2012年12月12日

天皇陛下について137

寛元四年、1246年、後嵯峨天皇は、皇太子である、久仁王に御譲位あそばす。
第八十九代後深草天皇である。1246年より1259年。
御年、四歳である。
後嵯峨天皇は、院政を執られた。

ちなみに、鎌倉幕府は、二代目執権、北条義時の後は、子の泰時、次が、孫の時頼である。

康元元年、1256年、五代目時頼が出家し、六代目執権は、長時になる。
その三年後、正元元年、1259年、第九十代、亀山天皇が即位する。
御年、11歳である。

後嵯峨上皇が院政を執られた。

それから、日本史上初の国難が起こる。
文永五年、1268年、蒙古のフビライが、高麗王に命じて、書を日本に送らせた。

フビライとは、土御門天皇の御代に、宋北部の蒙古に、テムジンという英傑が出て、四方を奪取し、自らを偉大な皇帝、つまり、ジンギスカンと称する。

中央アジアを平定し、カスピ海の西を廻り、コーカサスを越えて、ヨーロッパに侵入し、南部ロシアと西アジアを征服した。
その子、太宗の代には、蒙古が属していた金、つまり満州を滅ぼし、朝鮮の高麗を従えた。
更に、ポーランド、ドイツ、オーストリア、イタリアまで脅かしたのである。

そして、フビライの時代である。

その勢いで、日本を一挙に手玉に取るということだった。

その書面には、
わが祖先は、天の命を受けて、四方を平定した。みな、我が国の威徳になびいた。属国の高麗もその一つである。日本は美馬に近い。何故、使いをよこさぬ。わしのことを知らぬのか。そこで、使いを遣わす。以後、友好を結ぼう。そちらも適当な処置を取るように。
戦いは好まぬ。
である。

その後、執権が18歳の時宗となる。
時宗は、朝廷にお伺いを立てた。
朝廷は、返書、無用との答えである。

返書を渡さず、使者を返した。

そして、翌年八月、再度、蒙古の使いが来る。
その文面は、以前より、穏やかである。

朝廷が、返書の下書きを、時宗に示した。
だが、時宗は、矢張り、無礼であると、返書を出さず、使者を返した。

だが、更に、文永八年、三度目の使者が来る。
大宰府の役人が国書を受け取ろうとした。
が、これは直接、朝廷に差し上げ、返事を貰いたいとのこと。

役人は、渡すのは勝ってだが、京へは行かせぬと、言い放つ。

使者は、根負けして、国書の写しを渡した。
大宰府は、それを鎌倉へ、そして、朝廷に示した。

朝廷は、返事におよばぬ、である。

二年後に、四度目の使者である。
蒙古は、国名を、元と改めていた。
だが、追い返す。

フビライも、不思議に思う。
使者に日本の国を問う。
勇敢な民族です。更に、沿岸の波風も荒く、派兵は無理でしょう、との答えである。

それを聞いて、フビライは、そんなことはない。大軍を持って望めば、島国など・・・

日本側も、準備を始めた。

文永五年四月、朝廷も、大神宮に蒙古に関して、無事平穏を祈る。
更に、文永八年、勅使を伊勢神宮に派遣して、異国降伏を祈らしめている。

文永11年、亀山天皇は、御位を、御子、第九十一代後宇多天皇に、お譲りする。1274年より1287年。

そして、院政を執られる。
亀山上皇は、26歳であらせられた。

執権北条相模守時宗は、24歳である。

元軍が来た。
その十月である。
大日本史より、
10月5日、対馬に冠す守護代宗助国等防戦して死す。
14日、壱岐を侵す守護代平内左衛門高等戦死す。
16日、肥前松浦郡を侵す。
20日、筑前に上陸す小弐・菊池の族防戦し水域による夜大風起こり敵船二百余隻漂没す。
読みやすく現代語訳してある。

二十日の戦いで、博多付近は、一日のうちに荒野と化した。
箱崎八幡宮も焼失した。

21日、朝。我が国の兵士が海岸に出ると、風雨の収まったあとの海は、果てしなく、光に輝くのである。

やがて、志賀島に漂流した、敵船が一艘あり、前夜の転覆、逃走を聞いた。
敵軍の帰還出来なかった者は、一万三千五百人という。

これを、文永の役、という。

敵は逃げたのである。
しかし、これでは、終わらないだろうと、軍備を緩めることがなかった。

日本国民は、気概烈々、炎の如くだった。
今の、政治家、政府に、是非、勉強して欲しい。
国を護るということ。
朝廷も、政治も、共に、国を護るの一点であった。



posted by 天山 at 06:48| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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