2013年01月10日

もののあわれについて597

源氏「さてかかる故言の中に、まろがやうに実法なるしれ者の物語はありや。いみじく気遠き、ものの姫君も、御心のやうにつれなく、そらおぼめきしたるは世にあらじな。いざ類なき物語にして、世に伝へさせむ」と、さし寄りて聞え給へば、顔を引き入れて、玉葛「さらずとも、かくめづらかなる事は、世語りにこそはなり侍りぬべかめれ」と宣へば、源氏「めづらかにや覚え給ふ。げにこそまたなきここちすれ」とて寄りい給へるさま、いとあざれたり。




源氏は、さて、こういう物語の中に、私のような律儀な馬鹿者のお話しはあるかな。酷く、人間離れした物語の姫君でも、あなたのように冷淡で、空とボケた人は、まさかいないでしょう。さあ、二人のことを世にも珍しい物語にして、世間に伝えさせよう、と、にじり寄り、申し上げると、玉葛は顔を襟に引き入れて、そうでなくても、こんなに珍しいことは、世間の噂になりますでしょう、とおっしゃると、源氏は、珍しいと思うか。本当に、またとない気がする、とおっしゃり、傍にお寄りになった姿は、洒落者だ。

最後は作者の言葉である。
兎に角、養女にした姫に、言い寄るという、源氏である。




源氏
思ひあまり 昔のあとを 尋ぬれど 親にそむける 子ぞ類なき

不孝なるは、仏の道にもいみじくこそ言ひたれ」と宣へど、顔ももたげ給はねば、御髪をかきやりつつ、いみじく恨み給へば、からうじて、

玉葛
ふるきあとを 尋ぬれどげに なかりけり この世にかかる 親の心は
と聞え 給ふも、心恥づかしければ、いといたくも乱れ給はず、んくしていかなるべき御有様ならむ。




源氏
思いあまり、昔の本を探しても、親に背いた子の例がない。

不孝は、仏の道でも、固く戒めている、とおっしゃるが、顔を上げず、御髪を撫でながら、酷く恨みに思い、やっとのことで、

玉葛
昔の本を探しても、おっしゃる通り、ございませんでした。この世に、こんな親の心は。

と、申し上げるのも、気恥ずかしいので、あまり酷いこともしない。このようなことで、一体、どうなってゆく方なのでしょう。

最後は、作者の言葉。





紫の上も、姫君の御あつらへにことつけて、物語は捨て難く思したり。まのの物語の絵にてあるを、紫「いとよくかきたる絵かな」とて御覧ず。ちひさき女君の、何心もなくて昼寝し給へる所を、昔の有様思し出でて、女君は見給ふ。源氏「かかる童どちだに、いかにざれたりけり。まろこそなほ例にしつべく、心のどけさは人に似ざりけれ」と聞え出で給へり。げに類多からぬ事どもは、好み集め給へりかし。




紫の上も、明石の姫君のご注文にかこつけて、物語は、捨てにくく思っていた。このままの物語が、絵にしてあるのを、たいそう上手に描いた絵だこと、と御覧になる。幼い姫君が、気づかずに昼寝しているのを、昔の自分を思い出すように、御覧になる。源氏は、こんな子供同士でさえ、なんと、ませていたことだろう。私は、やはりためしになるほど、気の長さは、誰にも負けないね、とお話しする。なるほど、例の無い恋愛は、数々、進んでなさったことです。

最後は、作者の言葉である。
物語の主人公である、源氏を突き放して見ているのである。




源氏「姫君のお前にて、この世慣れたる物語など、な読み聞かせ給ひそ。みそか心つきたるもののむすめなどは、をかしとにはあらねど、かかること世にはありけり。と見慣れ給はむぞゆゆしきや」と宣ふも、こよなし、と、対の御方聞き給はば、心置き給ひつべくなむ。上、紫「心浅げなる人まねどもは、見るにもかたはらいたくこそ。うつほの藤原の君のむすめこそ、いとおもりかにはかばかしき人にて、過なかめれど、すくよかに言ひ出でたることもしわざも、女しき所なかめるぞ、ひとやうなめる」と宣へば、源氏「うつつの人もさぞあるべかめる。人々しくたてたる人の、こめかしきをいつけるしるしにて、後れたる事多かるは、何わざしてかしづきしぞと、親のしわざさへ思ひやらるるこそいとほしけれ。げにさ言へど、その人のけはひよと見えたるは、かひあり、おもだたしかし。言葉の限りまばゆく誉め置きたるに、し出でたるわざなり。すべて、良からぬ人に、いかで人誉めさせじ」など、ただこの姫君の点つかれ給ふまじく、と、よろづに思し宣ふ。まま母のはらぎたなき昔物語も多かるを、心見えに心づきなしと思せば、いみじく選りつつなむ、書き整へさせ、絵などにもかかせ給ひける。




源氏は、姫君の前で、この色恋沙汰の物語などを、読んで聞かせてはいけない。隠し事をする物語の中の娘など、面白いというのではないが、こんなことが、世間にあるのだと、思っては大変だ、とおっしゃる。でも、大変な違いだと、玉葛の方が聞かれたら、源氏を警戒するでしょう。
最後は、作者の言葉である。

紫の上は、浅はかな人の真似は、見ていても、たまりません。うつほ物語の君の姫は、たいそう落ち着いて、しっかりした人で、失敗はないみたいですが、愛想の無い返事も、しぐさも、女らしさがないようで、同じく、いけません。とおっしゃると、源氏は、実際の人間も、そのようだから。人間らしく、各自の考え方が違うので、うまくゆかないのだ。悪くないが、親が気をつけて、育てた娘の、おっとりしているのを、大切に育てたと思い、それでも欠点の多いのは、どんな仕方で育てたのかと、親のしつけまで、思いやられるのは、気の毒です。でも、そうはいっても、身分に相応しい感じがするというのは、育てがいもあり、名誉でもある。口を極めて、聞く方が、赤くなるほど誉めておいて、それでいて、しでかしたこと、口にする言葉の中に、なるほどと思われることがないのは、酷く見劣りすることだ。大体つまらない人には、娘を誉めさせたくない、などと、ひたすら、この姫君が批難されないようにと、何から何まで、考えている様子。継母の意地悪な昔の物語も多いが、継母とは、そういうものと思うのでは、紫の上には、良くないと思い、厳しく選り分けながら、清書をさせたり、絵などを、描かせるのである。

時々、作者の思いが入り、中々、読みにくい箇所である。

当時の物語は、読んで、それを清書し、更に、絵も自分で描くということなのだ。

こうして、物語が伝えられていたのである。
読むことは、書き写すことだった。




posted by 天山 at 23:49| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれについて596

長雨、例の年よりもいたくして、晴るる方なくつれづれなれば、御方々絵物語などのすさびにて、明かし暮らし給ふ。明石の御方は、さやうの事をも由ありてしなし給ひて、姫君の御方に奉り給ふ。西の対には、ましてめづらしく覚え給ふ事の筋なれば、明け暮れ書き読み、営みおはす。つきなからぬ若人あまたあり。さまざまにめづらかなる人の上などを、まことにやいつはりにや言ひ集めたる中にも、わが有様のやうなるはなかりけり、と見給ふ。住吉の姫君の、さしあたりけむ折りは、さるものにて、今の世のおぼえもなほ心ことなめるに、主計頭が、ほとほとしかりけむなどぞ、かの監がゆゆしさを思しなずらへ給ふ。




五月雨が、例年より酷く降って、晴れ間もなく、何もできないので、六条の院の方々は、絵物語などの遊びごとで、一日一日を過ごす。明石の御方は、このようなことも、上手にされて、姫君の元に差し上げる。西の対、玉葛は、特に素晴らしく思われる事で、一日中 書いたり読んだりと、熱心にしている。この仕事のできる若い女房も大勢いる。とりどりに感嘆する身の上などを、本当か嘘か、解らないが、沢山話にしてあるが、その中にも、自分のようなものは無かったと、考える。住吉の物語は、その当時は、今の人気も矢張り格別のようだが、かぞえのかみ、が、もう少しというところであったことなどを、筑紫の監の怖さと思い比べて、御覧になる。

住吉の物語とは、継子いじめの話である。
主計頭とは、物語の中の人物。

ほとほとしかりけむなどぞ
ほとんどであった。危うく、盗まれるところだった。




殿もこなたかなたにかかる物どもの散りつつ、御目に離れねば、源氏「あなむつかし。女こそ物うるさがらず、人に欺かれむと生まれたるものなれ。ここらの中にまことはいと少なからむを、かつ知る知る、かかるすずろごとに心を移し、はかられ給ひて、暑かはしき五月雨の、髪の乱るるも知らで、書き給ふ」とて、笑ひ給ふものから、また、源氏「かかる世のふるごとならでは、げに何をか紛るることなきつれづれをなぐさめまし。さてもこのいつはりどもの中に、げにさもあらむとあはれを見せ、つきづきしく続けたる、はた、はかなしごとと知りながら、いたづらに心動き、らうたげなる姫君の物思へる見るに、たか心つくかし。またいとあるまじき事かなと見る見る、おどろおどろしくとりなしけるが目おどろきて、静かにまた聞くたびぞ憎けれど、ふとをかしき節、あらはなるものなどもあるべし。この頃幼き人の、女房などに時々読まするをたち聞けば、物よく言ふものの世にあるべきかな。そらごとをよくしなれたる口つきよりぞ言ひ出だすらむと覚ゆれど、さしもあらじや」と宣へば、玉葛「げにいつはり慣れたる人や、さまざまにさも酌み侍らむ。ただいとまことの事とこそ思う給へられけれ」とて、硯を押しやり給へば、源氏「こちなくも聞えおとしてけるかな。神代より世にある事を、記し置きけるななり。日本紀などは、ただかたそばぞかし。これらのこそ道々しくくはしき事はあらめ」とて、笑ひ給ふ。




源氏も、あちらこちらで、このような絵物語が色々散らばっているのが目につく。源氏は、ええ、うるさい。女は、面倒がらず、人に騙されるように、生まれついているようだ。沢山の絵物語に、真実は少ないはずだろうに。そうと知りつつ、こうしたつまらないことに、気を取られて、たぶらかされる。暑い五月雨に髪も乱れるままに、書いている、と、笑いつつ、こんな古い物語ではなくては、本当に、どうして、紛らわしようのない、退屈をしのげよう。それにしても、この作り話の中に、なるほど、そういうこともあろうと、人情を見せ、もっともらしく、話し続けているのは、実は、他愛の無いことと、知りつつ、何やら感動し、可憐な姫君が沈んでいるのを見ては、多少、心が引かれるものだ。それならば、起こりそうもないことだと思いつつ、ものものしい書きぶりに惑わされて、静かに一度聞くときは、嫌になるけれど、その時は、面白いのは、ここだと思うこともあるだろう。近頃、幼い者が、女房などに時々読ませているものを、立ち聞くと、口のうまい者が、この世には、いるものだ。こんな物語は、嘘をつきなれた者が、口に出すのだと、思われるが、そうとも限らないのか、と、おっしゃる。玉葛は、お言葉の通り、嘘をつきなれた方は、色々と、そのようなことも、解りましょう。私などは、ただ本当のことと思われてなりません。と、硯を傍から押しやると、源氏が、酷く物語をけなしてしまった。神代から、この世にあることを、書き残したそうだな。日本紀などは、そのほんの一部にすぎない。物語のほうに、学問的なことも、人間の一切も、あるのだろうと、おっしゃり、笑うのである。

源氏の物語論であるが、実は、作者の思いである。
当時、物語などは、女子供のものという意識があった。

実際、その女子供の物語と言われる、物語を書いているのである。
源氏物語である。




源氏「その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ。良きも悪しきも、世に経る人の有様の、見るにも飽かず、聞くにもあまる事を、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節々を、心に米難くて、言ひ置き始めたるなり。良きさまに言ふとては、良き事の限りえり出でて、人に従はむとては、この世の外の事ならずかし。人の朝廷のざえつくりやうかはる。同じやまとの国の事なれば、昔今のに変はるべし。深きこと浅きことのけぢめこそあらめ、ひたぶるに虚言と言ひはてむも、ことの心たがひてなむありける。仏の、いとうるはしき心にて説き給へる御法も、方便といふことありて、悟りなき者は、ここかしこたがふ疑ひを置きつべくなむ。方等経の中に多かれど、言ひもて行けば、ひとつ旨にありて、菩提と煩悩との隔たりなむ、この人の良き悪しきばかりの事は変はりける。良く言へば、すべて何事も空しからずなりぬや」と、物語をいとわざとのことに宣ひなしつ。




源氏は、誰それの話として、事実通り物語ることは、ないけれど、良いことも悪いことも、この世に生きる人のことで、見ていても飽きずに、聞いていても、聞き足りない話を、後々まで、語り伝えたいと思うことの幾つかを、心ひとつに包みきれず、語り残しはじめたのだ。良いように言うには、良いことだけを選び、人におもねろうとしては、今度は、悪いことでありそうもないことを、集めたのも、良いこと、悪いことと、いずれも、この世のこと。外国の作者は、書き方が違う。同じ日本の国のことだから、昔のものは、今とは違うであろうし、作品に、深いのと浅いものとの違いはあるが、一途に嘘偽りだと言い切るのも、実情に添わないことだ。仏が、きちんとした御心で説かれたその文にも、方便と言うことがあって、解らない者は、あちこちと、矛盾するという疑念を持つだろう。方等経の中に多いが、結局、一つの趣旨で通っていて、菩提と煩悩の差は、先ほどの人の善悪と同じ程度の違いなのだ。いい意味に解釈すれば、万事無駄なものは、なくなってしまうものだ。と、物語を大変なものであるという、おっしゃり方である。

方等経
大乗では、大乗経典のことで、天台では、五時経の、三時経のこと。

いと わざのことに
目的があって、作ったものだ。

posted by 天山 at 06:32| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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