2012年12月25日

神仏は妄想である。394

神社神道の前進は、古神道である。
そして、古神道の前進が、古道である。

さて、古神道に移るに当り、面白い発見があった。
縄文時代の初期に、犬の埋葬を行っていたという、報告である。

犬も埋葬していた・・・
そんなことは、どの文明にも、見当たらないのである。
動物は、人間の支配下にあるもので、殺しても、どうしてもいいのである。特に、ユダヤ、キリスト、イスラム教では。

縄文初期に、すでに、犬を埋葬した・・・
凄い感性である。

これが、古道につながる。

日本には、カミとは、上、守などを、カミと呼んだ。
あえて、神という観念的な言葉を使うなら、魂、タマのことである。

そして、そのタマは、天地自然、すべての万物に宿るものであった。
精霊信仰ではない。

万物魂信仰とでもいう。

花鳥風月の中にも、タマが存在する。

これは、日本の地理、自然ゆえのものである。
つまり、日本は、素晴らしい自然に恵まれたゆえに、そのように考えることが出来た。

そして、それは、多くを語らずとも、いいのである。
しかし、古神道として、語り始めた時に、堕落する。

新興宗教でも、古神道を名乗る団体がある。
すべて、古神道という、妄想を作り出した。

古神道を理解するためには、古道を知る必要がある。
だが、それは、何も難しいものではない。

縄文期から、自然発生的に、日本民族は、畏れるべきものを、自然の中に見た。
それが、タマの世界である。
自然は、タマの世界なのである。

大昔から、日本民族は、人の住む里に近い山裾、浜辺に、印を作った。
今では、結界というものである。

つまり、その向こうは、タマの世界であるというものだ。
更には、森の大木、海辺の岩などに、縄を巻いて、タマの場所とした。

そして、その行為、つまり、所作を子孫に伝えていた。
言葉としての、教義ではない。

その、古道から、古神道が生まれる。
それは、所作を体系したものである。
それでも、教義はない。教組は無い。

ところが、古神道として、意味づけを行う人々がいた。
それらは、すべて、勝手な解釈、つまり、妄想である。

現在、神道と言われる中に、神社とは別に、教派神道という、新興宗教がある。
その中では、古神道を名乗るものもある。

教派神道ということ自体、有り得ないのである。
例えば、金光教、天理教、黒住教、大本教・・・

黒住教のみ、天照を祭神して祀る。
他は、皆、勝手に、神の名前をつけた。

金光大神、天理教は、天理王命、大本教も、丑寅の坤神、そして、国立常神など・・・

教組が、変な霊から聞いたという、名前である。

無学な、天理教の教組である、中山みきは、天倫王という、仏教の一つの神の名前を聞いたが、無知ゆえに、意味が解らず、それを天理にした。
何せ、神がかりの前は、念仏を一生懸命にやっていた。

そんな信仰深い、女に罹る霊である。
どこかに、狂いがあったゆえに、変な霊に罹られたのである。

そして、こともあろうに、神道に似せたというから、呆れる。

大本教も、然り。
特に、罪なのは、古神道と名乗ったことである。

更には、古神道も、古道も嫌う、念力のような、妖しい力で、霊的な所作を行ったこと。
そして、古神道関係の、記述を用いて、勝手に言霊学などを述べたことである。

古道、古神道として、流れていれば、決して、そんなことにはならない。
つまり、邪教である。

巨大な教団の建物を造る。
それ自体が、神道では、有り得ないのである。

神社神道が堕落したように、発生の時点から、誤っている。

信者から、吸血鬼のように、金を搾り取るという、段取りである。
古道、古神道の、タマという存在は、一切それとは、無関係である。
タマを神としても、全く肝心なところが、抜けている。

社、やしろ、を建てろ、などという、神は存在しないのである。
すなわち、神というものは、存在しないのである。

それらは、あまくで、霊である。
霊を神と称するほど、狂ったのである。
まして、その霊を、見破ることも出来なかった。

タマを神とするなら、天地自然に存在する、力、魂のことであるから、名前を付けるという行為は、一切無いのである。

つまり、それらは、すべて、妄想の産物である。




posted by 天山 at 03:41| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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