2012年12月13日

天皇陛下について138

翌年、改元して、建治元年、1275年、その四月、またまた、フビライが代表と共に、五人の使者を遣わした。

鎌倉で引見した。
国書には、至るところに、無礼な言葉の数々である。

かまわぬ、斬り捨てよ・・・
これは、更に一戦を交えるということである。

時宗は、一族の北条実政を九州に下し、防備を厳重にさせた。
更には、進んで、元に攻め入る準備までさせたのである。

そして、12月、明年三月、異国の不義を討つ、との命を出した。
軍に従いたい者は、姓名、年齢、武器などを申告せよ・・・

国民総動員の決起である。

翌年、時宗は、弟の宗頼を長門守護に任じて、山陰、山陽、南海三道の兵士を掌握させた。
三月には、九州の兵士たちに、その領地の多少に応じて、分担を決め、博多湾に長さ四里、16キロの防波堤を築かせた。

その二年後、弘安二年七月、元の使いが、筑紫に来た。
幕府は、朝廷に伺いを立てた。
却下せよ・・・

使者たちを斬り捨てた。

時宗は、自ら、血書により、諸経を記す。
敵国の降伏と国土の安泰を祈ってである。

フビライは、怒り、遂に、弘安四年夏、十数万の大軍を二手にわけて、日本を撃つべく来る。
一つが、東路軍で、一つが、江南軍。
前者は、蒙古、元、高麗の混合軍である。朝鮮を経て九州へ。
後者は、すべて元軍で、その数約十万。
揚子江付近から、海を渡り九州へ。

そして、壱岐で合流するのである。

5月21日、元軍が大挙襲来した。
だが、防波堤、石塁で塞ぎ、波打ち際で掃討する作戦である。

敵軍は、船を海上に浮かばせるだけである。

6月20日、亀山上皇が、石清水宮に謁して祈願すること、一夜。
これが、有名な上皇の、徹宵ご祈願である。

御自筆の願文を伊勢神宮に奉り、御身をもって、国難にかわろうとする祈りである。つまり、わが身をもって、国を救うとの御意思である。

日本全国の神宮、仏閣は、すべてそのための祈願をする。

七月一日、大いに風吹き、元の軍艦ことごとく肥前鷹島に没したり。
大日本史

この大風を、後に、神風と呼ぶ。

元軍は全滅した。
生きている者は、わずかに三名である。

これにより、元は、日本侵略を諦めた。

亀山上皇は、翌年に、御製を詠まれる。
四方の海 波をさまりて のどかなる 我が日の本に 春はきにけり

後宇多天皇の、弘安五年、1282年である。
天皇は、16歳。

元寇の国難を、父上皇と共に、ご苦労された。
ほとんど、寝食さえも、満足ではなかったという。

後宇多天皇の御製である。
天つ国 国つやしろを 祝ひてぞ わが葦原の くにはおさまる

いとど又 民やすかれと いはふかな 我が身世にたつ 春のはじめは

世を思ふ わが末まもれ 石清水 きよき心の 流れ久しく

かたぶかぬ 早日の峰に 天降る 天の皇孫の 国ぞわが国

皇孫、みまご

歴史家は、時宗の働きを主にして元寇を語るが、亀山上皇の御意思なくば、ここまで民を上げての、心意気もなかったのである。

さて、現代の領土問題に関して、時宗ほどの、気概、気力ある政治家がいるか。
天皇陛下は、祈りに祈られている。

その祈りに答えられる、為政者が、いなげれば、ならないのである。
天皇が、陣頭指揮を執られることは無い。

天皇は、権力者ではなく、権威ある御方である。
その御意思を実行するのは、政治家である。

天皇陛下に相応しい、政治家を、日本の歴史は教える。

国難にある時、陛下は、その身を持って、国難を防ぎ、国民を守ろうとする。そして、為政者は、その御意思に従い、国民を上げて、国難に対処する。

それが、日本の伝統である。

伝統の国が、伝統を失えば、滅びる。

日本は、天皇を戴く伝統の国である。
左右の思想は無い。
日本には、上下の思想のみがある。

上は、天皇であり、下は、国民である。



posted by 天山 at 00:38| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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