2012年11月12日

神仏は妄想である。390

天台宗を開いた最澄が、比叡山を開くにあたり、大山昨神、おおやまいくのかみ、更に、大三輪神、おおみわのかみ、を勧請して、日吉山王、ひえさんのう、と称した。

ここで、面白いのは、勧請したということである。
何故、そんなことが出来るのか・・・出来ない。

勧請とは、お呼びすることである。
ここにいらして下さいと、願うことである。
僧侶が何故、そんなことが出来るのか・・・
ここでも、その妄想の極みが見える。

兎に角、山王一実神道が出来たのである。

仏教神道、天台神道・・・
誠に、奇妙なものである。

ちなみに、山王とは、日吉神の別名である。

最澄の妄想は、色々あるが、省略する。
釈迦如来を、どこどこの神の本体に定めただのという、笑い話ばかりである。

この山王一実神道が確立させたのは、鎌倉時代の、元寇による、日本侵略の時に、神国日本という、思潮が最高潮に達した時である。

また、その頃は、鎌倉仏教が興る時期である。
浄土宗、臨済宗などが、勢力を盛り上げた。つまり、旧仏教である、天台、真言が侵食されてゆくのである。

そこで、日本の神を奉じる、朝廷、貴族、武家、豪族との連結を強めるために、神道思想をこしらえたのである。

鎌倉の新興宗教の撲滅を願ったのである。
そして、自ら、この神道が日本最高の神道と言い出すしまつである。

本地垂迹説にのっとって、日吉神の信仰と、天台密教を結合させるという、狂いである。

その後は、鎌倉末期から、室町時代に至り、吉田神道、伊勢神道の影響を受けて、日吉神と天照大神との一体説まで生まれた。

吉田神道については、後で書くが、これも、実に曲者である。
神道の堕落に手を貸した、吉田神道である。

更に、この山王という文字に、屁理屈をつけたから、笑う。
その文字は、山も、王も、三本と一本の線から出来ている。
これは、天台宗の観想の方法である、三諦一実という教えから出ているというもの。

三諦一実を、山王で表すというのである。
また、三諦一実は、生死や煩悩を脱して、悟りの境地に達するという、一心三観の悟り、日の心が、そのまま全宇宙であるという、一念三千を象徴するともいわれる。

兎に角、何とでも言うのである。

織田信長の、比叡山焼き討ちにより、日吉山王社も焼失したが、豊臣秀吉、徳川家康らによって、再興された。

江戸時代になると、家康の参謀でもあった、天台宗の天海僧によって、再び勢いを増す。

また、この天海も、こじつけの専門であるから、何やら、色々と屁理屈をつけた。
日吉神と、天照大神と、大日如来は、一緒であるという、仰天したことを言うのである。

神仏の元は、天照大神であると、幕府の力を背景にして、この神道を盛り上げたのである。
本当に、節操が無い。

そして、山王一実神道も、儒学系の、吉川神道、垂加神道、復古神道によって、批判されるようになるが、それぞれ妄想の産物であり、呆れるばかりである。

いずれ、明治維新により、神仏分離となり、廃絶されることになるが・・・

さて、神道の稀代の詐欺師といえば、吉田神道の、吉田兼倶である。
室町末期、仏教、儒教の教えを交える事無く、我が国固有の神道を説いたといわれる。

その実、やったことは、詐欺である。

神産霊神、かみむすびのかみ、の子、天児屋根命、あめのこやねのみこと、から直接伝えられ、それを継承した絶対的本源的神道という意味で、唯一宗源神道などとも、言われる。

伊勢神道に続く、神主仏従の考え方、つまり、仏教を神道の格下とする考え方である。

神々を中心とする、神道教義をはじめて作り上げたといわれる。
が、それ自体が、嘘である。
神道には、教義も無く、教祖もいないのである。

神道理論と言われるが、理論があれば、神道ではない。
神道は、ただ、所作にだけ意味がある。

吉田神社は、平安中期に、藤原氏が奈良の春日大社に祀る氏神を、京都の神楽岡西麓の吉田山に勧請し、平安京の鎮守神として創建したのが、はじまりである。
室町期に衰え、南北朝を経て、応仁の乱以後は、荒廃してしまったのである。

そこに、兼倶が登場する。

政治力を使い、神道の総本山の位置の基礎を築いたのである。
吉田家は、何とそれでも、幕末まで、その地位を持ち続けたのであるから、大したものである。

吉田家とは、元々、卜部氏の後裔であり、占いの一つである、亀卜を司る家系である。
徒然草を書いた、吉田兼好も、吉田家の出である。
優れた学者が多いことで、知られる。

兼倶の兄は、比叡山で天台教学を学び、伊勢神道の立場をとって、豊葦原神風和記などを著した、慈遍などもいる。
家代々の書物もあり、そこで十分に学ぶ事が出来たという、環境にいた、兼倶である。

ただし、そこで理論を作るということは、仏教、儒教だけではなく、道教の影響が、多分にあるということである。

そこから、方法を学び、とでもない妄想を繰り広げたのである。
次回に、その妄想を紹介する。



posted by 天山 at 07:20| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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