

知り合いの、友人の母親が轢き逃げされた。
即死である。

その友人は、とても正義感強く、真面目で、良い青年である。
ところが、何故、そんな人に、こんな不幸があるのかと・・・

通夜に出て、言葉が無かったという。
当然であろう。

そして、この事実に、色々と理屈をつける人がいる。

前世の因果・・・
偶然は無い・・・

不幸があるのは、因果関係がある。
そして、それは、証明出来ないものなのである。

巨大新興宗教の会員が、両足の複雑骨折をする事故に遭った。
気の毒だった。

果たして、その教団が何と言うのか・・・

幸運に恵まれると、散々、言っていた幹部たち・・・

その方は、人に対して、強烈に会員をなることを、強制していた人ではない。
普通の、良い人だった。

神仏が存在するか、否かという問題に通ずる。
信じることで、証拠の無い、話しを信ずるのである。

因果関係・・・
実は、そんなものは、無い。
タマタマである。
偶然である。

しかし、この世に、偶然は無いという人たちがいる。

だが、必然も、偶然も、同じことであるとは、知らない。
言葉遊びではない。

必然的な偶然であり、偶然的な必然である。

明日、何が起こるのかを、誰も知らない。
だから、平然として、生きていられる。

しかし、この世が地獄であると得心すると、何があっても、驚く事は無い。

貧しい国に出かける私だが、その国に、とんでもない大金持ちがいたりする。

支援金をすべて、我が懐に入れる人たち・・・

何故、そんなことが出来るのか。
先祖の因縁が良いのか、悪いのか・・・

因果応報で、そんな悪事が成せるのか・・・

要するに、この世が地獄とは、解らないのである。
何もかも、解らないことだらけである。
だから、私は地獄という。

それを知った気にするものが、多くの宗教である。
勿論、すべて妄想である。

不幸にある人には、寄り添うしかない。

何も出来ない無力さをしみじみと、感じるだけである。
つまり、あはれ、である。

あはれ、という、共感能力を持つ人と、持たない人がいる。
それも、地獄の始まりである。



posted by 天山 at 00:03| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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