2012年12月30日

ミャンマー難民孤児に逢う

戦争犠牲者追悼慰霊をはじめ、そして、衣服支援をはじめて、丸六年を経た。

最初は、追悼慰霊だけであった。
そして、出掛ける国と地域の人々に、衣類を持参することにした。

数えてみると、15カ国になっていた。

現地に行き、人々との交流。
現地を見聞した成果である。

言ってみて、解ること。
決して、単なる情報ではない。
情報を得る方法は、数多くあるが、出掛けて見る、聞くことで、更に、現地の様子が解る、理解出来る。

当初は、様々な人が、情報をくれたが・・・
全く、役立たずだった。
彼らは、単に、情報を知るというだけのことで、現地に出掛けていないのである。
解るはずがなかった。

更には、批判、そして、中傷まで・・・
色々と、言われたが、続けた。

そして、今では、私は、私の見たこと、聞いたことが、事実であることを知るのである。

更に、大戦の跡・・・
それも、現地で解る。

戦記に書かれたことを、私は、現地で追体験した。

そして、支援の有り方である。
単なるボランティア活動ではない。
必要とする人と、必要とする物・・・

貧しい国と一口に言えない状況を見た。

東南アジア、南太平洋の国々。
貧しいが、貧しさは、同じではない。

フィリピンの島々で、貧しくとも、とても明るく生きる人たちを見た。
その逆もある。

そして、貧しいということも、考えることが出来た。
日本は、豊かな国であるが、どこか、貧しいのである。

経済的に貧しいことと、精神的に貧しいことは、違う。
しかし、その違いは、見ることによって、解る。

更に、心の貧しさと、豊かさである。

インドネシア、バリ島の子供たちは、貧しいが、精神的に貧しい訳ではない。
大人と共に、バリ島の伝統を受け継ぎ、嬉々として、その伝統に参加している。

最も、貧しいのは、カンボジアと、ミャンマーの少数民族である。
そして、ラオスの山間部。
ベトナムの、少数民族・・・

チューク諸島の貧しさは、構造的なもの。
島に仕事が無い。
故に、グアム、ハワイに出稼ぎに行き、家族に仕送りする。

まだまだ、色々ある。
話は尽きない。

六年のまとめのように、私は、今回、タイのメーソートにある、ミャンマー難民の孤児たちの施設に向かった。
ミャンマー国内の孤児施設も、単独で見つけた。

最初に支援をしたのは、私である。
少数民族の子供たちだった。

彼らは、ミャンマー北部、東北部に住む少数民族の子供たちである。
国軍から、村を焼き払われ、親を殺された。
軍政時代の負の遺産である。

メーソートは、ミャンマーの町、ミャワディという町と接する、国境の町である。
民主化により、国境が開いた。

次第に、観光客も多くなる様子である。
タイ人たちも、観光に訪れる。

国境が開いたと同時に、ミャンマーからも、人がどっと、タイ側に向かっていた。勿論、正規に入国した訳ではない。
川を渡り、すぐにメーソートに入ることが出来る。

ミャンマーで食えなくなった人たちが、押し寄せていた。
だから、以前より、物乞い、ストリートチルドレンも多い。

更に、ミャンマーから出て来た人たちは、土地の空いている場所に、小屋を建てて、住み始めた。

民主化は、政治的に、上の人たちによるものであり、下の国民にまでは、まだまだ遠い道のりである。

ミャンマーに戻り、仕事を得るのは、いつの日になるのか・・・
解らない。

タイには、ミャンマー、カンボジア、ラオスなどから、移民、難民として、500万人以上が入国しているという。
凄いことである。

だが、タイ人は、彼らを追い出さない。
それは、安い料金で働いて貰えるからである。
要するに、3Kの仕事を彼らが、請け負うのである。

タイ政府が最低賃金の法律を作ったゆえに、更に、移民、難民は、働き手として、注目される。
非常に矛盾であるが・・・

そして、二年後に迫る、アセアン諸国連合の一体化である。

インドまで達する幹線道路の建設が、急がれている。
日本の支援により、ミャンマーから、ベトナムに抜ける幹線道路の建設が進む。
二年後は、アセアン内では、パスポートがいらない。

その、アセアンプラス1になるべく、中国、韓国が狙うのである。

その、1は、日本になる確率が高いと私は、見ている。




posted by 天山 at 06:22| ミャンマー難民孤児に逢う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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