2012年12月31日

ミャンマー難民孤児に逢う2

行為する者は、色々と言われる。
誉められることは忘れるが、けなされることや、中傷されることは、中々忘れないもの。

まず、慰霊に関しては、変な理屈を捏ねられる。
英霊といえば、誰もが何も言えない・・・
だから、云々・・・
あまり、意味の無い中傷なので、忘れる。

更に、宗教・・・
追悼慰霊が、宗教と結びつくという・・・
慰霊の行為は、極めて私的な感情である。

それはまた、公開しなくてもいいもの。
何故、公開したのか・・・
それは、衣服支援を始めたから。

それでは、最初からの、流れを説明する必要がある。

更に、衣服支援が広く大きなことになった。
ボランティアという言葉が必要になる。

そして、このボランティアという言葉には、様々な憶測推測がつく。

無償の行為であるから・・・
実に、難しい。

もし、それに意味をつけて理解させるとしたら・・・
宗教の布教が一番、手っ取り早い。

だが、無償の行為である。

無償の行為を説明するほど、難しい事は無い。

更に、衣類を支援してもらうための説明である。
信じてもらうしかない。

横流しすることは、衣類支援のみならず、多くの支援に付き物である。
特に、お金の支援は、最も、恐ろしい。
何に使われたのか、解らないのである。
更には、個人の懐に入ってしまうことも多々ある。

そして、ボランティア行為の、偽善性である。
それは、私がボランティアなる行為をはじめた、13歳頃からあった。

一度や二度の、ボランティアは、正に、偽善的である。
ただ、語源から見ると、ラテン語からのもので、生きる意味意識という意味。

だから、本当に語源通りに行為すると、それは、私の生きる意味意識に関することになる。

更に、ボランティアをするには、される側の人間が必要なことである。
ボランティアをするには、して上げるべき人が必要なのである。

それを憐れむのか、否か。
だから、ボランティアをする人は、よく、こちら側が元気を貰った、勇気を貰ったなどという羽目になる。

ボランティアは、最初から、こちら側の問題なのである。

更に、何もしない人には、とても偽善に見えるし、また、嫉妬も起きる。何故なら、いい格好しいと、映るからである。
そしてそれは、いい格好しいという、最も偽善的な思考をするからである。

だが、語りは、行為に適わないことを私は知っている。

矢張り、やった者が正しい。

そして、やり続けた者が勝つのである。
何故なら、生きることは、行為することであり、その表現によるものであるからである。

無償の行為は、相手に何も求めないが、それより、相手を必要とするというところに、大きな意味がある。

助ける相手がいなければ、成り立たないのである。

だから、相手の存在に感謝するしかなくなる。

必要としない人に、その行為は、出来ないのである。
必要とする人がいる、それが、ボランティアの救いである。

だから、その行為に対して、何かを言われても、せん無いことなのである。

更に、もっと、根元的な、言い分がある。
何故、国内でしないのか・・・
これが、言う者の、大きな言い分になる。

それは、とても、卑劣である。

それでは、国内でしていることを、延々として書いたら・・・
どう思うだろうか・・・
私は、国内でも、しているからである。

それこそ、嫌味である。

聖書作家がイエスに言わせる言葉がある。
右の手が良い事をする時は、左の手に知らせるな・・・

つまり、良いことをする時は、誰にも知られないようにせよ、である。
隠れておられる神だけが知るように・・・

祈りも、そのように言う。

それは、当時のユダヤ教の偽善に満ちた時代であるから。

養護施設に、マンガの主人公の名で、ランドセルを贈る人がいた。
マスコミは、それを讃えて紹介する。
しかし、偽善的な人には、それは、実に嫌味な行為と見なされる。

この世は、そのような人の集まりなのであるから、当然である。

更に、慈善家とは、金持ちがやることと、勘違いしている人がいる。
そして、そういう人たちは、インドのマザーテレサのことを勘違いする。

あれだけの、大きな慈善をするということは、経済感覚がとても立派だということである。
マザーテレサの経済学まで、書かれるほどなのである。

金を集める才能があったのである。
祈りで、金は集まらない。

そして、世界のカトリック信者を背後につけた。
とても、一筋縄ではいかない人である。

ノーベル平和賞まで受賞して、この世の名誉を存分に受けた。
私は、マザーテレサのようなシスターを多く知るが、誰も、そのようにならないのである。

資金が無くなった際に、私も宗教団体を考えた。
宗教の教組になるのではない。
宗教団体を背後に付けるのである。

だが・・・
少しばかり、私は頭が良かった。

この活動を宗教の広告塔にしてはならない。

単なる、私的な極めて私的な行為でいいのである。

私が死ねば、それで終わる。
その意思さえ、無くなる。
それで、いい。

後に続く者・・・
そんなことを、考えたこともない。
こんなことは、私一人で十分である。
それほど、どうでもいいことなのである。
更に、語り継がれるほどの、馬鹿ではない。



posted by 天山 at 07:21| ミャンマー難民孤児に逢う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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