全く、古神道とは、言えないものである。
それは、後に詳しく書く。
例えば、鎮魂帰神法により、神の声を聞くという、本田親徳、ほんだちかあつ、などは、単に霊の声を聞いて、神と信じたものである。
更に、霊学とは、全く関係無いのである。
極めて、個人的な感情と情操である。
更に、言霊学者として知られる、大石疑真素美、おおいしごりますみ、などは、単なる妄想である。
美濃の修験道者に師事するというから、そこから得られるものは、道教、密教などに汚されている。
異境と現界を行き来したという、宮地水位、みやじすいい、は、あくまでも、異境であり、霊界ではない。
その書を読むが、壮大な異境の様であり、一体、どこの異境なのか、解らない。
あたかも、霊界の姿を見たように記述するが・・・
ほんの、一部分の世界でも、それほど壮大に思えるのが、幽界などの世界である。
見せられたのである。
その他諸々、復古神道に関係した人たちは、古神道を知らない。
難解な言葉、文字を使用して、煙に撒くような著書をする。
本当に古神道ならば、もっと、シンプルで素直なものである。
更に、幕末辺りの新興宗教の教派神道といわれる者たち、つまり、教組たちである。
金光教、黒住教、天理教、そして、大本教・・・
単なる、霊の声を神の声と解釈して、とんでもない妄想を広げた。
それぞれに、神の名を付けて、我こそ、真実の神であるぞ・・・
とは、笑わせる。
その後、教義をベタベタと貼り付けて、宗教らしく見せたが・・・
子供騙しである。
例えば、ある本では、天理教の教組、中山みき、の神憑りは、民族的無意識の領域ともいえると、書くのである。
それでは、心理療法の見方からすれば、精神的疾患である。
我は元の神、実の神である。この屋敷に因縁あり。このたび、世界一列を助けるため天下った。みきを神の社にもらい受けたい・・・
と、出て来た霊は、一体何物であろうか。
神が元の神、実の神と言うか・・・
更に、因縁とは、仏教用語である。
みきを神の社、やしろに、もらい受けたい・・・
明らかに妖しい霊である。
更に、大本教の出口ナオになると、もっと、激しくなる。
天理、金光先走り・・・などと、実に排他的である。
そして、大元の神は、日本の最初の神という。
天理も、大本も、天皇の存在を否定した。
つまり、それ以前の神であるというのである。
それでは、古神道の神か・・・
違う。全く違う。
単なる、霊である。
神と名乗り出てくるような、神などいない。
存在しない。
出口王仁三郎、でぐちおにさぶろう、とは、誇大妄想の最たるものである。
それこそ、超人といわれるほどの、妄想を発揮して、霊界物語を口述し、弟子たちに書かせた。
大本教からの、分派がいかに多いか。
それは、その霊団が巨大だったということである。
一つの霊ではなく、教団を作るほど、霊の数が多い。
霊団に取り込まれた教組たちである。
幕末前後の、混乱は、幽界の混乱であるから、当然、このような精神的感受性の強い者に、幽界の霊、霊団が関わる。
更に、それらが、皇室気取りであったということである。
勿論、今現在の、新興宗教も、多く皇室気取りである。
それでは、皇室の神道はというと、それも、古神道ではない。
あまくまでも、弥生神道であり、縄文神道ではない。
古神道という場合は、縄文期の人の心に芽生えた、和の心と天地万物に対する、畏敬と、すべてに霊が宿るというものである。
復古神道も、教派神道も、古神道ではない。
次第に、本格的になってきたので、一度、整理する為に、まとめてみることにしたい。
復古神道は、後に、国家神道へと変身する。
そして、敗戦により、国家神道は解体され、一つの宗教法人とされた。
神社神道となり下がるのである。
神社神道の元は、弥生神道である。
その弥生神道は、道教、儒教、仏教によって、変身を迫られた。
侵食されて、建物を主にした、神社神道へと移行する。
教派神道といわれる、新興宗教は、全く、意味が無い。
単なる、教組のお祭り事である。
つまり、教組の自己顕示欲と、考えるとよい。