2012年12月02日

性について。220

エロスの原型は、いつ頃出来上がるのか・・・
それは、生まれた時からである。

心理学では、発達心理学からなる分野である。

乳児が、乳という栄養摂取するためではなく、フロイトが言うところの、口愛行為という快感を求めるところからのものである。

そして、その口愛的欲求が、それ自体の満足を求める、独立した欲求、あるいは、本能的欲求として活動を始める。
それが、エロスの原型である。

そして、そこから発達心理学なるものが、生まれたのである。

であるから、エロスの由来は、実に単純明快なものである。

更に、フロイトは、口愛欲求を性欲の原型ともみなしたのである。
口、唇、舌、その周囲の皮膚感覚は、実に多くの快感感受性をそなえている。

大人になっても、その原則は変わらない。
口愛快感は、エロスのすべての出発地点である。

幼児性欲の段階は、その後、肛門期、男根期と続く。
それらを総称して、小児性欲と呼ぶ。

肛門愛は、肛門、尻が、そして、男根愛は、ペニス、クリトリスが、それぞれの快感感受性を持つ。
その部位を性感帯と呼ぶ。

小児が感じる生理的快感を、大人の性的な快感と同質としてフロイトは、みなした。
だが、それも一つの仮説である。

その後、研究者によって、色々と議論された。
しかし、それらは、どうでもいい。
ここでは、エロスのみに、絞って考える。

ただ、一つだけ、性的と、性器的という区別をする。
性器的とは、生殖的なものである。

エロスに対して考えると、性的なものに重点がゆく。

フロイトは、思春期から、性交が可能であるということから、大人の性欲を性器的性欲と呼び、小児性欲とを、区別したようだが・・・

要するに、小児は、大人のように、性器愛を目的にしているのではなく、それ自体の快感と、満足を求めるものとしている。

だが、元を辿れば、大人の性器愛、性器性欲は、小児における、性的なもの、母親への愛着本能の延長であるといえる。

更に、エロスを拡大解釈すると、集団生活から、社会活動にまで至り、更には、精神世界までも、辿り着くことになる。
が、ここでは、それを取り上げない。

だから、フロイトの理論も、ここではエロスのみに絞る。
性的リビドーと名付けた、エネルギー恒常の法則がある。それは、一定のエネルギー水準を保とうとする傾向のことである。

エロスも、このエネルギーに支えられる。

つまり、欲求の発生、リビドーの高まりが起こると、そのエネルギーの解放、発散を願い、行為する。
それが、エロスのあり方となる。

その、エネルギーが解放、発散されないと、欲求不満が起こる。そして、不快になる。エロスの欲求の発散が出来ない。
苦しみである。

それを、本能的というならば、ひたすら快感を求め、不快を回避する。
快感を求める行為を、快感原則と言う。

つまり、エロスは、快感原則に従うものなのである。
この、快感原則を、外界に求めず、あるいは、求められず、己で解決すると、マスターベーションとなる。
それでは、マスターベーションも、エロスの一つの方法か・・・
方法となる。

何せ、表現活動なども、その一つに入るのである。

人間の性本能は、盲目的主観的である。
外界も、対象も、考えないのである。

勿論、成長するに従い、その外界との関わり、そして、その対象を見出してゆく。しかし、基本は、変わらない。

ただ、人間は一人で生きられないように、結局、相互交流によらなければ、エロスの最大の満足は、得られない。
つまり、エロスの共有である。

相互の快感が一致して、快感原則を満足させ得た時、エロスが一時的に、完成する。

その基本が、幼児期の母と子の関係にあるというものである。

そこで、歪めば、その後の人生のエロスの獲得も歪むことになる。

一人では、得られない満足感を、相手と共に満足する、快感原則を共感して、エロスというものが、成り立つのである。

自分の快感と、満足の欲求が、同時に、相手の快感と満足なるもの、それが、エロスである。

とても、単純であるが、それを求めるとなると、人間は、悩み、苦悩するのである。
何故か。
同じ欲求を持つ相手に会うことが先決だからだ。

エロスには、相手が必要である。
そして、子であった時のように、母なる相手が見つかる可能性が、有るのか無いのか。
皆目検討がつかないのである。
つまり、人間は、エロスへの旅人となる。




posted by 天山 at 06:05| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。