2013年01月10日

もののあわれについて596

長雨、例の年よりもいたくして、晴るる方なくつれづれなれば、御方々絵物語などのすさびにて、明かし暮らし給ふ。明石の御方は、さやうの事をも由ありてしなし給ひて、姫君の御方に奉り給ふ。西の対には、ましてめづらしく覚え給ふ事の筋なれば、明け暮れ書き読み、営みおはす。つきなからぬ若人あまたあり。さまざまにめづらかなる人の上などを、まことにやいつはりにや言ひ集めたる中にも、わが有様のやうなるはなかりけり、と見給ふ。住吉の姫君の、さしあたりけむ折りは、さるものにて、今の世のおぼえもなほ心ことなめるに、主計頭が、ほとほとしかりけむなどぞ、かの監がゆゆしさを思しなずらへ給ふ。




五月雨が、例年より酷く降って、晴れ間もなく、何もできないので、六条の院の方々は、絵物語などの遊びごとで、一日一日を過ごす。明石の御方は、このようなことも、上手にされて、姫君の元に差し上げる。西の対、玉葛は、特に素晴らしく思われる事で、一日中 書いたり読んだりと、熱心にしている。この仕事のできる若い女房も大勢いる。とりどりに感嘆する身の上などを、本当か嘘か、解らないが、沢山話にしてあるが、その中にも、自分のようなものは無かったと、考える。住吉の物語は、その当時は、今の人気も矢張り格別のようだが、かぞえのかみ、が、もう少しというところであったことなどを、筑紫の監の怖さと思い比べて、御覧になる。

住吉の物語とは、継子いじめの話である。
主計頭とは、物語の中の人物。

ほとほとしかりけむなどぞ
ほとんどであった。危うく、盗まれるところだった。




殿もこなたかなたにかかる物どもの散りつつ、御目に離れねば、源氏「あなむつかし。女こそ物うるさがらず、人に欺かれむと生まれたるものなれ。ここらの中にまことはいと少なからむを、かつ知る知る、かかるすずろごとに心を移し、はかられ給ひて、暑かはしき五月雨の、髪の乱るるも知らで、書き給ふ」とて、笑ひ給ふものから、また、源氏「かかる世のふるごとならでは、げに何をか紛るることなきつれづれをなぐさめまし。さてもこのいつはりどもの中に、げにさもあらむとあはれを見せ、つきづきしく続けたる、はた、はかなしごとと知りながら、いたづらに心動き、らうたげなる姫君の物思へる見るに、たか心つくかし。またいとあるまじき事かなと見る見る、おどろおどろしくとりなしけるが目おどろきて、静かにまた聞くたびぞ憎けれど、ふとをかしき節、あらはなるものなどもあるべし。この頃幼き人の、女房などに時々読まするをたち聞けば、物よく言ふものの世にあるべきかな。そらごとをよくしなれたる口つきよりぞ言ひ出だすらむと覚ゆれど、さしもあらじや」と宣へば、玉葛「げにいつはり慣れたる人や、さまざまにさも酌み侍らむ。ただいとまことの事とこそ思う給へられけれ」とて、硯を押しやり給へば、源氏「こちなくも聞えおとしてけるかな。神代より世にある事を、記し置きけるななり。日本紀などは、ただかたそばぞかし。これらのこそ道々しくくはしき事はあらめ」とて、笑ひ給ふ。




源氏も、あちらこちらで、このような絵物語が色々散らばっているのが目につく。源氏は、ええ、うるさい。女は、面倒がらず、人に騙されるように、生まれついているようだ。沢山の絵物語に、真実は少ないはずだろうに。そうと知りつつ、こうしたつまらないことに、気を取られて、たぶらかされる。暑い五月雨に髪も乱れるままに、書いている、と、笑いつつ、こんな古い物語ではなくては、本当に、どうして、紛らわしようのない、退屈をしのげよう。それにしても、この作り話の中に、なるほど、そういうこともあろうと、人情を見せ、もっともらしく、話し続けているのは、実は、他愛の無いことと、知りつつ、何やら感動し、可憐な姫君が沈んでいるのを見ては、多少、心が引かれるものだ。それならば、起こりそうもないことだと思いつつ、ものものしい書きぶりに惑わされて、静かに一度聞くときは、嫌になるけれど、その時は、面白いのは、ここだと思うこともあるだろう。近頃、幼い者が、女房などに時々読ませているものを、立ち聞くと、口のうまい者が、この世には、いるものだ。こんな物語は、嘘をつきなれた者が、口に出すのだと、思われるが、そうとも限らないのか、と、おっしゃる。玉葛は、お言葉の通り、嘘をつきなれた方は、色々と、そのようなことも、解りましょう。私などは、ただ本当のことと思われてなりません。と、硯を傍から押しやると、源氏が、酷く物語をけなしてしまった。神代から、この世にあることを、書き残したそうだな。日本紀などは、そのほんの一部にすぎない。物語のほうに、学問的なことも、人間の一切も、あるのだろうと、おっしゃり、笑うのである。

源氏の物語論であるが、実は、作者の思いである。
当時、物語などは、女子供のものという意識があった。

実際、その女子供の物語と言われる、物語を書いているのである。
源氏物語である。




源氏「その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ。良きも悪しきも、世に経る人の有様の、見るにも飽かず、聞くにもあまる事を、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節々を、心に米難くて、言ひ置き始めたるなり。良きさまに言ふとては、良き事の限りえり出でて、人に従はむとては、この世の外の事ならずかし。人の朝廷のざえつくりやうかはる。同じやまとの国の事なれば、昔今のに変はるべし。深きこと浅きことのけぢめこそあらめ、ひたぶるに虚言と言ひはてむも、ことの心たがひてなむありける。仏の、いとうるはしき心にて説き給へる御法も、方便といふことありて、悟りなき者は、ここかしこたがふ疑ひを置きつべくなむ。方等経の中に多かれど、言ひもて行けば、ひとつ旨にありて、菩提と煩悩との隔たりなむ、この人の良き悪しきばかりの事は変はりける。良く言へば、すべて何事も空しからずなりぬや」と、物語をいとわざとのことに宣ひなしつ。




源氏は、誰それの話として、事実通り物語ることは、ないけれど、良いことも悪いことも、この世に生きる人のことで、見ていても飽きずに、聞いていても、聞き足りない話を、後々まで、語り伝えたいと思うことの幾つかを、心ひとつに包みきれず、語り残しはじめたのだ。良いように言うには、良いことだけを選び、人におもねろうとしては、今度は、悪いことでありそうもないことを、集めたのも、良いこと、悪いことと、いずれも、この世のこと。外国の作者は、書き方が違う。同じ日本の国のことだから、昔のものは、今とは違うであろうし、作品に、深いのと浅いものとの違いはあるが、一途に嘘偽りだと言い切るのも、実情に添わないことだ。仏が、きちんとした御心で説かれたその文にも、方便と言うことがあって、解らない者は、あちこちと、矛盾するという疑念を持つだろう。方等経の中に多いが、結局、一つの趣旨で通っていて、菩提と煩悩の差は、先ほどの人の善悪と同じ程度の違いなのだ。いい意味に解釈すれば、万事無駄なものは、なくなってしまうものだ。と、物語を大変なものであるという、おっしゃり方である。

方等経
大乗では、大乗経典のことで、天台では、五時経の、三時経のこと。

いと わざのことに
目的があって、作ったものだ。



posted by 天山 at 06:32| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれについて597

源氏「さてかかる故言の中に、まろがやうに実法なるしれ者の物語はありや。いみじく気遠き、ものの姫君も、御心のやうにつれなく、そらおぼめきしたるは世にあらじな。いざ類なき物語にして、世に伝へさせむ」と、さし寄りて聞え給へば、顔を引き入れて、玉葛「さらずとも、かくめづらかなる事は、世語りにこそはなり侍りぬべかめれ」と宣へば、源氏「めづらかにや覚え給ふ。げにこそまたなきここちすれ」とて寄りい給へるさま、いとあざれたり。




源氏は、さて、こういう物語の中に、私のような律儀な馬鹿者のお話しはあるかな。酷く、人間離れした物語の姫君でも、あなたのように冷淡で、空とボケた人は、まさかいないでしょう。さあ、二人のことを世にも珍しい物語にして、世間に伝えさせよう、と、にじり寄り、申し上げると、玉葛は顔を襟に引き入れて、そうでなくても、こんなに珍しいことは、世間の噂になりますでしょう、とおっしゃると、源氏は、珍しいと思うか。本当に、またとない気がする、とおっしゃり、傍にお寄りになった姿は、洒落者だ。

最後は作者の言葉である。
兎に角、養女にした姫に、言い寄るという、源氏である。




源氏
思ひあまり 昔のあとを 尋ぬれど 親にそむける 子ぞ類なき

不孝なるは、仏の道にもいみじくこそ言ひたれ」と宣へど、顔ももたげ給はねば、御髪をかきやりつつ、いみじく恨み給へば、からうじて、

玉葛
ふるきあとを 尋ぬれどげに なかりけり この世にかかる 親の心は
と聞え 給ふも、心恥づかしければ、いといたくも乱れ給はず、んくしていかなるべき御有様ならむ。




源氏
思いあまり、昔の本を探しても、親に背いた子の例がない。

不孝は、仏の道でも、固く戒めている、とおっしゃるが、顔を上げず、御髪を撫でながら、酷く恨みに思い、やっとのことで、

玉葛
昔の本を探しても、おっしゃる通り、ございませんでした。この世に、こんな親の心は。

と、申し上げるのも、気恥ずかしいので、あまり酷いこともしない。このようなことで、一体、どうなってゆく方なのでしょう。

最後は、作者の言葉。





紫の上も、姫君の御あつらへにことつけて、物語は捨て難く思したり。まのの物語の絵にてあるを、紫「いとよくかきたる絵かな」とて御覧ず。ちひさき女君の、何心もなくて昼寝し給へる所を、昔の有様思し出でて、女君は見給ふ。源氏「かかる童どちだに、いかにざれたりけり。まろこそなほ例にしつべく、心のどけさは人に似ざりけれ」と聞え出で給へり。げに類多からぬ事どもは、好み集め給へりかし。




紫の上も、明石の姫君のご注文にかこつけて、物語は、捨てにくく思っていた。このままの物語が、絵にしてあるのを、たいそう上手に描いた絵だこと、と御覧になる。幼い姫君が、気づかずに昼寝しているのを、昔の自分を思い出すように、御覧になる。源氏は、こんな子供同士でさえ、なんと、ませていたことだろう。私は、やはりためしになるほど、気の長さは、誰にも負けないね、とお話しする。なるほど、例の無い恋愛は、数々、進んでなさったことです。

最後は、作者の言葉である。
物語の主人公である、源氏を突き放して見ているのである。




源氏「姫君のお前にて、この世慣れたる物語など、な読み聞かせ給ひそ。みそか心つきたるもののむすめなどは、をかしとにはあらねど、かかること世にはありけり。と見慣れ給はむぞゆゆしきや」と宣ふも、こよなし、と、対の御方聞き給はば、心置き給ひつべくなむ。上、紫「心浅げなる人まねどもは、見るにもかたはらいたくこそ。うつほの藤原の君のむすめこそ、いとおもりかにはかばかしき人にて、過なかめれど、すくよかに言ひ出でたることもしわざも、女しき所なかめるぞ、ひとやうなめる」と宣へば、源氏「うつつの人もさぞあるべかめる。人々しくたてたる人の、こめかしきをいつけるしるしにて、後れたる事多かるは、何わざしてかしづきしぞと、親のしわざさへ思ひやらるるこそいとほしけれ。げにさ言へど、その人のけはひよと見えたるは、かひあり、おもだたしかし。言葉の限りまばゆく誉め置きたるに、し出でたるわざなり。すべて、良からぬ人に、いかで人誉めさせじ」など、ただこの姫君の点つかれ給ふまじく、と、よろづに思し宣ふ。まま母のはらぎたなき昔物語も多かるを、心見えに心づきなしと思せば、いみじく選りつつなむ、書き整へさせ、絵などにもかかせ給ひける。




源氏は、姫君の前で、この色恋沙汰の物語などを、読んで聞かせてはいけない。隠し事をする物語の中の娘など、面白いというのではないが、こんなことが、世間にあるのだと、思っては大変だ、とおっしゃる。でも、大変な違いだと、玉葛の方が聞かれたら、源氏を警戒するでしょう。
最後は、作者の言葉である。

紫の上は、浅はかな人の真似は、見ていても、たまりません。うつほ物語の君の姫は、たいそう落ち着いて、しっかりした人で、失敗はないみたいですが、愛想の無い返事も、しぐさも、女らしさがないようで、同じく、いけません。とおっしゃると、源氏は、実際の人間も、そのようだから。人間らしく、各自の考え方が違うので、うまくゆかないのだ。悪くないが、親が気をつけて、育てた娘の、おっとりしているのを、大切に育てたと思い、それでも欠点の多いのは、どんな仕方で育てたのかと、親のしつけまで、思いやられるのは、気の毒です。でも、そうはいっても、身分に相応しい感じがするというのは、育てがいもあり、名誉でもある。口を極めて、聞く方が、赤くなるほど誉めておいて、それでいて、しでかしたこと、口にする言葉の中に、なるほどと思われることがないのは、酷く見劣りすることだ。大体つまらない人には、娘を誉めさせたくない、などと、ひたすら、この姫君が批難されないようにと、何から何まで、考えている様子。継母の意地悪な昔の物語も多いが、継母とは、そういうものと思うのでは、紫の上には、良くないと思い、厳しく選り分けながら、清書をさせたり、絵などを、描かせるのである。

時々、作者の思いが入り、中々、読みにくい箇所である。

当時の物語は、読んで、それを清書し、更に、絵も自分で描くということなのだ。

こうして、物語が伝えられていたのである。
読むことは、書き写すことだった。


posted by 天山 at 23:49| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月12日

もののあわれについて598

中将の君を、こなたには気遠くもてなし聞え給へれど、姫君の御方には、さし放ち聞え給はず、ならはし給ふ。わが世の程は、とてもかくても同じ事なれど、なからむ世を思ひやるに、なほ見つき思ひしみぬる事どもこそ、取りわきては覚ゆべけれ、とて、南面の御簾の内は許し給へり。台盤所の女房の中には許し給はず。あまたおはせぬ御なからひにて、いとやむごとなくかしづき聞え給へり。大方の心もちいなども、いとものものしく、まめやかにものし給ふ君なれば、後ろ安く思しゆづれり。まだいはけたる御雛遊びなどのけはひの見ゆれば、かの人の、もろともに遊びて過ぐしし年月の、先づ思ひ出でらるれば、雛の殿の宮づかへ、いとよくし給ひて、折々にうちしほたれ給ひけり。




中将の君、夕霧を、紫の上の所には、近づけないようにしているが、姫君の所には、遠ざけずに、躾けている。自分の在世中は、親しくても、親しくなくても、同じことだが、自分が死んだ後のことを考えると、やはり、なじんでいて、愛情を持つのが、特に親しい気持ちになるだろうと思うので、南座敷の姫君の御簾の中に、入っることを許している。だが、配膳所の女房の中には、お許しにならない。多くいるわけではない、親子のことゆえ、大変、大切に育てている。大体の性格なども、どっしりとしていて、真面目なので、安心して、任せている。まだ、あどけない、人形遊びなが好きそうに見えるので、あの、雲居の雁と一緒に遊んで、暮らしていた年月が、何より先に思い浮かんでくるので、人形の御殿のお相手を熱心にされながら、時折、涙ぐんでいるのである。




さもありぬべきあたりには、はかなしごとも宣ひ触るるはあまたあれど、頼みかくべくもしなさず。さる方になどかは見ざらむ、と、心とまりぬべきをも、強ひてなほざりごとにしなして、なほかの緑の袖を、見え直してしがなと思ふ心のみぞ、やむごとなき節にはとまりける。あながちになどかかづらひ惑はば、たふるる方に許し給ひもしつべかめれど、辛しと思ひし折々、いかで人にもことわらせ奉らむ、と思ひ置きし、忘れ難くて、正身ばかりには、おろかならぬあはれを尽くし見せて、大方にはいられ思へらず。兄の君達なども、なまねたしなどのみ思ふ事多かり。対の姫君の御有様を、右の中将はいと深く思ひしみて、言ひ寄る便りもいとはかなければ、この君をぞかこち寄りけれど、夕霧「人の上にては、もどかしきわざなりけり」と、つれなくいらへてぞものし給ひける。昔の父大臣達の、御なからひに似たり。




相手にしても、恥ずかしくない女の所には、つまり夕霧が相手にしても、良いような女には、冗談を言ったりする。そういう相手は、いくらでもいるが、本気に頼ってくるようには、仕向けないのである。愛人とするに、相応しいと、心引かれる女であっても、無理矢理冗談にして、今でも、あの緑の袖を、見直してもらいたいと思うのである。それは、重大なことである。緑の袖の身分のことである。
無理にまで、つきまとい、歎くところを見せたら、根負けして、許すだろうが、悔しいと思ったあの、折々の事。どうかして、あの内大臣にも、解らせてあげたいと考えたことが、忘れられずに、自分だけは、皆々ならぬ愛情の限りを見せて、面に、焦りは見せない。雲居の雁の兄君たちなども、夕霧の程度を、小憎らしいなどと、思うことが多い。対の玉葛の姫君の様子を、柏木の右中将は大変強く、執着して、言い寄る。つてもあまり無く、夕霧に泣きついているが、夕霧は、人事となると、不熱心を叱られることだと、冷淡に、返事をする。
その昔の、父親たち、今の、大臣の御二人の関係に似ているのである。

夕霧が、緑の袖であるとは、まだ身分が低く、それを昔、雲居の雁の乳母に、侮られたことを言うのである。
帯の色が、当時の身分を表す。
それを、袖と言っている。




内大臣は、御子ども腹腹いと多かるに、その生ひ出でたるおぼえ人柄に従いつつ、心に任せるやうなるおぼえ、御勢ひにて、皆なしたて給ふ。むすめはあまたもおはせぬを、女御もかく思しし事の滞り給ひ、姫君もかく事たがふさまにてものし給へば、いと口惜しと思す。かのなでしこを忘れ給はず、物の折りにも語り出で給ひし事なれば、内大臣「いかになりにけむ。物はかなかりける親の心に引かれて、らうたげなりし人を、行くへ知らずなりにたること。すべて女子と言はむものなむ、いかにもいかにも目放つまじかりける。さかしらにわが子と言ひて、あやしきさまにてはふれやすらむ。とてもかくても聞え出で来ば」と、あはれに思しわたる。君達にも、内大臣「もしさやうなる名乗りする人あらば、耳とどめよ。心のすさびに任せて、さるまじき事も多かりし中に、これはいと、しかおしなべての際にも思はざりし人の、はかなき物うむじをして、かく少なかりけるもののくさはひ一つを失ひたる事の口惜しきこと」と常に宣ひ出づ。中頃などはさしもあらず、うち忘れ給ひけるを、人のさまざまにつけて、女子かしづき給へる類どもに、わが思ほすにしもかなはぬが、いと心憂く本意なく思すなりけり。




内大臣は、お子様が夫人の方々に多数いらして、その母方の血筋の良さ、子供の性質に応じて、自分の思いのままになるほどの、世間の信望や、権勢に任せて、それぞれ立派に引き立てている。娘は多くいないが、弘薇殿の女御も、あのように計画がうまく行かず、姫君も、予定が狂うようなことで、大変、残念に思っている。
あの、なでしこ、の事は忘れず、何かのついでに口にされることもあり、一体どのようになっているのか。頼りない母親の心に油断して、可愛らしい子だったが、行方も知れずになってしまった。大体が、女の子というのは、どんなことがあっても、目を離すものではない。いい気になって、自分の子だと思い、みっともない格好でさ迷っているのだろうか。どんな姿にせよ、申し出たらば、と、ずっと心に忘れられずにいるのである。
若様たちにも、もし、そのような申し出をする者がいれば、気をつけなさい。若いという気まぐれから、するべきではないことまでしたが、その中で、この子は、特に、そう並々の身分とも思わなかった女が、つまらないことで気を背けて、こんな数少ない娘一人をなくしたことが残念だと、いつも口にしている。
ひところは、それほどでもなく、つい忘れていたが、皆が身分相応に応じて、娘を大事に育てている中で、自分の思うように行かないのが、酷く情けなく心外に思うのである。

思はざりし人の
夕顔のことである。
なでしこ、とは、玉葛のことである。





夢見給ひて、いとよく合はする者召して、合はせ給ひけるに、占者「もし年頃御心に知られ給はぬ御子を、人の物になして、聞し召し出づることや」と聞えたりければ、内大臣「女子の人の子になることはをさをさなしかし。いかなることにかあらむ」など、この頃ぞ思し宣ふべかめる。




夢を御覧になり、上手に占う者を召して、占わせると、もしや、長年、あなた様の知られずにいるお子様を、人の子として、お耳にされたことでも、と申すので、内大臣は、女の子が、他人の養女になることは、まずまずないこと。一体どういうことなのか。などと、この頃になって、考えたり、口にしたりしているのである。

蛍を、終わる。


posted by 天山 at 06:30| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月13日

最後の沈黙を破る。70

この世が、心底、地獄であると思うことが、多々ある。

知り合いの、友人の母親が轢き逃げされた。
即死である。

その友人は、とても正義感強く、真面目で、良い青年である。
ところが、何故、そんな人に、こんな不幸があるのかと・・・

通夜に出て、言葉が無かったという。
当然であろう。

そして、この事実に、色々と理屈をつける人がいる。

前世の因果・・・
偶然は無い・・・

不幸があるのは、因果関係がある。
そして、それは、証明出来ないものなのである。

巨大新興宗教の会員が、両足の複雑骨折をする事故に遭った。
気の毒だった。

果たして、その教団が何と言うのか・・・

幸運に恵まれると、散々、言っていた幹部たち・・・

その方は、人に対して、強烈に会員をなることを、強制していた人ではない。
普通の、良い人だった。

神仏が存在するか、否かという問題に通ずる。
信じることで、証拠の無い、話しを信ずるのである。

因果関係・・・
実は、そんなものは、無い。
タマタマである。
偶然である。

しかし、この世に、偶然は無いという人たちがいる。

だが、必然も、偶然も、同じことであるとは、知らない。
言葉遊びではない。

必然的な偶然であり、偶然的な必然である。

明日、何が起こるのかを、誰も知らない。
だから、平然として、生きていられる。

しかし、この世が地獄であると得心すると、何があっても、驚く事は無い。

貧しい国に出かける私だが、その国に、とんでもない大金持ちがいたりする。

支援金をすべて、我が懐に入れる人たち・・・

何故、そんなことが出来るのか。
先祖の因縁が良いのか、悪いのか・・・

因果応報で、そんな悪事が成せるのか・・・

要するに、この世が地獄とは、解らないのである。
何もかも、解らないことだらけである。
だから、私は地獄という。

それを知った気にするものが、多くの宗教である。
勿論、すべて妄想である。

不幸にある人には、寄り添うしかない。

何も出来ない無力さをしみじみと、感じるだけである。
つまり、あはれ、である。

あはれ、という、共感能力を持つ人と、持たない人がいる。
それも、地獄の始まりである。

posted by 天山 at 00:03| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月14日

国を愛して何が悪い45

アメリカは、1776年の、建国当初より、ヨーロッパの動乱に巻き込まれないように、孤立主義の外交政策をとっていた。

その姿勢は、1823年、第五代モンロー大統領による「モンロー宣言」として、明確にされた。

つまり、ヨーロッパ各国のアメリカへの介入を排除し、ヨーロッパ本土での紛争、植民地争奪戦に、巻き込まれないというものである。

その代わり、西部開拓、中南米への進出に力を注ぐ。

これからが、アメリカの見逃せない、侵略の方法がある。

西部開拓が終わると、アメリカ独立に刺激されて、独立したばかりの、近隣の中南米諸国に、度重なる、介入、侵略をはじめた。

1845年、メキシコから独立した、テキサスを併合した。
その後、メキシコと戦争を起こし、その勝利によって、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニア州など、南部、西部の広大な領土を併合したのである。

この戦争の開戦の契機が、「アラモ砦の戦い」だった。
そして、この戦いは、アメリカが、アラモ砦をおとりにして、相手を挑発し、メキシコ軍に先制攻撃させ、自国軍に相当な被害を出させた上で、「リメンバー・アラモ砦」を合言葉に、戦争を正当化し、国民を鼓舞して、反撃に出るというものである。

この方法が、後の、アメリカの侵略の常套手段になる。

日本の開戦もそうである。
注・天皇陛下について、を、参照ください。

1898年、アメリカは、ハバナで表敬訪問中の米戦艦「メーン」を自ら爆沈させ、2060名の乗組員を犠牲にして、これが敵がやったこととし、「メーン号を忘れるな」を合言葉に、国民を戦争に駆り立てた。
そして、スペインに、宣戦布告する。

この、米西戦争は、キューバの独立戦争を支援する名目で始めながら、実質的に、キューバを保護領とし、スペイン領のプエルトリコも、領有したのである。

日本開戦も、「真珠湾を忘れるな」である。
相手に先に手を出させてから・・・

作戦といえば、作戦だが・・・
自国の兵士が、死ぬことを承知で、作戦を立てるとは・・・
人命軽視も、甚だしい。

アメリカの中には、とても、賢い馬鹿がいるのである。
戦争をしたい者どもである。

そして、稚拙な正当性を打ち立てる。

再度、言うが、アメリカの精神とは、何か・・・
キリスト教、プロテスタントの精神であろう。
そこには、手段を選ばずという、選択肢がある。

つまり、キリスト教精神も、いつでも自由に、変更可能なものであると、いう。
そして、神に祈りつつ、戦争をはじめ、続行させ、侵略する。

都合の良い神であり、主である。

あの、湾岸戦争でも、その手を使ったといわれる。
イラクのフセインを騙して、クウェート進攻に誘い、フセインを侵略者に仕立てて、世界に宣伝し、アラビアに集中していたアメリカの大軍を一挙に、出動させた。

用意周到である。

更に、日本をはじめ、世界中から、戦争協力の名目で金を集めた。
それで、新兵器の見本市を果たし、大量の武器弾薬を砂漠に打ち込み、「死の商人」の在庫を空にし、戦争ビジネスを成功させたのである。

しかし、世界は、アメリカの聖戦だと、思い込まされている。

このようにアメリカの戦争は、すべて敵が仕掛けたかのように宣伝し、止む無く立ち上がった聖戦に仕立てて、輝かしい歴史を残そうとする。アメリカはヤラセの名人なのである。
清水馨一郎

1898年の米西戦争・・・
それは、スペインを押さえて、アジアでの覇権を握る一大契機となる。

米西戦争が始まった時に、フィリピン人の独立革命家たちは、独立を助けてくれると米軍に大いに協力した。
地元革命軍を利用して、アメリカは、スペインに勝った。
しかし、一転、革命家を騙して、フィリピンを米国領土に組み入れる。

騙されたと知った革命家たちは、日本に援助を求め、激しいゲリラ戦を行う。だが、目的は果たせなかった。

アメリカは、威勢づいて、ハワイ、グアム、サモア諸島を収奪する。

ハワイは、先住民のカメハメハ王朝下にあり、明治以来、日本人の移民が多い。アメリカは、日本に奪われるのではないかと、危惧し、リリウカラニ女王を騙して、王朝を滅ぼす。

その時、女王は、明治天皇に救助を求めたが、日本は、アメリカと戦う力なく、見殺しにするより、方法がなかったのである。

さて、カリブ海でも、アメリカは、キューバに度重なる軍事介入を行い、パナマ、ドミニカ、ニカラグア、ハイチなどに介入した。
そして、カリブ海は、アメリカの所有となる。

1903年のパナマ保護領化は、重大である。
1914年に、アメリカは、パナマに運河を開通させた。
これにより、大西洋と太平洋を結びつける重要な、流通通路を獲得し、南米大陸の航海権、通商権を掌握した。

そして、アメリカは、いよいよ、日本を目指すのである。

現在、中国が目指す、覇権は、すでにアメリカによって、成されているのである。
だから、中国の様を、新植民地主義と呼ぶ人もいる。


posted by 天山 at 00:07| 国を愛して何が悪い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月15日

国を愛して何が悪い46

日本が鎖国を墨守している間に世界情勢は大きく転換し、ヨーロッパは封建社会から資本主義社会へとめざましく進展した。18世紀末にはイギリス産業革命、続いてフランス革命とアメリカの独立が起こり、やがて米仏両国でも産業革命が開始された。この変化に平行して、欧米列強は植民地や商品の市場を求めて、争そってアジア進出を始めた。
清水馨八郎

更に、近代化の遅れたロシアも、帝政下シベリア進出を続けて、19世紀のはじめに、日本の北、蝦夷地に出没するようになる。

幕府は、松前奉行を置き、北辺の探検、警備を行って対処した。

1792年、ロシアの使節ラックスマンが、根室に来航した。
続いて、レザノフが、長崎に来て、幕府に通商を求めたが、日本側は、これを無視した。

イギリスは、関が原の戦いの1600年、東インド会社を設立し、アジア進出を開始している。
イギリスは、ナポレオン戦争を機に、フランスに支配されたオランダの海外植民地を攻撃し、バタビアを占領する。

そして、世界でただ一国、日本との貿易をする、オランダの長崎の占領を図った。
1808年、イギリス軍は、軍艦フェートン号にオランダの国旗を掲げて、長崎に入港し、オランダ商館員を脅し、更に人質にして、乱暴を働いた。
このため、時の、長崎奉行が引責自殺するほどであった。

だか、それにより、日本側では、イギリス人の強暴さを認識し、広く世界情勢を学ぶことになる。

さて、最もイギリスの悪は、インド産のアヘンを中国に売り込み、巨利を貪っていたことである。
そして、中国にそれを拒否されると、アヘン戦争を仕掛けたのである。
ついに、香港を収奪する。

現在、このアヘンも日本がもたらした物だと、中国が教育しているというから、驚く。
悪いものは、すべて日本なのである。

更に、今でも、イギリスに対して、頭が上がらないという中国。
不思議でしょうがないのである。
中国に物をいいたければ、イギリスに言わせるといいと、私は、思っている。

イギリスは、国家が公然と、麻薬貿易を許し、力ずくで売り込み、中国人を堕落させようとした。

これほど不正で恥さらしな戦争は、かつて歴史上になかった。これが仮面を脱いだ大英帝国の正体である。
清水馨八郎。

だが、そのことが、日本に大きな影響を与えたのである。
次に、日本がやられると、感じたのは、長州藩の高杉晋作である。

彼は、上海に渡り、アヘン戦争の惨状を視察し、国防の必要性を強く感じ、帰国して、それを説いて回ったのである。

それから、10年目、アメリカのペリーが軍艦四隻を率いて、浦賀に現れたのである。

1853年6月3日のことである。
幕府のみならず、江戸市中を大混乱に陥れた。

人々は、それを黒船と呼び、避難のために右往左往した。
武士たちも、武具を整える様である。

日本が、世界に目覚める時である。

ペリーは、一端帰国するが、約束通り、翌年にまた浦賀に軍艦七隻を率いて、入港した。
更に、江戸湾を測量して、武威を示す。

幕府は、その威嚇に屈伏し、その年の3月3日に、日米通商条約を締結させられるのである。

それらの条約は、相手国の治外法権を認め、日本の関税自主権を認めないという不平等なものだった。

それを見て、オランダ、イギリス、フランス、ロシアからも、同様の条約を締結させられたのである。

それから、15年間、日本は、大揺れに揺れる。
幕末の大動乱である。

民族の内部が各派に分れて闘争し、騒然たる無秩序の時こそ、西欧列強の侵略のチャンスである。フランスは幕府を支持し、イギリスは反幕派を応援したりして動乱を扇動することにつとめた。
清水馨八郎

1858年、井伊直弼が大老に就任する。
尊皇攘夷者への弾圧が始まり、吉田松陰、橋元佐内、頼三樹三郎ら、多数の志士が、安政の大獄で、処刑された。

尊皇攘夷とは、天皇に政を奉還する。反幕府である。

そして、1862年、薩摩藩主の父、島津久光一行が、江戸からの帰途、相模の生麦で、行列を横切ったイギリス人数人を、藩士が斬り付け負傷させるという事件が起こる。
翌年、イギリスは艦隊を率いて、その報復に鹿児島を砲撃した。

更に、その翌年に、英米仏蘭の四カ国が、16隻の連合艦隊で、長州の下関を砲撃し、三日間で、全砲台が破壊され、占領された。

薩摩と長州は、この戦いで、列強の威力を思い知らされたのである。
目の覚める思いである。

もう、国内で争そっている場合ではない・・・
このため、坂本竜馬が、斡旋して、薩長同盟が成る。
それにより、幕府の大政奉還が成り、王政復古を早め、江戸城の無血開城となった。

明治維新である。

幕末は、西欧列強に飲み込まれようとしていた時期である。
それを救ったのは、各藩の下級武士たちが、幕府、藩の利益を越えて、日本国のために、一致団結したことである。

それを何と表現するか・・・
武士道と大和魂・・・

小を捨てて、大に着く。
現在も、その時期であろうと、思う。
しかし、武士道は、廃れ、大和魂は・・・

国を愛して何が悪い
のである。

posted by 天山 at 02:28| 国を愛して何が悪い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月16日

国を愛して何が悪い47

ロシアは、13世紀から15世紀にかけて、250年間、モンゴル帝国の支配下にあった。

更に、その後は、トルコのオスマン帝国の支配を受けた。

そして、ようやく、東洋からの侵略を撃退することができたが、次は、西洋からの、侵略である。

ポーランド、スウェーデンからが、モスクワを占領している。
だが、それを救ったのは、冬である。

ここで、清水馨八郎は、地理は歴史の母である、という、明言を言う。
まさに、その通りであろう。地理は、歴史を作るのである。

今では、地政学と言われて、無視することが出来ないことである。

1480年、イワン三世は、ハン国から独立する。
そして、ビザンチンの後継者、東方教会、つまり、ギリシャ正教の擁護を持って任じ、専制君主制を作り上げた。

ロシアの前進である。

その孫、イワン四世は、古い貴族勢力を抑え、中小貴族、商人たちの支持を得て、コサックの活躍で、領土もシベリアを加えて、絶対主義の基礎を固めた。
1547年から、皇帝の称号を正式に用いて、君臨する。

その後、1613年、ミハエル・ロマノフが即位すると、ポーランド、スウェーデンなどの干渉を排して、国内を平定させ、ロマノフ朝を開いた。

以後、ロシアは、1917年のロシア革命まで、皇帝、ツァーリを核心とする、絶対主義の国家として、発展した。

共産革命後も、絶対主義が自然移行したのは、ロシアには、絶対主義を受け入れる素地があるからである。

ロシアの近代化は、ピュートル一世の、1682年から始まった。
国民に、兵役の義務を課し、黒海艦隊と、バルチック艦隊を創設し、コサック騎兵隊を用いて、周辺諸地域を侵略する。

それから、ロシアの侵略国家としての、アイディンティティが、出来上がるのである。

南下政策が、ピュートル以来の、ロシアの伝統的国家目標となるのだ。

1700年からの北方戦争で、スウェーデンを破り、ポーランドにも、優越する地位を獲得し、バルト海の覇権を握る。
南方では、トルコと戦い、ドン川河口を収奪する。

東方のシベリア進出は、1706年、カムチャッカ半島を占領し、ロシアの版図は、太平洋まで広がる。
中国とは、1698年、ネルチンスク条約を結び、外興安嶺を国境と定めた。

更に、アヘン戦争で敗北した清の弱みに付け込み、黒竜江以北の地を、分割させた。

その二年後には、清と北京条約を結び、ウスリー川以東の沿岸州を譲り受ける。

更に、ウラジオストックに港を建設し、日本や朝鮮の脅威となるのである。

日本側から見ると、幕末に、三方からの、侵略勢力と対峙することになるのである。

西欧列強は、直接的に日本に手をかけることはなかったが、中国、満州へと勢力を伸ばした。
日本を取り巻く、状態が緊張の度を高める。
そこで起こったのが、日清、日露戦争である。

その勝利は、極東の国である、日本が、世界に注目された、世界史上の大事件であった。

更に、国際的には、非白人民族を感激、興起させたのである。
この戦争が、世界史の流れを変えることになる。

さて、清は、アヘン戦争に負けて、西側からの列強の分割に屈した。
そして、朝鮮は、寝惚けていた。
清は、朝鮮の内乱に付け込み、軍を進めて支配を強化する。何故か。朝鮮は、清の属国であるからという、意識だ。

日本にとり、朝鮮は、国家防衛の生命線ともいえる、位置にある。
だから、朝鮮を独立させるために、日清戦争を起こしたのである。
戦争は、予想以上の連戦連勝であった。

1895年、下関講和条約が結ばれる。
その内容は、朝鮮の独立を認める、遼東半島、台湾、ショウコ島を日本に譲る、賠償金、三億円を支払う、である。

しかし、その六日後に、満州進出に野望を持つ、ロシアが、ドイツ、フランスと組んで、遼東半島を清に返還するように迫る。
三国干渉である。

当時の日本は、三国と戦う力なく、止む無く、返還することにしたのである。

そして、ロシアは、即座に、遼東半島を清から譲り受けて、旅順に大要塞を築いた。
ロシアの厚かましさは、それ以前からあったが、それは、目に見えて、酷いものだった。

そして、列強の中国進出は、一段と激しくなった。
山東省をドイツに、威海衛をイギリスに、広州湾は、フランスに租借されて、中国は、ズタズタに分割されたのである。

だが、1900年、中国民権運動を刺激したゆえに、扶清滅洋を掲げる、義和団の運動が起こる。
列強は、居留民を守るため、軍隊を派遣し、北清変事となる。
ところが、鎮圧されても、ロシア軍は満州に居座る。そして、朝鮮に勢力を伸ばすのである。

日本は、ロシアに対抗するために、日英同盟を結び、朝鮮半島を救うために、ロシアに宣戦布告した。

1904年である。

この日露戦争こそ、世界史を変える原動力になる。
更に、唯一、有色人種である国が、国際連盟に加入するという。

日本の存在がなければ、朝鮮は今頃、どうなっていたのか。
ロシアの一部、あるいは、中国か・・・


posted by 天山 at 06:10| 国を愛して何が悪い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月17日

国を愛して何が悪い48

ロシアの満州と朝鮮への、あからさまな侵略行為に対して、日本は自衛のために、1902年、日英同盟を締結し、ロシアの極東侵略を阻止するために、日露間の戦争は、避けられない情勢となる。

ここで、一言言えば、満州、朝鮮共に、そのことに触れないのである。
あれで、侵略されたら・・・

中国も、韓国、北朝鮮も、無いのである。
それなのに、ただ、反日だけがある。
つまり、歴史を学んでいないのである。

日本は、そのために、自国のみならず、満州、朝鮮を護るために、自衛の戦争をしたのである。

陸軍は、満州に出兵し、ロシア極東の大要塞である、旅順の難攻不落を誇った二百三高地を、乃木大将は、59000人の死傷者を出しつつ、陥落させた。
続いて、奉天大会戦に勝利する。

その際に、乃木大将は、北海道、旭川で新しく生まれた、第七師団の精鋭の増援を頼み、最後の突撃を試みた。

乃木大将は、この戦いで、最愛の息子二人を戦死させている。

深く哀悼の意を・・・

ロシアは、陸の劣勢を挽回すべく、西欧で最強といわれる、バルチック艦隊を極東に回航させた。
ここに、世界中が、固唾を呑んで見守った、日露戦争の壮絶さがある。

日本海海戦である。

日本の連合艦隊司令官は、東郷平八郎。

東郷は、対馬にすべてをかけると、決意した。
そして、ロシア艦隊は、対馬に現れた。

戦いは、見事なT字戦法により、半日で、完全に近い勝利を収めた。
ウラジオストックに逃れたのは、二隻である。
残りは、沈没、捕獲された。

日本軍は、無傷である。

勝因は、戦術の巧みさ、猛訓練、日本が発明した、下瀬火薬の威力などが、挙げられる。

日本の勝利は、世界の人々を、驚嘆させた。
世界戦史上に、名声を留める戦いだった。

そして、何より、この報を聞いて喜んだ国々がある。
ロシアに圧迫され、蹂躙されていた、フィンランド、ポーランド、トルコなどの国である。

そして、何より、色付き人間といわれた、黄色人種、黒人たちである。

当時、列強に植民地にされていた世界中の被抑圧民族を感動させたのである。

独立への夢を、日本が与えたのである。
日本は、希望の国になった。

そして、その時から、人類解放の第一歩が踏み出されたのである。

だが、敗戦後の日本の教科書には・・・
占領政策により、日本去勢化を狙った、占領教科書のままに続いている。

この意義ある、戦争を侵略戦争だという馬鹿もいる。

日露戦争における勝利で、日本は、ひとまずロシアの中国、満州の侵略を食い止めることができた。さらにその勝利は、大国の抑圧に苦しむ多くの国家、民族を狂喜させ勇気づけた。
清水馨八郎

もちろん、朝鮮もである。
朝鮮民族は、相変わらず、寝ぼけていた。

だが、ここから、更なる困難がおきてくる。

日本の勝利を快く思わない国である。
朋友だった、イギリス、アメリカ。
ロシアは、復讐の念である。

アメリカは、日露戦争終結までは、好意を持って、日露講和会議を仲介した。
それは、つまり、アメリカも満州を狙っていたからである。

日本が、それを阻止してくれたのである。

だが、日本の強大化は、アメリカにとって、アジア、太平洋の覇権、中国市場独占に邪魔になるものである。
つまり、一変して、日本を仮想敵国とした。

その時の、大統領である、セオドア・ルーズベルトは、日本打倒の、オレンジ計画をすでに国策としたのである。

これは、日米戦争の、あらゆる場面を想定した、侵略戦争計画である。

以後の、日米交渉は、それに則り、開戦の挑発から、終戦、占領政策などに至り、すべて、この日本侵略計画で、貫かれた。

大正三年、1913年の、パナマ運河開通から、アメリカは、太平洋はわが国の領海として、縦横無尽の活動を始める。
このアメリカの、アジア、太平洋の野望を妨げる勢力として、日本の存在を敵視し始めたのである。

昭和七年、1932年、フランクリン・ルーズベルトが大統領に就任する。
引き続いて、オレンジ計画を実践すべく、日本を極端に嫌い、在位四期の長期政権の間、一環して、日本打倒の謀略に情熱をかけたのである。

つまり、第二次世界大戦、大東亜戦争は、仕組まれたものなのだ。

如何に、日本側が、天皇陛下はじめ、多くの人たちが、戦争を回避するために、尽力しても、戦争は、免れなかったのである。

だから、言う。
日本は、戦争に引きずり込まれたのである。

それについては、後々で、書く。
あるいは、別エッセイ、天皇陛下についてを、参照ください。

posted by 天山 at 06:53| 国を愛して何が悪い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月18日

国を愛して何が悪い49

さて、ロシアについて、続ける。

近世500年の世界史では、イギリスとロシアの世界侵略による、領土拡大の規模は、甚だしいものがある。

イギリスは、七つの海に君臨する、大英帝国を、ロシアは、陸の道を通り、大ロシア帝国を築いた。

ロシアの面積は、世界の六分の一、日本の60倍である。
ユーラシア大陸の大半を占めたのである。

その、ロシア大帝国も、日露戦争で敗北し、ロマノフ王朝は衰退する。
続く、レーニン革命で、王朝は、壊滅する。

ロシアに代わったのが、ソ連である。
ソ連は、これまでの欧米列強とは違う新手で、世界侵略に再び乗り出すのである。

ロシアは、100の民族、80の言語、宗教も多様である。
これを一つに束ねていたのが、ロマノフ王朝のツァーリズムである。
その王朝が倒れた後、そのツァーリズムに代わるものが、マルクス主義である。

ソビエト社会主義連邦共和国である。

1919年、共産主義インターナショナル、つまり、コミンテルンは、世界に向けて発進された、革命手法である。

コミンテルンが指示したテーゼは絶対で、それに異を挟んだり、反対することは許されなかった。反すればたちまち反党分子、反革命分子として追放された。
清水馨八郎

革命自体を、交易の対象とした・・・
つまり、イデオロギーの輸出である。
今までには、無い手法である。

20世紀は、人類史上最大の戦争と、革命の世紀だった。
清水氏は、最大の国家犯罪を三つあげると、第一が、ソ連の強制収容所、第二が、ドイツのユダヤ人虐殺、第三が、アメリカの原爆投下であると、言う。

それは、いずれも、西欧系の白人主義の、残虐性の極みである。

殺人が、公認され、奨励されるのは、戦争のみであったが、それに革命が加わったのである。

ロシア共産主義者の辞書には、罪、犯罪という言葉が無い。
共産主義者は、何をやっても、許される。常に正しい。共産主義のためなら、罪にならないのである。

この蒙昧が、吹き荒れた。

十月革命では、銃殺などで、100万人が処刑された。
その対象は、ロシア皇帝からはじまり、王族たち、貴族政治家、軍人、官僚、僧侶、地主、資本家・・・

だが、それだけでは、終わらない。
大粛清がはじまるのである。

つまり、カンボジアのポルポトが真似たもの。
共産主義者が共産主義者を、標的にし、捏造して、処刑、殺害するという、地獄である。

それを、作家のソルジェニーツィンが描いた。
逮捕は突然やってくる。密告、策謀、でっちあげ・・・しかしどんな場合でも、一度逮捕されたら、正義を期待してはいけない。法律は護ってくれないのだ。厳しい審問、自白強要、判決、流刑・・・黒いカラス「護送車」に乗せられ、中継監獄を経て、ウラルへ、シベリアへ、中央アジアへと送られてゆく。もはや家族とも想い出とも、一切から訣別しなければならない。
収容所には自由は無い。空っぽの監獄はあったためしは一度もない。いつも満員か超満員、粗末な食事、強制労働、炎暑の夜は、南京虫と蚊が肉体を責め、酷寒の冬は手足の感覚もなくなる。そして闇の大地に、記憶の糸を紡ぎつつ冷たい屍となって還ってゆくのだ・・・

ソ連は、これを世界中に輸出したのである。
中国、北朝鮮、ベトナム、カンボジア、東欧、アフリカ大陸、中南米と。

ソ連で起こったことが、それらの国々でも、起こった。
そして、その犠牲者は、1億7千万人である。

16世紀から、18世紀にかけて、白人キリスト教徒たちが、南米アメリカで原住民を神の名において、一億人抹殺した。更に、アフリカから、数千万人の奴隷を連れ出し、その半分以上を不良品として、大西洋に捨てた残虐さも、マルクス主義による、虐殺には、及ばないのである。

宗教に代わる、宗教的イデオロギーである。

さて、日本でも、敗戦後は、このマルクス主義に洗脳された、多くのシンパが色々な分野に入り込んだ。
そして、社会主義を扇動した。

大学教授、学生、日教組、教育界とマスコミ界に、吹き荒れた。

東大教授のような、日本のエリートの中にも、反国家、反体制社会革命の思想家たちがいた。

だが、ソ連崩壊後の今でも、存在する。

共産主義という、幻想の世界の中に身をおいて、死ぬまで、その幻想から逃れられなかった人々。

つまり、夢見る人々である。
共産主義が、失敗に終わっても、更に、本当の共産主義が存在すると、信じる。もはや、それは、信仰である。

人間は、一度信じるという心的状態を体験すると、そこから、抜け出せなくなる。
そして、抜け出しても、更に、別な対象を信仰したいという、欲求が起こる。

我以外の、何物かに、託すと、我を忘れて、それを我にすり替えてしまうのである。そして、我の意識は、混濁し、あたかも、それが、我だと信じ込むのである。

我疎外、自己疎外の最たるものである。
だが、人間は、イデオロギーの信仰から、免れないようである。
従って、生きているつもりで生きるのが、人間の性といえる。


posted by 天山 at 06:11| 国を愛して何が悪い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月19日

天皇陛下について139

天皇の長い歴史には、悲しいことも多くある。
そのひとつが、二つの朝廷である。

北朝を、持明院統、南朝を、大覚寺統という。

それを説明する。
第八十八代後嵯峨天皇のあと、皇太子、久仁親王が即位され、第八十九代、後深草天皇である。

次は、その御弟の、第九十代、亀山天皇であり、これは、後嵯峨天皇が、亀山天皇のご英邁なことを察して、その御子孫に、皇位をと考えられたからである。

そして、亀山天皇は、親政を行われた。
兄院の、後深草上皇の院政を、差し置いたことになるのである。

そして、第二の皇子、第九十一代後宇多天皇に、御位を譲られ、院政を執られる。

後深草上皇は、まだご在世である。
つまり、少しも政治に関与することがなかった。

そこで、後深草上皇は、ご出家あそばそうと、執権北条時宗に、その意思を伝える。
時宗は、それは、気の毒であると、宇多天皇の皇太子に、後深草天皇の皇子を、お立てになられるのはと考えた。
そして、両上皇のお許しを得た。

これが、第九十二代、伏見天皇である。
だが、この天皇の御世になると、後深草上皇が、亀山上皇にかわり、院政を執られ、その皇太子には、伏見天皇の御子、胤仁親王を立てる。

この皇太子が、第九十三代、後伏見天皇である。

このあたりから、朝廷では公家や役人が、二派に分かれることになってゆく。
更に、幕府から、後深草天皇からの意思により、調停役に立ったこともあり、後深草天皇に好意を寄せる。
つまり、亀山系統には、距離を置くのである。

執権は、時宗から、その子の貞時に移る。
貞時は、そこで、両系統から、交代で、皇位に就かれるようにと、諮問に答える。

だが、ここに、北条の計略があったのである。

歴史は、両系統対立から、建武の中興へという、激しい時代に向かってゆくのである。

南朝、大徳寺統は、最初から、幕府の処置に不満だった。
そこで、後醍醐天皇が、御位に就かれるにおよび、十四代前の、後鳥羽上皇の、御志を継がれて、倒幕へと。
更に、その系統を長く皇位に就くためにと、考える。

当時、公家政権は、武家政権に完全に服していたのである。

皇室の、重大な皇位継承に関しても、幕府の了解を得るという、形になっていた。

それは、違うと、建武の中興が、起こるのである。

北朝といわれる持明院へ、お渡りになる前の、伏見天皇について、少し説明する。

伏見天皇は、敬神の念深く、賢所、かしこところ、の御拝を伝える記録が多い。
その日記も、多い。

ここでは、その御製を紹介する。

神や知る 世のためとてぞ 身をも思ふ 身のためにして 世をば祈らず

いたづらに やすき我身ぞ はづかしき 苦む民の 心おもへば

いずれも、わが身を牽制して、民のために祈る天皇の姿がある。

その日記にも、
元来更に、私無し。ただ万民の安全、国家泰平、万世のため益あらんがためなり。

更に、
神の恵みにより、末代までの人は皆、敬神の誠のゆえに、その助けまた、遥かに及び難し・・・
訳・天山

天皇の心に、私無く、ただ国民のために祈る。
末代の人々までに、神の恵みにより、その助けがあるようにと、祈る天皇である。


北朝も、南朝も、共に、後嵯峨天皇からの流れである。

さて、北朝の、歴代天皇の中でも、学問第一といわれる、第九十五代、花園天皇である。

花園天皇は、南朝の後二条天皇が崩御された後に、御位に就かれたのが、12歳の時である。
そのご治世は、およそ10年である。

ご即位の際に、後宇多上皇にかわり、御父、伏見上皇が、院政を行い、17歳の時に、政務は、後伏見上皇に移った。

22歳の年に、皇太子、尊治親王に御譲位される。

親王は、33歳である。
第九十六代、後醍醐天皇である。

花園天皇には、名作がある。
誡太子書である。
それは、後伏見天皇の第一皇子、量仁親王のために書かれたものであり、親王は、後醍醐天皇の皇太子となっている。

量仁親王は、花園天皇の、甥に当たる。
やがて、御位に就かれる。
そのために、教育に心を砕かれたのである。

親王は、後に、北朝初代の光厳帝、こうごんてい、である。

花園天皇の、誡太子書については、次の回で、紹介することにする。

両系統の朝廷が出来たのは、矢張り、武力政権の鎌倉幕府、つまり、北条が力を持ち、朝廷の力を削いだことからである。

時代は、北条討伐へと流れてゆくのである。

posted by 天山 at 06:12| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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