2012年12月24日

神仏は妄想である。393

日本は、千数百年、神道と仏教が混合して、神仏習合の時代が長い。
更に、その中に、道教、儒教の影響も大きい。

更に、江戸時代の三代将軍家光が、寺請け制度、檀家制度を作ったために、庶民の仏教浸透は、甚だしいものがある。
キリシタン禁止による、寺請け制である。

それが、明治維新の、神仏分離令により、神道と仏教が、無理矢理引き離された。
それは、良い面と悪い面がある。

文化的には、伝統的な関わりを壊したといえる。
だが、良い面は、線引きをしたいということである。

あのままであれば、インドのヒンドゥーのようになっていた。

さて、明治維新の分離令である。
神社の中には、神仏が一体化しての信仰があるところもあり、無理に分けることで、その信仰の対象が、根こそぎ、損なわれるという事態も起こったのである。

明治新政府は、1868年、明治元年、祭政一致を掲げた。
仏教勢力の一掃を謀る。

廃仏令に近い感覚で捉えられた。
そして、神道勢力の勢いは止まる事なく、全国的に廃仏毀釈運動となったのである。

政府は更に、神社、神職を支配していた、社僧、別当に、神社内で坊主として振舞うことを止めるようにと、還俗令を出した。

廃仏毀釈の激しい地域では、社僧は、追い払われたのである。

その際、一気に仏教を潰していれば、現在の日本仏教と言われる、堕落した宗教が無くなったかもしれない。
残念である。

直接神社と関係ない、寺院の僧侶も、その運動により、僧を止める。驚くべきことに、神職になる者もいたというから、宗教者というものの、本質が解るというものである。

廃仏運動の急先鋒となったのが、延暦寺である。
日吉大社がその支配下にあった。
それまで、社僧の下位にあった神職らが、神殿に乱入して、仏像、経典、仏具を破壊、焼却した。

面白いのは、興福寺では、全員が還俗し、その配下だった春日神社の神職となったというから、笑うのである。
現在の、春日大社の神職の先祖は、そのような者たちだったのである。

神職は、社僧より地位が低く、それが逆転したので、社僧は、以後抹殺された。
幕府と密接に結びついていた、仏教勢力を解体させたのである。

明治二年、古代国家の神祇官が、千年振りに復活した。

神道を国家統合の精神とする、近代天皇制国家の幕開けとなったといえる。

ここから、国家神道の道に歩み出すのである。

この辺りから、強引になってくる。
つまり、国家の元で、伊勢神宮が全国の神社の最高位とされ、伊勢を頂点にした、神社の管理体制が確立する。

この、神道の国家管理は、敗戦の、昭和20年まで、続くことになる。

明治政府の行ったことで、民間習俗、独自の信仰形式が、失われたことである。
これは、民俗学から見れば、とても残念なことである。

更に、国家が宗教と結びつくのは、危うい。
ローマ帝国とキリスト教の例もある。
茶番になるのである。

ただ、明治15年、1882年に、政教分離、信教の自由という立場から、神官は祭祀以外の、一切の宗教活動を禁止された。
キリスト教の弾圧も無くなった。

そして、神道系列にあった、出雲大社、御岳教などの、教派神道といわれる宗教団体が、独立を許されたのである。

ただし、神道は、国家の宗祀として、他宗教とは、別格であった。
神道は宗教ではなく、民族の伝統精神の根幹として位置づけられたのである。

それは、正しい見方である。
しかし、それが歪になり、おかしくなったのが、大東亜戦争における、明確な国家神道という、存在である。

であるから、GHQ、連合国最高司令部が、国家神道の息の根を止めるために、神道指令を出した。

国家と神道を分離させるというものである。
だが、それを見ると、キリスト教というものが、いかに戦争に関わってきたかを、思わせる。
日本の戦争が、神道によって、正当化されるとでも、思ったのであろう。

そして、神社を訪ねて、その様子を観察した。
だが、神主は、ただ御幣を振り、祓いたまえ、清めたまえ・・・何も特別なことを言わぬ、しない。
一体、神道とは、何か・・・
頭を抱えたのである。

教義のようなものも無い。

結局、神道も宗教法人の一つとされた。
本当は、すべての神社を廃止するというところまで考えていたのである。
白人の独善的排他的傲慢である。

だが、それでも、神社は残った。
神社が潰れるということは、なかったのである。

敗戦の翌年、伊勢神宮を本宗とする、神社本庁が設立された。全国の神社を総括する目的である。

神道の、前進は、古神道であり、その前進は、古道である。
それは、自然と共感し、共生する考え方である。

自然環境の破壊は、それと逆行する。
つまり、敗戦後の日本は、日本人は、それを無視して経済を優先させた。
それは、祖霊に対する、冒瀆である。

更に、神社関係者も、それをただ見ているだけ。
一番大切なことを、伝えられない、神社神道というもの、全く堕落の一途である。

坊主も坊主だが・・・
神主も神主・・・
呆れる。

私は、神社では、拍手を打たない。
そこに神は、存在しないからである。
拍手を打つのは、自然の前である。




posted by 天山 at 06:40| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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