2012年12月10日

天皇陛下について135

建久三年、1192年、後白河法皇が崩御された。
その院政の期間は、34年である。

頼朝も、さすがに日本一の大天狗と、憤慨した御方の崩御である。

同時に、後鳥羽天皇の親政に入る。

その七月、源頼朝は、征夷大将軍に任ぜられる。
名実共に、全国武士の頭となるのである。

この職名は、蝦夷を征伐する大将軍である、坂上田村麻呂につけられ、源義仲が任じられた時から、武士の長となるという意味合いになった。

そして、鎌倉幕府の登場である。
それが、約140年続く、鎌倉時代である。

それ以来、武家政治か決まりのようになった。
源氏、北条、足利、徳川・・・

およそ、680年間続くのである。

ただし、頼朝は、反天皇ではない。
熾烈な尊皇精神の持ち主である。

ある僧侶の手紙に、頼朝のことを、君、と書いてきたものがあり、即座に、君とは、天子のことである、いかに私を尊敬するためとはいえ、こういう畏れ多いことをしてはならぬ、と答えている。

更に、平家が滅びた原因を知る彼は、常に武芸を奨励し、名誉のために捨て身の覚悟を心がけることを、そして、質素倹約を旨とした。

それが、いずれ、武士道として花開くのである。
その心は、
勅命に背くものは、この日出ずる国日本から、出てゆけ、である。

勅命とは、天皇の命である。

だが、頼朝は、人を妬み、疑う心が深いあまりに、弟、臣下の者を、多く殺した。そのため、源氏の勢力を弱めたのである。

開幕の翌年に、弟の範頼を修禅寺に追い詰め、殺したのである。
その前は、義経である。

頼朝は、それから六年後に死ぬ。53歳である。

頼朝が歿した年、正治元年、1199年正月、後鳥羽天皇は、為仁親王に御譲位される。
第八十三代土御門天皇である。

だが、それから24年間、院政をとられる。

幕府の方は、18歳の頼家が継いだ。
傍には、母親の、北条政子、そして、北条時政、義時、大江広元、三善康信、和田義盛、梶原景時らがいた。

しかし、病気がちであり、その性格に問題があった。
修善寺にて、時政により、殺されることになる。

その後、千幡、後の、実朝、12歳が継ぐ。

当時、将軍を助けて、政治を取り締まる役を、執権といった。
これを、政子の父である、時政が担当していた。

時政は、実朝を廃し、娘婿の平賀朝雅を立てようとした。
だが、失敗する。そこで、隠居である。

次の執権は、義時である。

元久二年、新古今和歌集が出来た年である。

それから、14年目の、承久元年、1219年。
実朝は、右大臣拝賀の礼を鶴岡八幡宮にて行った。その帰路、別当公暁によって、殺された。公暁は、頼家の子である。

28歳だった実朝は、聡明だったが、胆力に欠けた。
歌人としては、有名である。

山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君に二心 わがあらめやも
後鳥羽上皇に贈られた歌である。

山が裂け、海が枯れるようなことがあっても、天子さまには、背くことはない。

時により 過ぐれば 民の歎きなり 八大竜王 雨やめたまへ

物いはぬ 四方のけだもの すらだにも あはれなるかな 親の子をおもふ

万葉集の世界へ立ち返るような歌詠みをしたのである。

源氏は、僅か三代、28年で滅びた。

この時、第八十四代、順徳天皇、1210年より1221年。
九年前の承元元年、1210年、先の土御門天皇の、御譲位により、せんそ、された。つまり、再度、御位に就かれたのである。

ところが、実朝没後、二年目の承久三年、順徳天皇は、四歳の懐成、かねなり親王に御譲位された。

第八十五代、仲恭天皇、ちゅうきょう天皇である。
つまり、この時、三人の上皇が出来た。
そのため、後鳥羽法皇を、本院、土御門上皇を、中院、順徳上皇を、新院と、お呼びした。

実は、鎌倉幕府は、実朝が歿した後、執権義時と、政子は、後鳥羽上皇に、上皇さまの皇子を四代将軍にと、申し出ている。

だが、上皇は、源氏が絶えた以上は、政治は朝廷が行うべきだとの、お考えであった。
また、万が一、皇子を鎌倉にやり、京と鎌倉で戦が起きた場合は・・・
ゆえに、許さなかった。

上皇は、倒幕への御心があった。



posted by 天山 at 23:37| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。