2013年01月30日

霊学95

ユングも関わった、超心理学。
それは、心霊研究からはじまり、心霊主義となり、衰退して、超心理学として、登場した。
だが、心霊研究以前にも、膨大な歴史がある。
それを、書き始めると、とても、霊学に行き着くまでに、時間がかかるので、省略する。

日本には、米英の翻訳が多いが、実は、フランスで、心霊主義が誕生した。

近代の心霊術は、アメリカのフォックス姉妹に端を発するが、体系的な思想に発展させたのは、フランスの、アラン・カルデックの、心霊主義である。

その、心霊主義、スピリティスムという言葉も、カルデックの造語である。

新たなものごとには新たな言葉が必要である。同一の語が多数の意味をもつことからつねに生じる混乱を避け、言語の明晰を保つためには、そうすべきである。「スピリチュエル」「スピリチュリスト」「スピリチュアリスム」という語はかなり明確な語義をもっている。これらの語に新たな意味をあたえ、霊の理論にも適用させようとするのは、ただでさえ語義が多すぎて曖昧な状態をいたずらに増大させることになるだろう。実際、スピリチュアリスムは唯物論の反対語なのである。自分のうちに物資以外のものの存在を認める者はだれでもスピリチュアリストである。しかしそれだからといってその人間が霊の可視世界との交信を信じているということにはならない。後者を指す語として、われわれは「スピリチュエル」「スピリチュアリスム」むではなく、「スピリット」「心霊主義者」「スピリティスム」「心霊主義」を用いることにする。
カルディック

現代でも、そのように定義されている。

勿論、それには、理解者と、批判者が交互に現れて、とてつもない、議論を繰り広げた。

ただ、心霊に関して、心理学での、深層心理、潜在意識による、解釈も成り立ったことから、それは、評価できる事だ。

つまり、すべてが、霊的な問題ではなく、その人間の潜在意識によるものであるとの判断は、正しい。
だが、すべてが、そうではない。

通俗科学の法則にあてはまらない現象がいたるところに出現し、その原因が自由で知性をそなえたものの活動であることが明らかになっている。
理性に従えば、知性ある結果には、原因として知性ある力が存在しなければならない・・・
この力は霊的存在の世界に属することをみずから宣言したのだ・・・
カルデック

更に、ノーベル医学・生理学賞を受賞した、パリ医学部生理学教授である、シャルル・リシェは、
心霊研究は知性をもつ未知の力に「起因すると思われる」あらゆる現象を研究する。未知の知性には、われわれの無意識の驚くほど知性な現象も含まれる。
と、言う。

カルデックの心霊主義と、リシェの心霊研究の態度の違いを見る。

それでは、科学者を代表して、ボワラックは、述べている。
一方では、生理学が教えるところによれば、いかなる思考も、感情も、意志も、一言でいえばいかなる心的現象も、脳と神経の活動や身体的基盤をともなわなければ不可能である。それならば、いわゆる霊のように、脳も神経も身体ももたずに思考し、感じ、意志を示すことのできる存在をどうして認めることができようか。
と、なる。

全く、唯物的である。
続けて、
他方では、われわれの実証的知識の総体に基づく結論によれば、世界は閉じたシステムを構成しており、そのすべての部分は互いに恒常的な法則に従って動いている。これらの法則を構成する要素と力は、どこまで歴史を辿っても、常に協同してきた・・・
言葉を変えていえば、科学がわれわれに教えてくれる自然の中には、偶然も真の奇跡も存在しないのである。そうであるならば、かくも整合的で閉じた世界の周辺部に別な世界が、いわば現実の別の面もしくは空間の別次元に位置する別世界が存在し、しかもときにはわれわれの世界と接触し、思いがけないときに、まるで気まぐれのように、異常かつ驚異的な影響を与えるなどと、一瞬たりとも想像することができようか。
と、言う。

実は、私は、想像できるのである。
それが、心霊であると、いえる。

更に、続けて、
しかも、このような想像はわれわれが世界について知っていることのすべてと矛盾しているだけではない。それは科学の否定そのものである。いわゆる霊のように眼に見えず把握できない存在が、いつでも彼らの気まぐれ次第で自然現象や生命現象に介入し、好きなように変えることができると仮定するのは、いかなる科学をも不可能にすることである。というのも、これらの霊は思うがままに自然法則の作用を妨げたり停止することが、いつでもできると想定することになるからだ。霊の存在を認めれば、物体が重力の法則に従うことも、化学反応のさいに質量とエネルギーが保存されることも、生命機能が活動環境の物質的状況に条件づけられるとも、もはや確信がもてなくなってしまうだろう。世界の大きな壁に、奇蹟が次々と忍び入るひびを入れてしまったことになるのだ。しかもなんたる奇蹟だ! 最も成功した交霊会の報告から判断しても、なんとも支離滅裂としかいいようのない奇蹟なのである。

全く、その通りだろう、科学者には。

19世紀半ばは、魔術という偏見から、開放された時期である。
その、1850年代に、心霊術が起こるのを目にして、科学者たちは、終焉した時代への回帰に対して、猛烈に反発したのである。

古代から続く、蒙昧の世界から抜け出すという、科学者たちにとって、それは、別の意味で恐怖である。
要するに、そんな時代は過ぎたのであるという、思い。

現在も、このボワラックの意見と同じ考えの、科学者が多いはずだ。

科学で証明できないものは、有り得ないのである。

だが、もう一つ、解せないことが続いていた。
それは、カトリック教会である。

奇蹟は、奇蹟審判の厳格な基準に則り、判断されるというものである。
それは、神からのものか、悪魔からのものか・・・
その判定は、如何なるものなのか・・・

更に、悪魔と判定されると、火炙りにされて、殺されるという、蒙昧である。
一体、誰が、何の権利を持って、それを判定するのか・・・
時代は、いつも激動である。



posted by 天山 at 06:11| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月31日

霊学96

心霊主義は、霊の実在、顕示、教示を基盤とする教義である。
アラン・カルデック

その中で、述べられている人間について、を見る。

人間の「魂」は花火であり、非物質的元素であり、不死である・苦しみを知る・思考する・意志をもつ、などの特徴をそなえているが、物質的で粗雑な元素である「肉体」のなかに嵌め込まれている。

両者の媒介となるのが、アストラル体、欲望体、エーテル体、もしくは「霊体」と呼ばれるもので、心霊主義には霊体という用語が一番用いられている。

霊体はきわめて繊細で微妙な物質で、地のちりとは完全に異なっており、重力の法則などの物質の法則に従わない。

霊体は「エネルギー」であり、普遍的流体の一部である「生命流体」でもある。

この流体はわれわれの肉体の内部では、神経エネルギーという形で存在している。霊体はわれわれの身体の生を支える動物エネルギーを保持し、人間の肉体とそっくりな形態をしている。

霊体は肉体とかなり親密な関係にあるので、肉体の重大な損傷「手術、肢体切断、昔受けた拷問の痕跡など」は霊体の上にもはっきり見てとれるのである。つまるところ、霊体とは宇宙的・普遍的流体の一部が固体化したものといえるだろう。それはまさしく、肉体が属する粗雑な物質世界と、魂が属する非物質的世界との媒介となっている。

以上。

上記をそのまま教義にして、新興宗教が起こる訳である。

だが、上記を科学として、研究した場合に、多々疑問が起こる。
当然だ。

ここで言う、流体とは、幽体のことを言う。

続けて見ると、
生きている人間の場合、通常の状態ではこの三種の体は互いに密接に組み込まれており、区別することはできない。魂が命令し、生命を得た肉体がそれに従う。地上では肉体だけがそれに従う。地上では肉体だけが目に見え、作業をする。

肉体だけしか、見えない。
何故なら、この世は、物質の世界であるから、それ以上のモノは、見えないのである。

当然のこと。
しかし、それを納得するか、否かは別。

死の瞬間に肉体は、衰退する。着古した衣服のように抜け落ち分解した肉体は、自由を取り戻した魂に、もはや隠れ場を提供することはできない。

魂は引きこもり、エーテル体に包まれることになる。エーテル体は魂を個体化し、魂のために人間的な形態を保ってやる。

霊「心霊」と呼ばれているのは、このような魂、霊体に包まれた魂のことである。「霊とは肉体の欠如した人間存在にほかならない。

これが、心霊主義の定義である。

つまり、心霊主義は、唯心論、スピリチュアリスムの教義である。
そして、霊は、われわれの前に、自己を顕示する。
三つ目は、霊は、われわれを教え導くのである。

この考え方は、今も、引き続き、スピリチュアルの考え方の中に、そして、宗教の中に、生きている。
これを、超えるものは、無い。

日本語にすると、魂、幽体、肉体となる。
欲望体とは、肉体に付属したものと、考える。

だが、科学の世界は、これで終わりではない。
ここからが、はじまりである。

そのために、心霊現象の検証と、心霊実験がある。
その報告例は、膨大である。

あらゆる学問が、そこに入り込んで、実に、複雑奇怪なお話になってゆく。
だが、そこから、心理学、臨床に取り入れられた方法も多々ある。

ただ、面白い言い分がある。

カルデックが言う。
霊がわれわれに顕示する必要があり、顕示することを望んでいることを認めようとはしないのか。なぜ、霊にもわれわれと同様の優しさ、思い出に対する忠節、仲間に善を「あるいは悪を」なそうとする欲望があると認めないのか。

そして、
これまでは霊との交信の手段が発見されていなかったからである。ルイ14世の時代に、何千キロも離れた家族の一員がわずか数時間、あるいは数分で互いに接触できると、いったい誰が想像したであろうか。電報が「そして今日では電話や無線が」発明されていなかったからである。

ルイ14世時代にこのような奇跡を実現したと吹聴すれば、魔法使いとして火刑に処せられただろう。

これをみてもわかるように、技術の進歩によって超自然は自然に移行するのだ。同様に心霊主義は、それまで宗教的・魔術的驚異の領域に属していた肉体離脱者の世界を、客観的・日常的領域に移行させたのである。

宗教の世界では、上記のことを、信じさせるために、努力する。
あるいは、布教する。

目に見えないが、存在する神仏というものを、信じさせるために、である。
更には、死後の世界の存在することを。

霊の科学である心霊主義は、唯心論的、かつ、合理的運動として出発し、その基礎となる、科学的啓示によって、あらゆる宗教的・哲学的思想を革新する存在である。
心霊主義 イヴォンヌ・カステラン

引用の部分は、私が読みやすく、改行した。

心霊主義は、超心理学へ、そして、その中から、臨床心理学へと、受け継がれる。
更には、精神病理学である。


posted by 天山 at 00:21| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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