2012年12月26日

神仏は妄想である。395

神仏は妄想である。
そのエッセイを書いている。
そして、今は、神社神道である。

その神社神道の中には、古神道の流れがある。
古神道との違いは、建物である。
神社という、巨大な建物が、神社神道の特徴であり、それを私は、堕落と言う。

さて、この神仏という、言葉である。
神という概念、仏という概念を明確にしておく必要がある。

漢語が日本に入ってきた際に、神という言葉も、入った。
その際の、神とは、神鬼という言葉と共にあった。

きじん、である。
それは、多くの場合、死後の人間の霊、あるいは、魂、そして、精霊や、その他諸々の目に見えないものを、指していた。

日本は、その言葉を、最初は音だけを利用していたはずである。
日本の、カミという言葉は、上であり、守であり、監であり、督であり、集団の長を言う言葉だった。

大和言葉では、カマ、カム、そして、カミと変化した。

厳密に神とは、超越した存在であり、創造主であるというのは、明治期に、西洋思想が入り、特にキリスト教による、唯一の神という概念になった。
だが、その際の、神という言葉では、日本の神を説明できないのである。

日本神の意識は、祖霊に対し奉り、畏れ賢むものという、意味である。

神の観念が違う。

であるから、天皇を上、カミと、呼んでもおかしくないのである。
唯一絶対の超越した神の存在が無いのである。

古事記が書かれた際に、神という言葉で、天照大神などが登場するが、それは、唯一絶対の神観念ではない。

神は、多数存在した。
多神教というが・・・

もし、神も霊ならば、当然、多神教である。
だが、一神教は、神は、霊を超越するものとしているのである。

さて、神社神道は、古神道の流れを汲むが、一体、神社神道と、古神道とは、どこから区切れるのかといえば、区切ることは出来ない。
流れである。

江戸時代に入り、国学が現れ、そこから、復古神道という流れが出来て、そこから、古神道という言葉が登場するが・・・違う。

もし、文献を挙げろと言われれば、日本最古の歌集、万葉集によるといえる。
だが、万葉集は、歌である。
何一つ、古神道に関するものは無い。
だが、そこから、万葉集以前の、精神を探る事が出来る。

古神道の経典は、万葉集といえる。
しかし、それは、実に手探り状態なのである。

そして、更に、古神道以前の神道を、古道という。

別名、縄文神道である。
だが、そこに行くと、最早、精神の未分化な状態の信仰となる。

古代信仰のことである。

江戸時代に起こった、復古神道から、古神道の源流を見るという行為は誤りである。何故か。それは、復古神道を唱えた者たちは、妄想全開だからだ。

それこそ、神は妄想の世界である。

何度も書いているが、古道も、古神道も、本来、神社神道も、所作をのみ存在するものであり、それを言葉にすると、誤るのである。

まして、一人の人間が、特殊能力により、語るということは、限りなく危うい。
それは、その人だけのものであり、その人の世界である。
それを以って、古神道とは、言えない。

例えば、盆踊りというものがある。
それは、踊りの振りを伝えて行くことであり、そこに思想も何も無い。
それを踊ることにより、その祭りに参加することであり、それ以上の意味は無い。

だが、そこには、様々な、その地域の思いが入り込む。
歴史も何もかもが、踊りとして、表現されるのだ。

自然発露である。

所作による、自然発露を、古神道、古道と呼ぶ。

勿論、それは、どんどんと洗練されて行く。
時代に合わせて、変容する。
だが、踊ること自体の意味は、変わらない。

原始宗教行為は、皆々、そういうものである。
それを、どう論じてもいいのである。そして、その論じることは、人それぞれである。
だが、論じることによって、何か、教義が現れることは無い。

体系として、成り立つ教義を重んじるというのは、一つの試みである。

原始宗教行為には、教義は必要ない。
所作により、表現することで、皆と繋がり、更に、祖霊と、そして、霊と繋がる。それ以上のものではない。

更に、偶像崇拝でもない。

踊るという所作によって、人は、祖霊と霊とが繋がり、そして、踊る者は、そのものになることもある。
つまり、踊る者が、拝むものであり、拝まれる者になる。
それが、古神道であり、古道である。

特別な修行を要するとか、特別な人にしか出来ないことではない。

例えば、黙祷とは、誰もが出来ることである。
だから、古道を知る者は、黙祷を貴ぶ。

古代は、集落の長が、そういう行事の長でもあった。
その良い例が、天皇である。
日本国の祭祀を司る、祭司なのである。

ある集落では、持ち回りで祭祀の長を決めていた。
それは、誰もが出来ることなのである。

古神道、古道は、一人、一宗教者となるのである。
そして、それは、百人百様の宗教の姿があるということである。

古神道、古道では、人の数ほど、宗教があると、言ってもいい。
そして、それが、自然な姿なのである。

これが、日本の神、あるいは宗教の概念である。




posted by 天山 at 04:54| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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