2012年12月01日

平成24年ネグロス島へ16

私を教会に案内し、司祭に会わせてくれた女性は、その夫と一緒にいた。
私は、彼の仕事を聞いた。
すると、日系企業である。

それで、礼儀正しい様子が、理解できた。
上司は、皆、日本人である。

彼女は、連絡先を書いてくれて、次に来た時は、何でもお手伝いすると言った。つまり、イロイロ支部が出来たのである。
兎に角、誰彼に、話しかけてみることだ。
何が始まるか、解らないのである。

さて、その日の午後は、ただ、ストリートチルドレンに会うことだけだった。
彼らを見つけるために、何度もホテルの前、公園を散歩した。

一度、部屋に戻ると、コータが、自分のバックに少し、支援物資が残っているという。
えっ、本当・・・
それでは、ホテル近くの川沿いの、スラムに入ってみようということになった。

その時は、少年の自転車タクシー、シクロを使った。
僅かなものだけだが・・・
折角、来たのだから・・・

シクロの少年は、13歳で英語が出来る。つまり、学校に通っている。学校が終わると、家族を養うために、シロクに乗る。

シクロは、片道、20ペソである。距離は関係ないが・・・
バイクと違い、それほど、遠くには行けない。

スラム・・・酷い暮らしである。
その建物・・・小屋と呼ぶに相応しい。

子供を見つけて、衣類を探していると、続々と家から、人が出て来た。
子供物だが、皆が、とても喜ぶ。
そして、すぐに無くなった。
すると、一人の男が、子供は大勢いるよ・・・と、言う。

次ぎに来た時に、沢山持ってくる・・・と、私が言った。
すると、歓声が上がった。

日の丸を掲げなくても、日本人だと、認識してくれたことが、嬉しい。
これで、本当に支援物資が、無くなった。

もう、明日はマニラに一泊して、その翌日、日本に帰国する。
そして、次は、タイのメーソートに難民の孤児たちに会いに行く。

やれることを、すべて、やった。
ただ、それだけである。
この行為に何か意味があるならば、それは、後々に出てくることだろう。

更に、もう、そういうことも、考えなくなった。
ただ、活動を公開することは、必要なことだ。

それにより、誰かが、刺激を受けてくれればいい。

バコロドで、慰霊をした日の夜に、日本食の店に出掛けたことを、書かなかったが、日本食の店より、その店が開店するまでの間、近くの店で時間待ちをしていた時に、出会った、六名の人たちと、話に花が咲いた。

三人姉妹と、その友人、そして、姉妹の一人の夫である。
私たちが、ストリートチルドレンに衣類を渡していると言った時、その夫が、私に近づいてきて、言った。
僕も、ストリートチルドレンだった、と。

それで、今は、フード店に勤めて、結婚もしている。
それは、大いに希望になった。
ストリートチルドレンの辿る道は、険しい。

学校にも行けないと、仕事に就くことは、実に難しいからだ。
スリ、カッパライ、地元のヤクザのようになる・・・

一番、心配していることだった。
だが、こういう手本があると思うと、心強く思った。

彼らは、とても、親愛の情で、私たちと話してくれた。
日本語の歌も披露してくれた。
お返しに、私も、歌った。

コータは、彼らの連絡先を渡されていた。
こうして、また、新しい付き合いが始まる。

イロイロの市場近くのスラムに行けば、今度は、声を掛けて貰えるだろう。

更に、多くの人たちが、私たちを見ていた。
何の目的で、来ているのかを、知る。
私にとっての、それは、宝である。

そして、このような、情報は、私たちしか、知らない。
とても、重要な情報である。
何処で、ボランティアが必要なのか・・・

更に、慰霊地は、何処なのか・・・
行ってみて、初めて解るのである。

ネグロス島が、フィリピン第三の激戦地だったということは、多くの日本人が知らないことである。

さて、マニラは、一度、盗難に遭った町、パサイ市に泊まった。
空港から近いからという理由である。

相変わらず、ストリートチルドレンが・・・障害者が・・・ホームレスがいる。
幼子を抱いた、三歳の子・・・
胸に迫るものがある。

自然災害と、軍事費に費やされる、国費である。
貧しい国は、大変だ。
しかし、それが、その国の運命なのである。
今、中国に対して、どうしても、軍事を強化しなければならない。
国民の生活は、後手に回る。

出来ることを、するしかない。
日本でも、若者ホームレスが増えている状況である。

日本にも、貧しい子供たちがいる。

私は、東南アジア共同体、アセアンと、南アジアの時代がはじまると、考えている。その中に、プラスワンとして、日本が入る。

それは、平和を基本とした、付き合いになるべく、努力するはずだ。
奪うのではなく、与え合う。
与え合えば、豊かになる。

一つの国では、どうすることも出来なかったことが、多数の国で分配すれば、豊かになる。

その、調整役に日本がなる。
そのためには、日本に対する、信頼である。

ちなみに、バコロド空港も、イロイロ空港も、日本の支援によって、建てられたものである。

日本が、支援大国であることを、国民の多くが知らないことは、不幸である。

アジア、太平洋の国々に、日本が莫大な支援をしていること。
そして、それらの多くの国は、日本に期待と、希望を見ている。

とりあえず、旅日記を終わる。
書いていないことは、多々ある。


posted by 天山 at 07:26| 平成25年ネグロス島へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月02日

性について。220

エロスの原型は、いつ頃出来上がるのか・・・
それは、生まれた時からである。

心理学では、発達心理学からなる分野である。

乳児が、乳という栄養摂取するためではなく、フロイトが言うところの、口愛行為という快感を求めるところからのものである。

そして、その口愛的欲求が、それ自体の満足を求める、独立した欲求、あるいは、本能的欲求として活動を始める。
それが、エロスの原型である。

そして、そこから発達心理学なるものが、生まれたのである。

であるから、エロスの由来は、実に単純明快なものである。

更に、フロイトは、口愛欲求を性欲の原型ともみなしたのである。
口、唇、舌、その周囲の皮膚感覚は、実に多くの快感感受性をそなえている。

大人になっても、その原則は変わらない。
口愛快感は、エロスのすべての出発地点である。

幼児性欲の段階は、その後、肛門期、男根期と続く。
それらを総称して、小児性欲と呼ぶ。

肛門愛は、肛門、尻が、そして、男根愛は、ペニス、クリトリスが、それぞれの快感感受性を持つ。
その部位を性感帯と呼ぶ。

小児が感じる生理的快感を、大人の性的な快感と同質としてフロイトは、みなした。
だが、それも一つの仮説である。

その後、研究者によって、色々と議論された。
しかし、それらは、どうでもいい。
ここでは、エロスのみに、絞って考える。

ただ、一つだけ、性的と、性器的という区別をする。
性器的とは、生殖的なものである。

エロスに対して考えると、性的なものに重点がゆく。

フロイトは、思春期から、性交が可能であるということから、大人の性欲を性器的性欲と呼び、小児性欲とを、区別したようだが・・・

要するに、小児は、大人のように、性器愛を目的にしているのではなく、それ自体の快感と、満足を求めるものとしている。

だが、元を辿れば、大人の性器愛、性器性欲は、小児における、性的なもの、母親への愛着本能の延長であるといえる。

更に、エロスを拡大解釈すると、集団生活から、社会活動にまで至り、更には、精神世界までも、辿り着くことになる。
が、ここでは、それを取り上げない。

だから、フロイトの理論も、ここではエロスのみに絞る。
性的リビドーと名付けた、エネルギー恒常の法則がある。それは、一定のエネルギー水準を保とうとする傾向のことである。

エロスも、このエネルギーに支えられる。

つまり、欲求の発生、リビドーの高まりが起こると、そのエネルギーの解放、発散を願い、行為する。
それが、エロスのあり方となる。

その、エネルギーが解放、発散されないと、欲求不満が起こる。そして、不快になる。エロスの欲求の発散が出来ない。
苦しみである。

それを、本能的というならば、ひたすら快感を求め、不快を回避する。
快感を求める行為を、快感原則と言う。

つまり、エロスは、快感原則に従うものなのである。
この、快感原則を、外界に求めず、あるいは、求められず、己で解決すると、マスターベーションとなる。
それでは、マスターベーションも、エロスの一つの方法か・・・
方法となる。

何せ、表現活動なども、その一つに入るのである。

人間の性本能は、盲目的主観的である。
外界も、対象も、考えないのである。

勿論、成長するに従い、その外界との関わり、そして、その対象を見出してゆく。しかし、基本は、変わらない。

ただ、人間は一人で生きられないように、結局、相互交流によらなければ、エロスの最大の満足は、得られない。
つまり、エロスの共有である。

相互の快感が一致して、快感原則を満足させ得た時、エロスが一時的に、完成する。

その基本が、幼児期の母と子の関係にあるというものである。

そこで、歪めば、その後の人生のエロスの獲得も歪むことになる。

一人では、得られない満足感を、相手と共に満足する、快感原則を共感して、エロスというものが、成り立つのである。

自分の快感と、満足の欲求が、同時に、相手の快感と満足なるもの、それが、エロスである。

とても、単純であるが、それを求めるとなると、人間は、悩み、苦悩するのである。
何故か。
同じ欲求を持つ相手に会うことが先決だからだ。

エロスには、相手が必要である。
そして、子であった時のように、母なる相手が見つかる可能性が、有るのか無いのか。
皆目検討がつかないのである。
つまり、人間は、エロスへの旅人となる。


posted by 天山 at 06:05| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月03日

性について。221

エロスへの発達段階をみる。

まず、乳児が、本能的ともいえる欲求としての、感覚的満足を得るための、反射的パターンにより、一方的に満足感を得るための段階である。

この場合は、モノでも代用できる。

次ぎに、乳児の一方的な欲求に対して、母親が、それを解消しようとする。やがては、誘発者、解消者の役割を負う。それは、相互に演じあうものになる。
愛着本能と、母性本能を、互いに満たすのである。

ここからが、エロス的コムニケーションとなる。

そして、第三は、単なる相互的で、感覚的なものではなく、相手の快感と満足の共有ということになる。

相手と、我との、欲求の一致をみるものである。

更に、その行為を人は、愛とも呼ぶ。

上記を定義とすれば、相互の欲求を満たさないエロスの関係は、エロスとも、愛ともいえないということになる。

そして、大人、つまり性器性欲が満たされる年齢になると、相互の欲求の誘発と、コムニケーションとなり、オルガスムの共有となり、その共有の一致を求めて、エロスへの道を進む。

これを深めると、決して、一人では行うことが出来ないものである。
相手が必ず必要である。
その相手を求めて、つまり、エロスを共有する相手を求めて、人は旅を続けるといえる。

この相互的なコムニケーションの様式の原型は、系統発生的つまり生物学的基礎をもった非言語的、原始的コムニケーションであり、直感的、本能的なものである。いやむしろ本能そのもの生物学的なものそのものが、本来意味的なもの、コムニケーションを含蓄しているといってもよい。
小此木圭吾 エロス的人間論

それは、快感原則に従うが、本来、他者との中に、満足の共有と欲求の一致を目指すものであるということになる。

学者研究家は、特に、表現する際に、科学的言語を用いなければならないという、固定観念があるようで、難しく感じるが、何のことは無い。
平たく考えていいのである。

求め合えば、成り立つのが、エロスである。

そのエロスの原型が、親子関係、特に、母子にあるというのが、フロイトから始まる、心理学の考え方である。

そして、最も、最小の人間関係である。
二人の人間で成り立つ。

それが、家族関係から、社会集団の形成にも影響する、つまり、エロスが働くと考えるという、広がりである。

人間が人間関係をそして社会集団を形成する根源的な欲求だからである。
小此木

フロイトも、
集団は明らかに、なんらかの力で結合されているが、エロス以外にどんな力にこの働きを帰することができようか。エロスこそ世のすべてを結合する。
と、言う。

そうすると、ここから、社会学の世界に入ることになる。
それは、後で書く。

小此木氏は、そこで、警告を発する。
つまり、根元的なエロスの世界は、そのまま、われわれの現実の世界であろうか。
と言う。

男女も、家族も、社会集団も、乳児と母親の関係のように、常にエロスに満ちているだろうかというのである。

エロス的コムニケーションは失われて、疎外や断絶の中におかれている。
そして、エロスを喪失しては、本当に生きていることにならない。
エロスは、そして生きることは、対象そのものが、コムニケーションの相手が、エロスでなければならないとの警告である。

それほど、時代が病んでいるということだろう。
性器性欲ではなく、性欲だけで、生きる人たち・・・

相互のコムニケーションを得ることなく、単に、我の欲求だけを求めて、相手を道具にする行為。
ということは、つまり、乳児体験の欠如ということにもなる。

そうだろか・・・
それも、エロスも、時代によって、変容すると、考えられないのか・・・

時代には、時代性と、時代精神がある。
万葉時代と、人間には、大差は無いが、時代が違う。
そして、この時代は、欠如した時代なのだろうか。

文系の学問の世界は、批判によって、成り立つ。
更に、評論である。
そして、時代に対する、警告から成り立つ。

だが、私が思うに、太古の時代に戻れば、解決するというような、問題ではない。

それこそ、退化である。
進化しているはずである。

エロスの世界も進化する。つまり、人間の性のあり方も、エロスのあり方も進化する。変容するのである。

日本の場合も、核家族化し、更に、終身雇用制が失われ、エロスによって成り立つ社会集団というものも、形を変えた。当然、そのエネルギー源も変容しているはずである。

良い悪いの、問題ではない。
そのようになっているのである。

posted by 天山 at 05:30| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月04日

性について。222

エロスの最大の障害は、なんであろうか。
それは、自分自身の中にある。
つまり、自己愛である。

ナルチシズムである。
それは、他者を伴わない行為であり、行動である。
己一人に帰結する。
つまり、エロスの昇華が無い。

自己愛人間については、別のエッセイ、霊学に書いている。

ここでは、社会心理学の有名な、エーリッヒ・フロムから、引用してみる。

これまでのところ、私はいかなる技術の実践にとっても必要なことを検討してきた。いまや私は、愛する能力にとって特別に重要であると思われる特性を検討してみよう。愛の性質について私がのべたところに従えば、愛が成熟するための主な条件というものはナルチシズムの克服である。
愛するということ 第四章愛の実践

およそ70年前に日本語訳されたものである。

ナルチシズム的な方向づけというものは、自分自身の中に存在するもののみを現実として経験するということである。だから、その一方に、外部の世界に起こっている現象は、そのような人たち自身の中においてはすこしも現実性を持たず、それらが人にとって有益であるか危険であるかという見地からのみ経験されるのである。
フロム

つまり、人間は、エロスを忘れて、すでにナルチシズムに陥った時代になったのかもしれない。
これは、恐ろしいことである。
そして、それが社会に起こる多くの事件を見ると、良く解るのである。

子殺しなどを見れば、歴然とする。

エロスを生きられない人間は、自己愛に生きるしか方法が無いのである。
そして、それは、病理ともいえる可能性がある。

フロムの、愛するということ、という著書も、すでに必要のない程、時代は、変化し変容している。

エロス、つまり、愛を求めない。
いやいや、精神的愛というもの、プラトニックというものがあるという人がいるだろうが、それも、根本は、エロスが宿るものである。
その、エロスを昇華させて、精神に至るのである。

単に、性欲が無い。エロスの欲望が無い、だから、精神的愛なのだ、ではない。
それは、病んでいるのである。
しかし、その病んでいることさえも、気づかずにいる状態にまで、至った病なのである。

ナルチシズムに対する反対の極は客観性である。それは人や物をそのあるがままに客観的に見、理解する機能である。そしてこの対象像を欲望や恐怖によって形作られた像から分離することのできる機能である。
フロム

対象像を欲望や恐怖によって、形作られた像から、分離することのできる、機能とは何か。

それが、あるがままに見るということなのである。
だから、客観的になる。

ナルチシズムの自己愛人間は、それを、あるがままに、見ることが出来ないのである。
要するに、欲望、恐怖という像から、分離させられないのである。

自己愛病と言っておく。

あらゆる精神病は、客観的な立場を保つという点で極度に無能であることを示している。
フロム

エロスにおける、病が、蔓延した時代、新しい世紀である。
ということになる。
だが、それが大勢であれば、それがまともなことになる。

狂った人が多ければ、それが正常なのである。

フロイトは、結局、エロスの最終章は、人類の社会、文化、文明は、人類が死んでゆく過程で、死の本能に逆らい、生み出し続け、組織づけてゆく、エロスの産物という。

この場合になると、エロスは、生きる本能ということになってくる。
性愛である、エロスが、ここまで行くか・・・という、思い。

ここまでくると、エロスは、死と対極のものになる。
更に突き詰めると、エロスは、死に対する、不安を和らげるもの、あるいは、エロスは、死への準備、更には、エロスによって、死を受け入れる心を作る等々、人間の妄想は、計り知れない。

エロスの頂点に達することは、死の学びである。
などという、人を食ったような言葉も出てくる。

性愛の絶頂である、オーガズム、達することは、死ぬことである。
などと、解ったことを言うような者、多々あり。

さて、フロムに戻ると、
狂っている人、あるいは夢見ている人は、外部の世界を客観的に観察することが完全にできなくなっている。しかし、われわれのすべても、大なり小なりくるっているか眠っているのである。
と、言う。

更に、驚くべく事に、
われわれすべてが世界についての非客観的な見解を持っているのである。それはわれわれのナルチシズム的見当づけによって歪められたものなのである。
と、なる。

その実例を上げれば、キリが無いので、止める。

空海も、人は酒に酔っているようなもので、真実を知らないというようなことを言うが、本人は、酔っていないつもりであるというのが、面白い。
自分も酔って、大日如来などという、妄想を掲げていることを知らない。

まあ、学者研究家も、警告を発するのが、得意であり、更に、それが仕事でもある。要するに、それで、食っている。生計を立てている。

それが、金にならなくなると、別の事を言い出すのであるから・・・


posted by 天山 at 00:01| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月05日

もののあわれについて590

またのあした御文とくあり。なやましがりて臥し給へれど、人々御硯などまいりて、御かへりとくと聞ゆれば、しぶしぶ見給ふ。白き紙の、うはべはおいらかに、すくずくしきに、いとめでたう書い給へり。
源氏「たぐひなかりし御けしきこそ、辛きしも忘れ難う。いかに人見奉りけむ。

うちとけて ねも見ぬものを わか草の ことあり顔に むすぼほるらむ

をさなくこそものし給ひけれ」
と、さすがに親がりたる御ことばも、いと憎しと見給ひて、御かへりごち聞えさせらむも、人目あやしければ、ふくよかなる陸奥紙に、ただ玉葛「承りぬ。乱りここちのあしう侍れば、聞えさせぬ」とのみあるに、かやうのけしきはさすがにすくよかなり、と、ほほえみて、うちみ所あるここちし給ふも、うたてある心かな。




翌朝、お便りがあった。気分が悪いと、横になっていたが、女房達が、硯などを差し上げて、お返事をと促すので、しぶしぶ御覧になる。白い紙に、表面は穏やかに、生真面目な感じであるのに、見事に書いてある。
源氏は、またとない、なさりようが辛くて、それがかえって、忘れられない。どように、皆が思いましたでしょう。

許しあい、寝たいのでない。若草は、どうして意味ありげに、塞いでいるのだろうか。

子供のようです。と、それでも、親めいた言葉遣いであり、憎らしいと思い、しかし、返事を差し上げなければ、皆が不審に思うと、厚いみちのく紙に、ただ、
玉葛は、拝見いたしました。気分が優れませんので、お返事は、申し上げません、とだけあるのを、源氏は、こういうやり方は、さすがにしっかりしたものだと、微笑み、口説きがいがある気持ちになるのも、困ったことである。

最後は、作者の言葉である。
つまり、作者は、十分の余裕を持って、物語を書き続けているのである。




色に出で給ひて後は、「おほたの松の」と思はせたる事無く、むつかしう聞え給ふこと多かれば、いとど所せきここちして、おき所なき物思いつきて、いとなやましうさへし給ふ。かくて事の心知る人は少なうて、うときも親しきも、むげの親ざまに思ひ聞えたるを、かうやうのけしきの漏り出でば、いみじう人笑はれに、憂き名にもあるべきかな、父大臣などの尋ね知り給ふにても、まめまめしき御心ばへにもあらざらむものから、ましていとあはつけう、待ち聞き思さむこと、と、よろづに安げなう、思し乱る。




一端、口に出してからは、大田の松、と思わせることもなく、煩く言うことが多いので、姫は益々、動きが取れない気がして、身の置き所のない、悩みの種になり、病気にまでなった。
こういうことで、真相を知る人も少なく、他人も、身内も、この上ない、父親だと思っているのに、このような事情が、外に漏れたら、物笑いになり、嫌な評判が立つだろう。父の内大臣などが、尋ねてくれても、親身な気持ちではないから、他人以上に、考えの無い女だと、お耳にして、思うだろう、と、何から何まで心配になり、心は静まらないのである。

おほたの松
恋ひわびぬ 大田の松の おほかたは 色に出でてや 逢はむと言はまし

いとあはつけう
とても、浮ついている。




宮、大将などは、殿の御けしき、もて離れぬさまに伝へ聞き給うて、いとねんごろに聞え給ふ。この岩もる中将も、大臣の御ゆるしをみてこそかたよりにほの聞きて、まことの筋をば知らず、ただひとへに嬉しくて、おりたちうらみ聞えまどひありくめり。




兵部卿の宮、右大将などは、殿の気持ちが、問題にならないと思うわけでもない、と、人伝に聞いて、酷く熱心に、言い寄るのである。あの、岩もる中将も、殿様の許しがあったと、小耳にはさんで、本当のことを知らず、ただ一筋に、嬉しくて、熱心に口説き、うろうろしている様子である。

岩もる大将、とは、柏木のことである。

まことの筋
本当のことである。つまり、玉葛と、実の兄妹であるということ。

玉葛を、終わる。


posted by 天山 at 06:49| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月06日

もののあわれについて591



今はかく重々しき程に、よろづのどやかに思ししづめたる御有様なれば、頼み聞えさせ給へる人々、さまざまにつけて、皆思ふさまに定まり、ただよはしからで、あらまほしくて過ぐし給ふ。対の姫君こそ、いとほしく、思ひのほかなる思ひ添ひて、いかにせむと思し乱るめれ、かの督が憂かりしさまには、なづらふべきけはひならねど、かかる筋に、かけても人の思ひより聞ゆべき事ならねば、心ひとつに思しつつ、さま異にうとましと思ひ聞え給ふ。何事をも思し知りたる御よはひなれば、とざまかうざまに思し集めつつ、母君のおはせずなりにける口惜しさも、またとりかへし惜しく悲しく覚ゆ。大臣も、うち出でそめ給ひては、なかなか苦しく思せど、人目をはばかり給ひつつ、はかなき事をもえ聞え給はず、苦しくも思さるるままに、繁く渡り給ひつつ、お前の人遠く、のどやかなる折りは、ただならず気色ばみ聞え給ふごとに、胸つぶれつつ、けざやかにはしたなく聞ゆべきにはあらねば、ただ見知らぬさまにもてなし聞え給ふ。




今は、こうして、重々しい身分で、何事も騒がずにいられる生活ゆえ、頼りにする方々も、それぞれ身分に応じて、残らずに、希望通り、落ち着いて不安も無く、望み通りに日を送っている。対の姫君だけは、可哀想に、思いもかけない苦労が一つ増えて、どうしようかと、困っている様子。あの丈夫の督の、いやらしい様子に比べれられるものではないが、こんなこととは、まさか誰も気づくまいから、一人で悩み、変なこと、嫌な話と、殿を思うのである。何もかも解る年頃なので、あれやこれやと、考えて、お母様がいらっしゃらないせいと、残念に、改めて、事新しく口惜しく、悲しく思われる。源氏の大臣も、一度口にしてからは、かえって苦しく思うのに、足しげく、お出でになり、お付の者も離れて、静かな時に、我慢できず、意中を打ち明ける、そのたびに、姫は、どきりとするが、きっぱりと、拒絶して、恥をかかせる訳にはゆかないので、ただただ、気づかぬ振りをして、お相手している。

これは、作者の情景描写である。
三人称で、語るのである。

対の姫とは、玉葛である。その心の苦しみを言う。

かかる筋に
養父の源氏が、養女の玉葛に、言い寄ることを言う。

のどやかなる折りは
人の来ない時間が、長い時である。




人ざまのわららかに、気近くものし給へば、いたくまめだち、心し給へど、なほをかしく愛敬づきたるけはひのみ見え給へり。兵部卿の宮などは、まめやかにせめ聞え給ふ。御労の程はいくばくならぬに、さみだれになりぬる憂へをし給ひて、宮「少し気近く程をだに許し給はば、思ふ事をも、片端はるけてしがな」と聞え給へるを、殿御覧じて、源氏「なにかは、この君達のすき給はむは、見所ありなむかし。もと離れてな聞え給ひそ」と教えて、源氏「御返り時々聞え給へ」とて、教えて書かせ奉り給へど、いとどうたて覚え給へば、玉葛「みだりごちあし」とて聞え給はず。




姫は、人柄が、快活で人なつっこくしていられるので、酷く真面目に構えて、用心されるが、それでも、可愛く愛敬のある様子である。兵部卿の宮などは、熱心に口説くのである。名のりを上げてから、まだそれほど経ていないのに、五月雨になったと、泣き言をおっしゃり、もう少し、お傍近くに寄ることを、許して下さるなら。心のうちを少しは、晴らしたいものです、と言って寄越すのを、殿が御覧になり、なに、構わない、この方々が懸想されるところは、見るだけの事はあるだろう。あまり、素気無い扱いはしないように、と諭して、お返事は、時々上げなさいと教えて、書かせるが、益々、不愉快に思うので、玉葛は、気分が悪いと、書かないのである。

五月雨になった
つまり、当時は、五月は結婚を忌むという風潮があった。




人々も、ことにやむごとなく寄せ重きなどもをさをさなし。ただ母君の御叔父なりける。宰相ばかりの人の女にて、心ばせなど口惜しからぬが、世に衰へ残りたるを、尋ねとり給へるぞ、宰相の君とて、手などもよろしく書き、おほかたもおとなびたる人なれば、さるべき折々の御返りなど書かせ給へば、召し出でて、言葉など宣ひて書かせ給ふ。ものなど宣ふさまを、ゆかしと思すなるべし。正身は、かくうたてあるもの嘆かしさの後は、この宮などはあはれげに聞え給ふ時は、少し見入れ給ふ時もありけり。何かと思ふにはあらず、かく心憂き御気色見ぬわざもがな、と、さすがにされたる所つきて思しけり。




女房達も、特に家柄がよいとか、勢力のある家の者はいない。ただ一人、母君の叔父に当る、宰相程度の人の娘で、性質など悪くないが、落ちぶれて暮らしていたのを、探し出した、女が、宰相の君といい、字なども、みっともなくない程度に書き、すべてに行き届いている人なので、適当な相手に御返事などを書かせるので、呼び出して、言葉などを教えて、書かせるのである。宮が口説くところを見たいと、思うようである。
ご本人は、あの泣きたいような事件の後は、兵部卿などが、情を込めた手紙を寄越すと、少し気を入れて、御覧になる時もある。宮に対して、どう思うということはなく、こんなたまらない、源氏の様子を見ないでいることは、出来ないかと、それでも、女らしさができて、思うのである。

されたる所つきて
女らしさの現れる・・・




少し説明すると、父親の頭中将に知らせもせずに、源氏は、玉葛を、東北の御殿に入れて、育てるのである。
紫の上の状態に、似ている。

そして、娘としてはいるが、自分も恋心を燃やして、言い寄るという・・・
他の、若い貴族たちに、見せびらかし、求婚させておいて・・・

以後、玉葛系の話しが続くのである。
物語の構成云々は、しない。
ただ、当時としては、玉葛系は、物語としては、巧みであるといわれる。
これから、暫く、玉葛の物語である。

posted by 天山 at 10:12| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月07日

もののあわれについて592

殿はあいなくおのれ心げさうして、宮を待ち聞え給ふも知り給はで、よろしき御返りのあるをめづらしがりて、いとしのびやかにおはしましたり。妻戸の間に御褥参らせて、御凡帳ばかりを隔てにて、近き程なり。いといたう心して、そらだきもの心にくき程ににほはして、つくろひおはするさま、親にはあらで、むつかしきさかしら人の、さずがにあはれに見え給ふ。宰相の君なども、人の御いらへ聞えむことも覚えず、恥づかしくて居たるを、源氏「うもれたり」とひきつみ給へば、いとわりなし。夕やみ過ぎて、おぼつかなき空の気色の曇らはしきに、うちしめりたる宮の御けはひも、いとえんなり。内よりほのめく追ひ風も、いとどしき御にほひのたち添ひたれば、いと深くかほり満ちて、かねて思ししよりもをかしき御けはいひを、心とどめ給ひけり。うち出て、思ふ心の程を宣ひ続けたる言の葉おとなおとなしく、ひたぶるにすきずきしくはあらで、いとけはひことなり。大臣、いとをかし、と、ほの聞きおはす。




源氏が、酷いことに、一人意気込んで、兵部卿の宮を待ち構えていることも知らず、宮様は、悪くない返事が来た事を喜び、こっそりとお出でになった。妻戸の間に、座布団を差し上げて、凡帳だけを中の隔てにして、姫に近い所である。源氏は、大変心を配り、空薫物を、奥ゆかしいほどに匂わして、世話を焼く様子は、親ではなく、困ったおせっかい者の、それも、まあこれまでもと、お見えになる。宰相の君なども、宮への御返事の申し上げようも解らずに、恥ずかしがるのを、源氏は、しっかりと、つねるので、困っている。夕闇も終わり、淡い月の出た空は、曇りがちで、物静かな宮の様子も、実に美しい。内からの、ほのかな追い風に、更に、優れた源氏の香の匂いが加わり、ひとしお深い香りが、部屋に満ちた。宮は、予想以上に、素晴らしい姫の様子に、心を引かれた。口に出して、思い心のさまをおっしゃる言葉は、落ち着いて、好き心というよりも、どこか違うのである。源氏も、これは、素晴らしいと、聞いている。




姫君は、東面に引き入りて大殿籠りにけるを、宰相の君の御消息つたへにいざり入りたるについて、源氏「いとあまりあつかはしき御もてなしなり。よろづのこと事さまに従ひてこそめやすけれ。ひたぶるに若び給ふべきさまにもあらず。この宮達をさへ、さし放ちたる人伝に聞え給ふまじきことなりかし。御声こそ惜しみ給ふとも、少し気近くだにこそ」など、いさめ聞え給へど、いとわりなくて、ことつけてもはひ入り給ひぬべき御心ばへなれば、とざまかうざまにわびしければ、すべり出でて、母屋のきはなる御凡帳のもとに、かたはら臥し給へり。




姫君は、東座敷に引き込んで、お休みになっている。宰相の君が、お言葉の取次ぎに、入ったのに、源氏がついてきて、どうも、好意のない扱いです。何事も、時と場所に応じたることです。もう子供のような年ではないのです。この宮にまでも、遠く隔てをおいた人伝の挨拶など、されるべきではありませんよ。直接お話しせずとも、せめて少し近くに、などと、お叱りがある。だが、姫は、途方に暮れる。お叱りにかこつけて、こっそりと、入り込みそうな源氏のことゆえ、どちらにしても、辛いことで、そっと出て、母屋の傍の御凡帳の元で、横になっていた。

とざまかうざま
黙っていても、源氏が何をするのか、といっても、宮の傍に行くのも、どちらにしても・・・である。




何くれとこと長き御いらへ聞え給ふこともなく、思しやすらふに、寄り給ひて、御凡帳のかたびらをひとへうちかけ給ふにあはせて、さと光るもの、紙燭を差し出でたるか、とあきれたり。蛍を薄きかたに、この夕つ方いと多く包みおきて、光をつつしみ隠し給へりけるを、さりげなく、とかくひきつくろふやうにて、にはかにかくけちえんに光れるに、あさましくて、扇をさし隠し給へるかたはらめ、いとをかしげなり。「おどろかしき光見えば、宮ものぞき給ひなむ。わがむすめと思すばかりのおぼえに、かくまで宣ふなめり。人ざま容貌など、いとかしくも具したらむとは、え推し量り給はじ。いとよくす給ひぬべき心、惑はさむ」と構へありき給ふなりけり。まことのわが姫君をば、かくしも、もて騒ぎ給はじ。うたてある御心なりけり。こと方より、やをらすべり出でて渡り給ひぬ。




あれこれと、長い物語に、お返事することもなく、考え込んでいると、源氏が寄ってきて、御凡帳の帷子を一枚、上げると共に、ハッと光るものがある。紙燭を差し出したのかと、驚く。蛍を薄い布に、今日の夕方、沢山包んでおいて、光が漏れぬように隠していたのだ。そうと解らないように、そこらを整えるようにして、急に、明るく光ったので、びっくりして、扇で顔を隠された、その横顔は、実に美しいと、見える。源氏は、驚くほどの光が射したなら、宮も覗かれるだろう。自分の娘だと思う、それだけのことで、こんなにも熱心にしている。人柄や器量などが、これほど、整っているとは、まさか思わないであろう。十二分に、女に熱心な宮の心を、迷わせてやろうと、源氏は、趣向を凝らして、動き回っているのだ。
実の自分の姫君は、こんなに、大袈裟な騒ぎはしないだろうと思う。困ったものである。
源氏は、別の戸口から、そっと抜け出て、行ってしまったのである。

最後は、作者の心である。




宮は、人のおはする程、さばかりと推し量り給ふが、少し気近きけはひするに、御心ときめきせられ給ひて、えならぬ羅の帷子の隙より見入れ給へるに、一間ばかり隔てたる見わたしに、かくおぼえなき光のうちほのめくを、をかしと見給ふ。程もなく紛らはして隠しつ。されどほのかなる光、えんなる事のつまにもしつべく見ゆ。ほのかなれど、そびやかに臥し給へりつる様体のをかしかりつるを、飽かず思して、げに案のごと御心にしみにけり。


鳴く声も 聞えぬ虫の 思ひだに 人の消つには きゆるものかは

思ひ知り給ひぬや」と聞え給ふ。かやうの御返しを、思ひまはさむもねぢけたればときばかりぞ。

玉葛
声はせで 身をのみこがす 蛍こそ 言ふよりまさる 思ひなるらめ

などはかなく聞えなして、御みづからひき入り給ひにければ、いと遥かにもてなし給ふ憂はしさを、いみじく恨み聞え給ふ。




宮は、姫の居るのは、あの辺と推測し、その場所がわりに近いので、つい胸がドキドキする。美しい薄物の帷子の隙間から覗き込むと、柱一間一つ隔てた先に、思いがけない、光がちらつくのを、綺麗だと御覧になる。まもなく、女房達が取り囲み、見えなくなった。だが、このほのかな光は、話のきっかけになると思う。微かではあるが、すらりとした、身を横にしている姿が美しいので、もっと見たいと思い、矢張り、心に深く留まる。


鳴く声も聞えぬ、蛍の光でさえ、人の力では、消せないもの。人の心の火が、どうして消すことができるでしょう。

お解かりくださいましたか、と、申し上げる。これくらいの御返事に、思案していては、変だと、ただ早くと思い、

玉葛
鳴きもせず、ただ身を焦がす、蛍のほうが、口に出すより、もっと深い思いでいるでしょう。

など、あっさりと、御返事をして、引き籠ってしまった。随分と、疎ましい扱いを、辛いと、延々と、恨みことを言う。

はかなく聞えなして
何でもないことのように・・・扱うのである。


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2012年12月08日

もののあわれについて593

すきずきしきやうなれば、居給ひもあかさで、軒の雫も苦しさに、ぬれぬれ、夜深く出で給ひぬ。時鳥などかならずうち鳴きけむかし。うるさければこそ聞きもとどめね。御けはひなどのなまめかしさは、いとよく大臣の君に似奉り給へり。と人々もめで聞えけり。昨夜いと女親だちて、つくろひ給ひし御けはひを、うちうちは知らで、あはれにかたじけなしと皆言ふ。




熱を上げすぎたことになると思い、座り込んだまま、軒の雫の苦しさに濡れつつ、夜遅くお出でになった。ホトトギスなども、きっと鳴いたでしょう。
面倒なので、聞きませんでした。
ご様子などの美しさは、とてもよく殿様に似ていらしたと、女房達も誉める。昨夜は、すっかり、女親のように、お世話を焼いたことを、詳しいことは知らないので、しみじみとありがたいと、一同が言う。

この部分は、三人称で書かれている。
作者の言葉、思いが多い。

あはれにかたじけなし
しみじみと、ありがたい、と訳すが・・・
これ以上の、形容詞は中々無いのである。
切々と、ありがたい・・・

しみじみと思うことを、あはれ、であるとすると、あはれ、の風景が狭まる。




姫君は、かくさすがなる御けしきを、「わがみづからの憂さぞかし。親などに知られ奉り、世の人めきたるさまにて、かやうなる御心ばへならましかば、などかはいと似げなくもあらまし。人に似ぬ有様こそ、つひに世語りにやならむ」と、起き臥し思し悩む。さるは、まことにゆかしげなきさまには、もてなしはてじ、と、大臣は思しけり。なほさる御心癖なれば、中宮なども、いとうるはしくやは思ひ聞え給へる。ことに触れつつ、ただならず聞え動かしなどし給へど、やむごとなき方のおよびなさにわづらはしくて、おり立ちあらはし聞え寄り給はぬを、この君は、人の御さまも、気近く今めきたるに、おのづから、思ひ偲び難きに、折々人見奉りつけば疑ひおひぬべき御もてなしなどは、うちまじるわざなれど、あり難く思し返しつつ、さすがなる御仲なりけり。




姫君は、このように、うわべを繕う殿様の様子に、自分の不運なのだ。親などにも知ってもらい、世間並みの人として、このような気持ちを見るのだったとしたら、どうして、不釣合いだろう。普通でない、わが身の状態こそが、情けない。結局、噂の種になるかもしれないと、昼夜、思い悩むのである。
実は、殿様、源氏は、人聞きの悪い扱いにはしないと、思っていた。が、やはり例の性分なので、中宮なども、きれいに思い切ったりするものですか。何かにつけて、普通ではない言いようで、気持ちを引いたりなどするが、身分が高くて、手が届かないゆえに面倒で、自信があって、言い寄ることはしないのだが、この姫君は、様子も親しみやすく、今風なので、ついつい、我慢できずに、時々、人が見つけたら、疑われそうな態度などもある。感心なことには自制はするが、危なっかしい御仲である。

作者の、独白のような書き方である。
玉葛に思いを寄せつつも、親らしくもするという、源氏の様子である。




五日には、馬場の大殿に出で給ひけるついでに、渡り給へり。源氏「いかにぞや。宮は夜やふかし給ひし。いたくも慣らし聞えじ。わづらはしき気添ひ給へる人ぞや。人の心やぶり、物の過すまじき人は、難くこそありけれ」など、活けみ殺しみ戒めおはする御さま、つきせず若く清げに見え給ふ。艶も色もこぼるばかりなる御衣に御直衣はかなく重なれるあはひも、何処に加はれる清らにかあらむ、この世の人の染め出したると見えず、常の色もかへぬ綾目も、今日はめづらかに、をかしく覚ゆるかをりなども、思ふことなくは、をかしかりぬべき御有様かな、と姫君思す。




五日に、馬場の御殿に出掛けたついでに、玉葛の元に立ち寄った。源氏は、どうでしたか。宮は、夜更けまでいらしたか。あまり、近づけないように。厄介な癖を持つ人ですからね。女の気を害したり、何か失態をしない男は、めったにいませんよ。などと、誉めたり、けなしたり、注意をする様子は、言いようも無く、美しく見える。艶々と華やかに見える御衣に、御直衣が、無造作に重なる色合いも、どこから湧き出した美しさなのか。この世の人が染めたものとは思われないようで、いつもと色も変わらぬ衣装の模様も、今日は特に見事で、素晴らしく感ずる匂いなども、物思いがなければ、素晴らしいお姿だと、姫君は、思うのである。




宮より御文あり。白き薄様にて、御手はいと由ありて書きなし給へり。見る程こそをかしかりけれ、まねび出づれば、ことなることなしや。


今日さへや 引く人もなき 水隠れに 生ふるあやめの ねのみなかれむ

例にもひき出でつべき根に、結びつけ給へれば、源氏「今日の御返り」などそそのかし置きて出で給ひぬ。これかれも、女房「なほ」と聞ゆれば、御心にもいかが思しけむ、

玉葛
あらはれて いとど浅くも 見ゆるかな あやめもわかず なかれけるねの

若々しく」とばかり、ほのかにぞあめる。手を今少しゆえづけたらば、と、宮は好ましき御心に、いささか飽かぬことと見給ひけむかし。薬玉など、えならぬさまにて、ところどころより多かり。思し沈みつる年頃の名残なき御有様にて、心ゆるび給ふ事も多かるに、同じくは人の傷つくばかりのことなくても、止みにしがな、と、いかが思さざらむ。




宮から手紙があった。白い薄様で、筆跡は素養の見える書きぶりである。見たときは、素晴らしかったが、今、口にすると、たいしたことがない。


今日さえ、引く人のない、水に隠れて生える菖蒲の根だけ、流れましょう。私も音を上げて、人に隠れて泣きます。
後々まで、例に引かれそうな、長い菖蒲の根に結びつけたので、源氏は、今日のお返事をしなさいと、催促して、出て行かれた。誰彼も、そうおっしゃらないで、と、申し上げるので、何を思ったのか、

玉葛
すべてを見せてくださり、いっそう、浅く思われます。わけもなく流れる根です。わけもなく泣けるという、あなたが・・・

幼くしていらっしゃる、とだけ、薄墨で書いてある。筆跡が、もう少し立派だと、宮が風流な心ゆえ、少々不満に思ったでしょう。薬玉など、立派に作り、あちこちから、沢山届く。情けない暮らしだった、長い年月の跡形もない様子で、心にゆとりのあることも多く、同じことなら、源氏が傷つくまでのことなしに、何とか、おしまいにしたいと、どうして思わないことがありましょう。

これも、三人称である。
作者の思いで書かれる。

後に、付け足された物語であるということが、解るというもの。

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2012年12月09日

もののあわれについて594

殿は、東の御方にもさしのぞき給ひて、源氏「中将の今日のつかさの手結のついでに、をのこども引き連れてものすべきさまに言ひしを、さる心し給へ。まだ明き程に来なむものぞ。あやしく、ここにはわざとならず忍ぶる事をも、この親王達の聞きつけて、とぶらひものし給へば、自らことごとしくなむあるを、用意し給へ」など聞え給ふ。馬場の大殿は、こなたの廊より見通す、程遠からず。源氏「若き人々。渡殿の戸あけて物見よや。左のつかさにいと由ある官人多かる頃なり。せうせうの殿上人に劣るまじ」と宣へば、物見むことをいとをかしと思へり。




源氏は、東の御方にも、顔を出して、中将が今日の、左近衛府の競射のついでに、友人を連れてくるようなことを言ったので、そのつもりで頼む。まだ明るいうちにやって来るだろう。どういうものか、ここでは、内輪の話で隠しておくことでも、例の親王たちが、かぎつけて、わざわざやって来るので、ついつい大袈裟になるものだが。用意をしてくれ、などと、申し上げる。馬場の御殿は、こちらの渡廊から見通せる。それほど離れていない。源氏は、若い女房たちに、渡殿の戸を開けて、物見せよ。左近衛府は、大変立派な官人たちが多いこの頃だ。なまじ、殿上人などに負けないだろう、と、おっしゃるので、女房達は、見物を大変楽しみにしている。




対の御方よりも、童べなど物見に渡り来て、廊の戸口に、御簾青やかに懸け渡して、今めきたる裾濃の御凡帳ども立て渡し、童下仕などさまよふ。菖蒲のあこめ、二監の羅のかざみ着たる童べぞ、西の対のなめる。好ましく慣れたる限り四人、下仕はあふちの裾濃の裳、なでしこの若葉の色したる唐衣、今日のよそひどもなり、こなたのは濃き単襲に、なでしこ襲のかざみなどおほどかにて、おのおのいどみ顔なるもてなし、見所あり。若やかなる殿上人などは、目をたてつつ気色ばむ。




西の対の方からも、童女などが見物にやって来て、渡殿の戸口に、御簾を青々として掛け渡して、今流行りの、裾濃の御凡帳を立て並べて、童や、下仕などが、あちこちとしている。菖蒲重ねの、あこめ、二監の羅のかざみを着た、童女が、西の対の者らしい。感じの良い、物慣れた童女ばかり四人、下仕は、おおちの裾重ねの裳に、なでしこの若葉の色をした唐衣で、皆、端午の今日の装いである。
こなたの、花散里の童女は、濃い紅の、単重ねに、なでしこのかざみなどを、おっとりとして着て、互いに競争しているらしい、立ち居振る舞いは、見ていて面白い。若い殿上人などは、目をつけて、気取っている。




未の時に、馬場の大殿に出で給ひて、、げに親王達おはしつどひたり。手結の、公事にはさま変はりて、すけたちかき連れ参りて、さまことに今めかしく遊び暮らし給ふ。女は、何のあやめも知らぬ事なれど、舎人どもさへえんなる装束をつくして、身を投げたる手惑はしなどを見るぞ、をかしかりける。南の町もとほして、遥々とあれば、あなたにもかやうの若き人どもは見けり。だきょうらく、落蹲など遊びて、勝負の乱声どもののしるも、夜に入りて、何事もみえ見えずなりはてぬ。舎人などの禄しなじな賜はる。いたく更けて、人々皆あかれ給ひぬ。




午後一時頃、馬場の御殿においでになると、なるほどに、親王達が集まる。競技も公式のものとは趣が違う。中将、夕霧たちも、連れ立って参加している。一風変わって、華やかに、暗くなるまで遊ぶのである。女は、玉葛は、何も解らないことなのだが、舎人たちまで、見事な装束を着飾り、命懸けの、秘術を尽しているのを見るのは、面白い。馬場は、南の紫の上の御殿まで通して、続いている。あちらでも、このような若い人たちが、見物している。だきゅうらく、落蹲などを奏でて、勝ち方の楽隊などで大騒ぎするうちに、すっかり夜になって何も見えなくなった。舎人どもが、色々と禄を頂戴する。ひどく夜が更けてから、人々が皆、帰ったのである。




大臣は大殿籠りぬ。物語など聞え給ひて、源氏「兵部卿の宮の人よりはこよなくものし給ふかな。容貌などはすぐれねど、用意気色など、由あり、愛敬づきたる君なり。忍びて見給ひつや。よしと言へど、なほこそあれ」と宣ふ。花散里「御弟にこそものし給へど、ねびまさりてぞ見え給ひける。年ごろかく折り過ぐさず渡り睦び聞え給ふと聞き侍れど、昔の内わたりにてほの見奉りし後、おぼつかなしかし。いとよくこそ容貌などねびまさり給ひにけれ。帥の親王よくものし給ふめれど、けはひ劣りて、大君けしきにぞものし給ひける」と宣へば、ふと見知り給ひにけり、と思せど、ほほ笑みて、なほあるをば、よしともあしともかけ給はず。人の上を難つけ、おとしめざまのこと言ふ人をば、いとほしきものにし給へば、右大将などをだに、心にくき人にすめるを、何ばかりかはある、近きよすがにて見むは、飽かぬ事にやあらむ、と見給へど、言にあらはしても宣はず。




大臣、源氏は、花散里の元で、休まれた。お話などされて、兵部卿の宮は、人より、ずっと立派でいられる。お顔は、それほどでもないが、身だしなみや態度は、教養が見えて、愛すべき方です。そっと御覧になりましたか。立派だといえるが、もう一息だ。とおっしゃる。花散里は、弟君でいらっしゃいますが、お年上に見えます。ここ何年か、このように、折りあるごとに、お出でになっては、親しくされていると聞きますが、昔、宮中でお見受けしてからは、よく存じ上げません。たいそう、ご立派に、お顔立ちなどは、お年と共に、おなりになりました。帥の親王は、ご立派ではいらっしゃいますが、どうも品が落ちて、王族程度のようです。と、おっしゃる。一目で見抜いていると、源氏は思ったが、微笑んで、それでも今に生きている人は、良いとも悪いとも、おっしゃらない。他人のことは、難癖をつけ、悪口をいう人を、困った者だと考えているので、右大将などをも、世間では、立派だと言うらしいが、何のたいしたことがあろうか。身内の者として見るには、不十分だと思うが、口に出しては言わないのである。

右大将とは、黒髭右大将のこと。

心にくき人にすめる
世間で言うこと。

近きよすが、とは、身内の事。ここでは、玉葛の婿になる者をいう。

遊びの後に、源氏が花散里の部屋に渡り、休むのであるが、二人の話は、何気なくも、物語の核心を突くような話しをしている。

構成されているような雰囲気である。
それが、また、面白い。


posted by 天山 at 06:22| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月10日

天皇陛下について135

建久三年、1192年、後白河法皇が崩御された。
その院政の期間は、34年である。

頼朝も、さすがに日本一の大天狗と、憤慨した御方の崩御である。

同時に、後鳥羽天皇の親政に入る。

その七月、源頼朝は、征夷大将軍に任ぜられる。
名実共に、全国武士の頭となるのである。

この職名は、蝦夷を征伐する大将軍である、坂上田村麻呂につけられ、源義仲が任じられた時から、武士の長となるという意味合いになった。

そして、鎌倉幕府の登場である。
それが、約140年続く、鎌倉時代である。

それ以来、武家政治か決まりのようになった。
源氏、北条、足利、徳川・・・

およそ、680年間続くのである。

ただし、頼朝は、反天皇ではない。
熾烈な尊皇精神の持ち主である。

ある僧侶の手紙に、頼朝のことを、君、と書いてきたものがあり、即座に、君とは、天子のことである、いかに私を尊敬するためとはいえ、こういう畏れ多いことをしてはならぬ、と答えている。

更に、平家が滅びた原因を知る彼は、常に武芸を奨励し、名誉のために捨て身の覚悟を心がけることを、そして、質素倹約を旨とした。

それが、いずれ、武士道として花開くのである。
その心は、
勅命に背くものは、この日出ずる国日本から、出てゆけ、である。

勅命とは、天皇の命である。

だが、頼朝は、人を妬み、疑う心が深いあまりに、弟、臣下の者を、多く殺した。そのため、源氏の勢力を弱めたのである。

開幕の翌年に、弟の範頼を修禅寺に追い詰め、殺したのである。
その前は、義経である。

頼朝は、それから六年後に死ぬ。53歳である。

頼朝が歿した年、正治元年、1199年正月、後鳥羽天皇は、為仁親王に御譲位される。
第八十三代土御門天皇である。

だが、それから24年間、院政をとられる。

幕府の方は、18歳の頼家が継いだ。
傍には、母親の、北条政子、そして、北条時政、義時、大江広元、三善康信、和田義盛、梶原景時らがいた。

しかし、病気がちであり、その性格に問題があった。
修善寺にて、時政により、殺されることになる。

その後、千幡、後の、実朝、12歳が継ぐ。

当時、将軍を助けて、政治を取り締まる役を、執権といった。
これを、政子の父である、時政が担当していた。

時政は、実朝を廃し、娘婿の平賀朝雅を立てようとした。
だが、失敗する。そこで、隠居である。

次の執権は、義時である。

元久二年、新古今和歌集が出来た年である。

それから、14年目の、承久元年、1219年。
実朝は、右大臣拝賀の礼を鶴岡八幡宮にて行った。その帰路、別当公暁によって、殺された。公暁は、頼家の子である。

28歳だった実朝は、聡明だったが、胆力に欠けた。
歌人としては、有名である。

山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君に二心 わがあらめやも
後鳥羽上皇に贈られた歌である。

山が裂け、海が枯れるようなことがあっても、天子さまには、背くことはない。

時により 過ぐれば 民の歎きなり 八大竜王 雨やめたまへ

物いはぬ 四方のけだもの すらだにも あはれなるかな 親の子をおもふ

万葉集の世界へ立ち返るような歌詠みをしたのである。

源氏は、僅か三代、28年で滅びた。

この時、第八十四代、順徳天皇、1210年より1221年。
九年前の承元元年、1210年、先の土御門天皇の、御譲位により、せんそ、された。つまり、再度、御位に就かれたのである。

ところが、実朝没後、二年目の承久三年、順徳天皇は、四歳の懐成、かねなり親王に御譲位された。

第八十五代、仲恭天皇、ちゅうきょう天皇である。
つまり、この時、三人の上皇が出来た。
そのため、後鳥羽法皇を、本院、土御門上皇を、中院、順徳上皇を、新院と、お呼びした。

実は、鎌倉幕府は、実朝が歿した後、執権義時と、政子は、後鳥羽上皇に、上皇さまの皇子を四代将軍にと、申し出ている。

だが、上皇は、源氏が絶えた以上は、政治は朝廷が行うべきだとの、お考えであった。
また、万が一、皇子を鎌倉にやり、京と鎌倉で戦が起きた場合は・・・
ゆえに、許さなかった。

上皇は、倒幕への御心があった。

posted by 天山 at 23:37| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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