2012年12月22日

霊学93

ユングの思想的発展の最後を飾るものは、共時性とか、同時共調性と訳される、シンクロニシティの理論である。

それは、1952年、ユングと、物理学者ウォルフガング・パウリの共著という形で書かれた、自然の解明と精神、という著作にある。

ここで、ユングは、オカルト的な占星術について、多くのページをさいているのである。
更に、ノーベル賞の理論物理学の権威であるパウリは、17世紀初頭に戻り、物理学者で、数学者として名高いヨハネス・ケプラーと、ヘルメス学的医者で数理に詳しい、ロバート・フラッドとの論争を取り上げている。

秋山氏は、その著作が長い間の、謎だったがそれを解く鍵が、薔薇十字の思想でみると、解り始めたという。

薔薇十字の背景には、ルネサンスのヘルメス学があり、カバラがあり、その奥には、グノーシス思想がある。

勿論、西洋では、キリスト教によって、弾圧され、異端とされたものである。

ユングが問題としていることは、非因果的な事象のことである。
普通は、因果律によって、物事を考えるが、しかし、因果律は、ただ相対的なものにしか、役立たないのである。

しかし、この世界では、非因果的事象は、見つからない。
それは、非因果的な説明が、可能な事象を想像できないからである。

だが、それでは、そういうことは、存在しないと言えるのかといえば、言えないのである。

一人の人間の、一生のあらゆる出来事は根本的に異なった二つの種類の結合によって成立している。
秋山

その一つは、自然過程の客観的、因果的な結合であり、もう一つは、主観的で、物事を体験する個人の中でのみ、存在する。

そして、その体験は、客観的には、証明することが出来ないのである。

だが、その人にとっては、事実であり、厳然と存在するのである。
精神病のことを言うのではない。

シンクロニシティの現象は、二つの異なる心的状態が、同時に生起することによる。

客観的事実と、主観的体験が、因果的に関係なく、同時に起こることが非因果的関連の意味である。
秋山

ユングが、こうした事象が起こることの証明として、ラインによる超心理学と、結婚の問題が、月の合と衝との関わりについて、占星術的な実験を行った。

また、易に関しても、大きな関心を寄せたのである。

シンクロニシティを認めるには、人間の頭で想像できる唯一のことは、自然の中には、原因と結果との結合以外に、もう一つ、別な因子が存在し、それが、諸事象の中に表現されるということだ。

それがわれわれにとって、意味としてあわられるものと考えなければならない。これがユングの考えていた隠れたる神の実在であり、すべてを包括する因子の存在という仮定であった。
秋山

昔、結婚式場を抱えるホテルからの依頼で、占いイベントに出た。そこでは、カップルとなった、二人を占うのである。
その時、驚いたことがある。
生年月日による、占術により鑑定したが、おおよそ40組ほどだったが、皆、星は違えど、同じ意味の相性を持っていたことである。

つまり、結婚を考える関係というものを、実感として、感じたのである。

ユングが、オカルト的な人間ではないと、研究者は言うが・・・
意味のある、偶然の一致が、人間の心に大きな意味を感じさせるということに、気づいたという。

そして、その背後にある、関係を追及したかった。

ユングにとって、さまざまな神秘的な事象は、ただ迷信的に信じるものではなかったが、だからといって、これを見ないですませたり、否定することはできなかった。
秋山

ありとあらゆるもの・・・
そこから、ユングは、人間の心というものを、考えたというべきだろう。

だから、完結はないのである。
人間の心は、どこまでも、未知なのである。

更に、ユングは、中国最古の思想である、老子の、道、タオの中から、引き出している。

その道徳経から、
物あり混成し、天地に先だって生ず、寂たり寥たり。周行してとどまらず、もって天下の母となすべし。われその名を知らず。これに字して道という。強いてこれが名をなして大という。

これは、また、無でもあるが、何も無いということではない。
感覚の世界ではとらえられず、またあらわれることもない意味であり、無は、この世を構成する組織者である。

自と他が対立しない状態である。

キリスト教の神観念には無いものである。
中国には、神は存在せず、道が存在すると、考える。

常に全体に働く、エネルギーとも、秋山氏は言う。

ユングは、この東洋の思想と、西洋の、ヒポクラテス、フィロンを上げ、更に、新プラトン主義の創立者、プロティノスを上げ、ルネサンスのカバラ的思想家、ピコの言葉を上げている。

第一に、事物は統一性が存在し、そこではおのおの物はそれ自体と一体をなし、それ自体から成り立ち、それ自体と結合している。第二の統一性においては、ある生物が他の生物と共に結び合わされていて、この世界の各部分がひとつの世界を形成している。第三の最も重要な統一性は、あたかも軍隊が指揮官と一体をなすごとく、宇宙全体がその創造主と一体になっているということである。
ピコ

ユングの研究が、東洋と西洋を結ぶものであり、更に、より人間の心を深めるための、努力の有様が見える。

そして、今、21世紀に入り、それが更に、進化生成発展しようとしているのである。




posted by 天山 at 23:53| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

霊学92

錬金術は、薔薇十字運動と変化、変容し、更に、そこから、フリーメイソンという、結社が生まれる。

その薔薇十字運動の歴史的過程には、触れない。

薔薇十字運動は、現代の感覚からいえば、宗教的ヴィジョンと科学的ヴィジョンの合一を目指したものといえるだろう。コレイによれば、それはアニミズム的かつ生気論的なルネサンス哲学からの自然な発展で、スコラ=アリストテレス的な質料と形相の教義よりも、生きた宗教体験によりふさわしい象徴体系を提供しているのではないだろうか、と述べている。
秋山さと子

ヤーコブ・ベーメの思想に薔薇十字の影響があるという、証拠はないが、コレイは、ベーメの思想を紹介、説明するのに、精神的生命の再生を、他の何にもまして求める人々は、生命のイデアを第一に強調し、宇宙の生気論的概念を提唱する教義に、当然のようにひきつけられていった。そして錬金術の象徴体系は、質料と形相のそれと同じくらい、宗教的生命の実体を翻訳するのに適していた。いやおそらくそれ以上に適していた。なぜなら錬金術の方が使い古されていないし、理知的でないし、まさにその本性からして象徴的だからである。
と、書かれている。

秋山氏は、それから、スウェーデンボルグの、ロンドンから、ストックホルムの大火を見多という、幻視体験、降霊実験とも関わり、シャーマニズム的な霊との関わりという、一つの系譜を作り上げた。
それが、マダム・ブラヴァキーの神智学、そして、ルドルフ・シュタイナーの人智学へと発展する。
と、言うである。

ルドルフ・シュタイナーについては、私も多くの著作を読み、知る事が出来たので、後に紹介する。

更に、ユングも、神秘体験と関わりを持つ人だった。
そして、それを科学的なものと結びたく、ラインの超心理学にも関心を寄せたのである。

しかし、ユングにとっては、現代人の夢につながるヘルメス学の象徴体系のほうが、より密接に彼自身の問題にかかわっているように思えた。そこから彼の関心は、夢のイメージと密接にかかわっている世界の民間伝承や神話へと拡がっていった。
秋山

フリーメイソンを知るためには、薔薇十字運動の流れを知るべきで、そこから、何が結社をもたらしたのか、そして、それは、どのように広がっていったのか、である。

そこで、明確にすべきことは、薔薇十字は思想であり、フリーメイソンは、人々が集う、結社だということである。

その他にも、類似の結社があったのである。

だが、結局、薔薇十字も、世界的に増えた、宗教運動、宗教集団、更には、新興宗教によって、秘密でもなくなった。
また、フリーメイソンも、仲良しクラブなのである。

フリーメイソンから生まれた、世俗的な集まりに、ロータリークラブがある。
1905年、アメリカ、シカゴの弁護士ポール・ハリスによって創設された。
だが、今では、どうだろうか。
単なる、集いである。
或いは、少しばかり地域の名士といわれる人たちの集いである。

全く、精神的には、何も無い。

遊びになってしまったのである。
勿論、それを否定しない。

フリーメイソンも、単なる遊びである。
その会員になるには・・・
等々、色々あるが・・・会員が会員と共に、世界を支配するとか・・・陰謀めいたことを考えている訳ではない。

馴れ合いである。
その段階が幾つあるとか・・・上に行かないと、それ以上のことは、解らないとか・・・
そんなことは、どこの世界でもあることだ。

その中で、相互扶助が行われて、金の無い者が、金を工面して貰うとか・・・
世界は、それ程、単純ではない。
陰謀説など、どこにでもある。

さて、錬金術師たちが、夢見たことは、現在の科学で、安々と実行されている。

秋山氏の、警告がある。
身体が物質でできている限り、いつかは自然に与えられている身体的部分よりも、精巧なものが作られることは当然であろう。しかし、それらの部分を繋ぎ合わせれば、全体として一つの個である人間ができるであろうか。あるいは、かつて魂とか精神といわれた無形のなにものか、その光や輝きも、人工的に作ることができるのだろうか。そして、人間が育て上げてきた文化とか、伝統とか、その他もろもろの歴史的所産は、これらの産物のどこに生かすことができるのだろうか。
と、ある。

面白いのは、オカルトである。
科学が多くの情報を流して、科学的ではないと言っても、オカルトは、廃れないのである。

更に、日本の場合は、世界の文献が一番翻訳されて、あらゆる神秘思想が語られる状態である。
そして、新興宗教、新宗教というものが、益々と増えている。

ここには、かつてのオカルト哲学が伝えようとした全体的な視点がなく、科学と魔術的宗教の分裂が見られるだけである。
秋山

問題は、科学とは、宗教とは、何かという、問いかけを続けて行くことである。

いくら、学業が優秀で、賢いといわれる者でも、霊的なものに遭遇すると、コロリと騙される。或いは、全く信じないと言いつつ、それに大きな影響を受けていることを、知らない。

何せ、今も、反社会的な行動を大胆にも実行した、宗教もどきの、宗教法人だった集団が、今も、狂った教組を慕うというから、驚く。
そして、それを驚く、私の中にも、そんな狂いを内包しているという、事実である。

私も、その宗教もどきの、信者になっていた可能性があるということである。
どこまでも、謙虚に我を見つめていなければ、迷うのである。


posted by 天山 at 05:30| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。