2012年12月11日

天皇陛下について136

鎌倉幕府四代将軍は、上皇の皇子が駄目になり、左大臣九条道家の子、頼経、よりつね、を迎えることを願った。

頼経の母は、頼朝の妹の孫に当る。
源氏に縁があるということから、上皇は、渋々宣旨を出された。

承久元年、1219年、七月に鎌倉へ。当時、二歳である。
執権は、北条義時。

そして、その三年後に、承久の変が起こる。

義時は、上皇の命に従わないこと多々あり。
上皇も、武家政治への強い不満や批判があった。そのため、倒幕を考える。

上皇は、北面の武士の他に、西面の武士を置かれる。
倒幕のためである。

もはや、武力解決以外にない、という、上皇に、中院である、土御門上皇が、諫言される。まだ、その時期ではありません。

この後、順徳天皇が、御位を、仲恭天皇にお譲りになられる。

そして、順徳上皇を相談相手にされて、承久の変、に進むのである。

上皇は、遂に、院宣を諸国に下した。
義時の罪を告げ、その官位も剥奪し、倒幕の幕が下ろされた。

だが、中院の忠告通り、時期が早かった。
官軍が、思いのほか集まらないのである。

よって、惨敗した。

北条義時の子、泰時の軍が京都に入る。
承久三年、六月十五日である。
義時の、戦後処理は、厳しかった。

謀の相談にあずかった公卿、武士らは、惨死、流される。

そして、後鳥羽上皇を隠岐へ。
順徳上皇を、佐渡へ。
仲恭天皇を廃し、後鳥羽上皇の御兄、守貞親王の御子、茂仁王を立てて、第八十六代後白河天皇となし奉る。十歳である。

さらに、土御門上皇も、進んで土佐へお渡りになる。
責任はないが、一人京都にはおられぬとの思いである。

だが、それは、あまりに遠く、義時は、阿波へお移しする。

更に、義時は、朝廷を恐れた。
そこで、六波羅探題という役所を京都に設けた。
近畿、西国の政治を行うためである。
勿論、朝廷の監視の役目もある。

そこは、北条氏一族が代々就任することになる。

さて、後鳥羽上皇の、隠岐の御所は、海辺から少し入る、山陰の大きな岩を利用した。松の柱を立て、葦の屋根を葺いて、雨露をしのぐばかりである。

後鳥羽上皇は、歌仙といわれた御方である。
御製は二千首を越える。

われこそは 新島守りよ 隠岐の海の 荒き浪風 心して吹け

同じ世に また住みの江の 月や見ん けふこそ余所に 隠岐の島守

母、七条院の手紙を見て
八百よろづ 神もあはれめ たらちねの われ待ち得んと 絶えぬ玉の緒

都に帰られる日は、遂に来ない。
奥山の おどろが下も ふみわけて 道ある世ぞと 人に知らせむ

おどろ、は、いばら、である。
今、この国は、いばらの中にある。道がどこにも見えないが、その道を踏み分けて、この国は、道義ある国と伝えたい、と歌う。
王政復古の志である。

隠岐で、19年過ごし、御年、60歳で崩御される。
時は、第八十七代、四条天皇の御代である。

歌集も多くある。

四条天皇は、上皇に顕徳院と、し号をおくられた。そして、三年後、改めて、後鳥羽院とされた。

さて、順徳上皇は、佐渡で、46歳で崩御された。

いざさらば 磯うち波に こと問はん おきの方には 何事かある

法皇がお隠れになり、涙に明け暮れた。
その三年後、食事を断たれて、お隠れになったという。

上皇は、御父、後鳥羽上皇の影響から、9歳で、新古今の宴にも列席され、歌道史上、上皇の名を不朽にしているのが、八雲御抄、である。

古来の歌学の集大成である。
中世初期の、最も優れた、歌論、歌学の書として、高く評価されている。

そして、土御門上皇は、進んで土佐に移られて、37歳の崩御である。

矢張り、後鳥羽上皇の影響を受けて、藤原定家、家隆に師事し、多くの御製を勅撰集に残す。

明石潟 大和島根も 見えざりき かきくもりにし 神のなみだに

一流の歌人である。




posted by 天山 at 15:57| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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